(20.1.21) 失敗記 その11

おゆみ野四季の道」のテーマソング。以下のファイルをダウンロードすると曲が始まります。
 「pianotokurarinetto.mid」をダウンロード


 ひどい状態になってきた。自動車の運転がまったくできなくなってきたのだ。

(自動車運転の巻)

 私は日常ほとんど運転をしない。年に2~3回がいいところだったが、ここ1年まったく運転をしなかった。

 ところが先日(19日)、かみさんから資源ごみを回収場所まで運んでほしいと依頼された。新聞紙の包みが10袋、それに衣類を入れたビニール袋が一袋である。

 回収場所まではおよそ200m程度だが、新聞紙の包みは一つ当たり4kg程度ある。
こりゃ、ちょっと重そうだ。何回も手で運ぶのはしんどそうだ」 

 仕方がないので久しぶりに自動車で運ぶことにした。
おとうさんは運転できるの」かみさんが心配そうに言う。
免許暦、40年のベテランだ」みえをきった。

 ところがいざ自動車を運転しようとしてびっくりした。どちらがアクセルブレーキか分からないのだ。
代わりばんこに動かしてみてようやくアクセルブレーキの区別がついた。
ああ、そうだ。大きいほうがブレーキだ

 次に足の置き方が分からない。
とりあえず右足をアクセルに乗せ、左足をブレーキに乗せてコントロールしようとしたら、足への指令がちぐはぐになって、動くのだか止まるのだか分からない状態になってしまった。

 急発進、急ブレーキもいいところだ。
朝早く誰も通らないからいいようなものの、もし人がいたら大変だ。

 ようやくアクセルブレーキ右足一本でコントロールしていたことを思い出した。
ああ、そうだった。アクセルとブレーキは右足の操作だった

 ここまでくるのに5分以上かかっている。

 ようやく自動車は動き出し、資源ごみを回収場所においてきたが、今度は車庫に入るのに一苦労だ。
以前は一度でできた車庫入れを、何度も出し入れしてようやく入った。
こんなところをかみさんに見られたら何をいわれるかもしれない。やれやれだ

 ところが、こんどはどうしてもが抜けない。ヒア汗が出てきた。
なぜだ、なぜ鍵が抜けない

 かみさんのいやみが頭をよぎった。
やはりお父さんは認知症ね。病院にいったら

 こおいうときは娘に助けを求めるに限る。娘はかみさんと違って皮肉をいわない。
寝ている娘に懇願して、かみさんに知れないように自動車を見てもらうことにした。

おとうさん、ギアはパーキングになっている?
もちろんだ。そんな初歩的なミスはしない」見栄を張った。

おとうさん、これギアがニュートラルよ。これじゃあ抜けないわ」娘があきれている。

 信じられないことに、私はパーキングニュートラルの区別がつかなくなっていた。
おとうさんはこうした時・・・いいい・・・頭が真っ白になるから・・・そお・・大きく深呼吸してもう一度見るの」娘にたしなめられた。
小学生並だ。

 しかし、本当にどうしたらいいのだろう。1年ですっかり運転を忘れてしまっている。
時々運転をすればいいのだが、私の生活の中で運転をする機会はほとんどない。
移動は歩くか、走るか、自転車だ。

 かみさんから「認知症だ」といわれるくらいなら、一生自動車の運転をやめたほうがいいのではないかと思っている。

 

 

 

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(19.11.16)失敗記 その10

 なんともひどい状態になってきた。昔の話ではない。今の状態である。
このところ約束した場所と時間の取り違えが頻発している。あまりにちょくちょく起こるので対応策が必要になった。

日時と場所の取り違えの巻

 今日(15日)の話である。朗読会の準備としておゆみ野WALKERSのAさん、Bさんと9時に会う約束になっていた。場所は鎌取コミュニティーセンターである。

 私は何の躊躇もなく「おゆみ野公民館」で二人を待っていた。メールで何回も「鎌取コミュニティーセンター」と記載されているのを見ていたのに、自信満々「おゆみ野公民館」にいたのだ。
Aさんが気を利かして、「おゆみ野公民館」に電話してくれなかったら、そのまま居続けたに違いない。

 実は私は「鎌取コミュニティーセンター」を知らなかった。メールでこの名前を見たとたん、前回事前リハーサルを行った「おゆみ野公民館」だと思ってしまい、名前の相違はその段階で捨象されてしまった。

