(23.1.21) NHK 秩父山中 花のあとさき

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 おそらくこれほど感動的な映像はそれほど多くない。
奥秩父の山奥に住んでいた小林ムツさんと公一さんの夫婦が、耕してきた段々畑を閉じるにあたって、そこに木と花を植えて山に返した話である。

 この二人が住んでいた所は埼玉県吉田町大田部楢尾おおたぶ ならお)だが、私の見ている地図にはこの地名がなく、はっきり分からないような場所だ。
映像では群馬県と境を接する下久保ダムが映し出されていたからその近くだろうとは思うが、かなり山の中だ。

 この地区一帯にはかつて700名近くの人が住んでいたが、下久保ダムの完成に伴い道路が整備され都会との交通が便利になった。
それまでこの地区は農業と林業と養蚕で生計を立てていたが、多くの働き手が町の工場に働きにで、さらに若者がこの地区を去ってしまい典型的な過疎の村になっていた。

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(
ムツさん

 ムツさん公一さんが住んでいた楢尾地区はこの番組が放送された2002年の段階で、戸数5戸、住民9人の集落になっていた。
映像で見る限り戸数は10戸程度はあったので、半数はすでに廃屋になっていたのだろう。

 ムツさん(当時78歳)と幸一さん当時76歳)は老齢になって段々畑での農作業が不可能になった。
しかし畑をそのまま放っておくと雑草と蔓草が繁茂して荒れてしまうので、その後に木の苗と花を植え、雑草を取り除いて畑を山に返そうとし決心したのだそうだ。

これまでお世話になった畑が荒れ果てているのは申し訳ない。せめて花を咲かせて山にお返ししたい
そういうムツさんの若々しさには驚かされる。子供のようなつややかな肌で、加齢のために出ているしわがあるが実にかわいい顔立ちで、話も弾み声もころころところがるような声だった。
一方公一さんは無口で典型的な農夫の雰囲気をかもし出していた。

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(楢尾の春

 ムツさん公一さんは過去10年余りに渡って、1万本以上の木の苗と花をこの楢尾地区に植えてきたのだという。
春になると一斉に草花が咲き誇り、杏の花が美しかった。

 私がこの「秩父山中 花のあとさき」の再放送を見たのは昨年の年末だが、2002年に放映された時もこの放送を見ていた。
当時は「ずいぶん奇特な人もいるものだ」程度の印象しかなかったが、あらためてこの番組を見て自分の不徳を恥じた。

 日本の過疎化の速度はおそらく世界最高レベルで、奥秩父の山村から人が消えるのは時間の問題になっている。
かつては多くの人々が暮らした集落も家が朽ち、畑は蔓草が繁茂して、かつてここに人がいたことすら分からなくなるに違いない。

 しかしここには確かに過去150年間にわたって人々の営みが有り、助けてもらった畑や森林があったのだから、自然に対して御礼もせずに畑を返すわけにはいかないとムツさん公一さんは考えていたようだ。
村に誰もいなくなっても、人が訪れてきて花が咲いていたらどんなに嬉しかろう

 2002年のこの番組では楢尾地区の住民の1年間の営みを追っていたが、その後のムツさんと公一さんを追った番組が数本作られている。
この番組を見てとても驚くのは楢尾地区の人々がごく自然に振舞っており、それに画面には出ない撮影者がさりげなく語りかけていることだ。

注)・ムツばあさんの花物語 秩父山中 段々畑の日々
  ・秩父山中 花のあとさき(ムツばあさんの秋 続編)
  ・秩父山中 花のあとさき(ムツばあさんのいない春)

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苗木を植えているところ

 こうした番組は撮影者と映される側の住民との厚い信頼関係がないとできない番組で、長い年月をかけて信頼関係が築かれたのだろう。
NHKの番組制作者の心根の優しさも同時に伝わってくるすばらしい人間ドキュメンタリーで、ムツばあさんのようなさりげなく自然と同化した人との生涯をこのような形で映像に残してくれたことに私は感謝した。

 山から恵みを受けてきた歳月を感謝して、それを元の美しい姿にして山にお返ししようとするこの人間性の高さはどうだろう。
自然を略奪の対象にして恥じない現代文明からムツさん公一さんは最も遠くにいる人だが、このような人が日本人にいたことに私は誇りに思った。
そして今は無き二人の生涯がとても豊かなものだったと心から思わずにはいられなかった。

注)公一さんは2006年、ムツさんは2009年に亡くなられた。

 

 

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