 信じられないかもしれないが「鎌取コミュニティーセンターおゆみ野公民館」と理解したのである。
名前が少し違ってるみたいだが、同じ場所にちがいない

 時間の間違いはあまりに頻繁なのでいやになる。先日千葉市から、落書き消去用のペンキを届けてもらったが、午後2時の約束を午前10時と取り違えた。これは私が清掃活動から帰宅して自由になる時間が午前10時なので、勝手に10時と思い込んでいたのである。
10時でないと家に帰っていないので10時だ

 ちはら台走友会の槍ヶ岳登山についても、1日、日にちを間違えていた。責任者のCさんが確認のTELをしてくれなかったら、完全に取り残されるところだった。
実は金曜日の夜出発する予定だったのだが、私の登山は金曜日の夜半に無理して出発したことがなかったので、のんびり土曜日の出発だと思っていたのだ。
平日に出発することなんかあるはずがない

 こおしてみるといずれも自分の思い込みで間違えているのだが、その思い込みは自分の生活パターンからきていることがわかる。
自分は「こうだから」ほかの人も「そうだろう」と思ってしまうようだ。
もちろん、相手の生活パターンがわかれば修正が効くのだが、そうでないと未来永劫間違ってしまいそうだ。

 私がパターンで、時間や場所を認識してしまうのには深い理由がある。実は私は大変記憶力が悪いので、行動をパターン化することで記憶を補うこととした。 一種の生活の知恵だ。
私の行動様式は○○だから、このような状況では、××の行動をしているはずだ。
これには一定の効果があるのだが、相手の行動様式を知らないと、自分の行動様式で判断してしまうと言う、決定的な弱点がある。

 今回は深く反省をした。といっても私の頭の構造は変わりそうもない。相変わらずパターンで認識してしまいそうだ。
仕方がないので、これは最終確認手段を持つことが一番だと悟った。

 いままで持つこともなく、操作することもできなかった携帯電話を購入し、それで私の頭の構造をカバーすることにした。
もともとの携帯電話購入のきっかけは、携帯電話でブログを見てもらうためのテストのつもりだったが、そんな悠長なことは言っていられない。

 誰もこないで一人ぼっちのときに、「しまった、またやったな」と思ったら携帯電話で「私、場所か時間を間違えてますか」と確認しよう。
最近、山崎さん、何かへんなんじゃない」そう言われてしまうのは致し方ないと覚悟をきめた。

50歳以上の方にお伺いします。あなたの場所と時間のとり違いの程度はどの程度でしょうか。

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(19.9.10)失敗記 その9

 若いうちは自分がどのような能力があるのかも分からないし、どのような職業を選んだらよいのかも分からない。しかし直感のようなものがあって、一度はそうした仕事につきたいと思うものらしい。
だが多くの人は直感ではなく、世の習いにしたがって職業を選び、年をとってから苦い思いにかられる様だ。
私の場合もそうだった。

職業選択の巻

 青年海外協力隊と言うものをご存知だろうか。20歳から39歳までの若者を対象に、主として低開発国に2カ年間、何らかの支援を目的に送り出す事業である。
若者であるからほとんどが技術者ではない。いわば情熱だけで現地に溶け込み、教育や簡単な医療や、スポーツの手助けをするボランティアだと思えばよい。ただし最低限の生活費は支給してもらえる。

 元々はアメリカで始まった平和部隊が手本で、日本では1965年から派遣が始まり、現在まで約3万人がアフリカやアジアや中南米を中心に派遣された。今現在活動している人員はおよそ2500名だそうだ。

 実は、私が大学を卒業したのは1970年であり、青年海外協力隊の創業期にあたる。
ある日、青年海外協力隊の募集要項をみて、勇んで応募に駆けつけた。海外で生活することも魅力だったが、何よりも低開発諸国の人々に役立つのだと言うことが、若者の心を奮わせた。

 事務所で「是非、青年海外協力隊員として派遣してほしい」などと高揚した気分で応募の動機を話していたら、急にこの事務所のある人から別室に呼ばれてしまった。
その人は「自分は君と同じ大学の先輩にあたる」と自己紹介をした後、信じられないようなことを言った。

青年海外協力隊に応募する人のほとんどが、いわば日本ではまともな職業に就けない人たちで、君のようにどのような会社でも入れる人間の来るところではない
だから君は日本の大手企業に入り、まともな生活をしなさい」と言うのだ。

 実際当時は高度成長期の真っ只中にあって、どこの企業も募集に血眼になっていた。望めばどこの企業にも入れたので、わざわざ海外の、しかも低開発国に行くのは「まともな職業に就けない人」か「つきたくない人」だったのは事実である。

 勇んでいただけ気持ちが落胆したが、結局私はこの先輩のアドバイスを聞きいれ、青年海外協力隊の応募はあきらめ、ある金融機関に就職した。
しかし61歳の今になって「その選択が正しかったのかどうか」疑っている。

 その後の人生を振り返ってみると、私は会社人間としては異邦人だったし、出世とは縁遠い存在だった。いつも居場所の悪さを感じていたのも事実である。他に自分に適した仕事があるはずだと、シナリオライターを目指したり、国連職員を目指したりした。
しかし結局はこの金融機関に最も長く勤めた最年長の職員として退職した。本当に私以上の年配者は、この企業のトップただ一人だけだったのである。

 退職してから1年間立ったが、その間はボランティアしかしていない。主として清掃ボランティアであったり、里山開発のボランティアであったり、小学校の草刈りやパソコンボランティアだが、実に楽しいのだ。
ボランティアだから報酬は期待できないが、一方ボランティアだから自由気ままにできると言うよさもある。

 こうしたことができるのも企業に37年間勤めて年金生活が可能になったからだともいえないわけではない。
一方、こんな楽しいボランティア生活なら、当初から青年海外協力隊に応募し、その後の人生をそおした活動に費やしても良かったのではないかとの思いにかられる。

 青年海外協力隊の事務所にいた先輩は、明らかに好意でアドバイスしてくれたのだが、私の場合は「不適切なアドバイス」だったのではなかったかと今にして思うのである。
こんなに楽しいなら、最初からボランティア生活すればよかった」そお思ってしまうのだ。

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(19.7.23)失敗記 その8 

 健康に対する過信は、限度を越えるとその後の人生に大きなマイナスの影響を残す。私の中耳炎から真珠腫(しんじゅしゅ)性中耳炎への移行、そして手術の過程はまさにそうしたものだった。

(真珠腫性中耳炎の巻き)

 私は若かった頃、極度に健康に自信があった。どんな風邪でも一日布団に入って寝れば直ったし、そもそもほとんど病気になることはなかった。
若者は病気にならないし、ほっておいても直る

 私が大学1年のとき、愛知県常滑市で水泳部の合宿がおこなわれた。当時私は水泳部で最遅のクラブ員だったが、日夜クイックターンの練習をさせられた。
その過程で中耳炎にかかったらしが、合宿の打ち上げで常滑の海岸で素もぐりをして楽しんだため、さらに症状が悪化した。
数日後、耳垂れがでてそれが固まり外耳をふさいでしまったのである。

 本来なら、その段階で医者に行き、中耳炎の治療をすべきだが、私は過信して医者に行かず、耳掻きで塊をほじくりだした。
中耳炎なんて、こおすれば直る

 当時は気がつかなかったが、無理に塊を掻き出したため、鼓膜に穴が開いてしまったらしい。その後は海で泳ぐたびに、中耳が痛み、耳垂れが外耳をふさいだが、同じように耳掻きで掻きだしていた。

 30歳頃から症状はだんだん悪化し、毎年冬になるとひどい風邪をひくようになった。一週間程度症状が抜けず、中耳は常時痛み、そのたびに耳垂れが外耳にこびりつく症状に悩まされた。
 この頃はさすがに医者に通っていたが、医者の治療は通常の中耳炎の治療をでなかった。
しかし、年々症状は重くなる。
これは、おかしい。なにか重症の耳の病気ではないかしら

 思い余って、順天堂大学の付属病院で検査を受けた。36歳のときである。
これは真珠腫性中耳炎だな、手術をしないとだめですね

 真珠腫性中耳炎の知識のない人のために説明すると、中耳炎のなかで最も悪質な中耳炎だと思えばよい。内耳に真珠腫という、まさに真珠のような塊ができて、それがだんだん大きくなり内耳を壊してしまうほど大きくなる。
内耳のそばには神経の束があるので、ここが圧迫され症状としては常時めまいがし、最終的には死にいたる怖い病気だ。

 幸いにも、当時順天堂大学のエースと言われた助教授が手術を担当してくれて、真珠性中耳炎は全快したのだが、右の耳の聴力は極端に低下し、ほとんど聞こえなくなってしまった。
でも、まあ、左の耳が聞こえるからいいや

 実はこれが過信であることはすぐに分かった。左の耳のも軽い中耳炎があり、当時でも普通の人の80%程度の聴力しかなかったが、年齢を重ねるにしたがって、聴力はますます落ちてきた。

 今では、NHKのニュース以外はまともに聞こえず、それも音量をかなり高くしないと聞こえない。通常の会話でも半分ぐらいしか聞こえないので、想像力で聴力を補っている。日常活動の不便はひどいもので、マクドナルドの女性の早口なんかは、ひばりのさえずりだ。

 こおなったのも、若い時代に健康に過信し、自分勝手な治療で満足したからだと思うと、自業自得といえる。
 しかし耳がまともに聞こえない不便さは想像以上で、これが健康面での私の最大の失敗になっている。

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(19.4.20)失敗記 その7

415_026  何度かトライをした。自分としては十分に努力をしたこともある。それでもどうしても到達できない壁のようなものがあった。英会話の能力のことである。

(英会話の巻)

 英語、わけても英会話のことについて話すのはつらい。なぜこんなにも無能なのかという話になってしまうからだ。息子や娘を見てみると、高校や大学の成績は良いとはお世辞にも言えないのに、楽々と英語を話している。

 私は子供たちに比較して学生時代の成績は良かったし、英語の読解力はそこそこあるのに、英会話となるとまるで児戯に等しい。読むことはできても会話ができないという、日本英語教育の典型的な生徒になってしまった。

 自分の欠点は十分に理解していたので、英会話の訓練もかなり実施した。NHKの英語番組は欠かさず見たり、NOVAのような英会話教室に通ったり、一時はウォークマンで英会話のテープを会社の行き帰りに聞いていた。

 特に私が勤務していた会社は、海外に数支店を持っており、国際関連の取引が活発だったから、英語の習得を熱心に支援した。
 はっきり言ってしまえば、「会社のもっとも日のあたる場所で仕事をしたいのなら、英語、わけても英会話の能力を磨け」ということだ。

 私もサラリーマンだから、何とか英語の能力を認めてもらい、国際畑で仕事がしたかった。私のいた会社ではトッフルリーディングヒアリングのテストが行われており、ここで最低でも600点を取ることが、国際畑で仕事をする条件になっていた。しかしどんなに努力しても私の成績は500点前後にとどまった。

頭が悪いのかしら、耳が悪いのかしら
 実を言うと、私の右耳は真珠腫性中耳炎の手術をした後、極端に聴力が落ちている。左の耳もあまりよくない。原因を頭の悪さにするのはつらい。耳が聞こえないことが原因とすることにした。

耳が悪いのに無理するのはよそう。英語ができなくても会社を追い出されるわけではない。今の部署に骨を埋めよう

 その後、英語のことはすっかり忘れていた。私のいたシステム部門は、国際系システムを除いて、英語はほとんど必要なかったせいもある。そうして、定年退職を向かえた。昨年のことである。

 しかし、人間の運命とは分からないものだ。息子がオーストラリアの女性と結婚したために、親戚がオーストラリア人になってしまった。
 こうなると耳が悪いので、英語など知らないなんて威張っていられない。早い話が結婚式では愛想良くオーストラリアの親戚と話をしなければいけなかったし、その後のe-mailのやり取りもある。

 息子のよめさんは日本語がたどたどしいので、英語でコミュニケーションをとらざる得ない。息子の友達もオーストラリア人が圧倒的に多いので、会話は英語だ。
しかも信じられないことに、嫁さんのお母さんが日本語の勉強を始めた。70歳である。60歳の私が弱音を吐くわけには行かなくなった。

もう一度、がんばろう。何とかして最低限のコミュニケーションがとれるレベルを目指そう。そうしないと親戚とも会話ができない
 そう決心して、日常英会話の本とCDを買ってきた。今度は英会話をしなければならない必然性が高いので、うまく行くかもしれない。
 嫁さんのお母さんと競争だ。

 そんな望みにかけて最後のトライをすることにした

 

 

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(19.4.8)失敗記 その6

 これは本当の話である。私は冗談が多いので、冗談と真実との境目がはっきりしないが、実際シナリオライターになろうとして、足掛け4年間奮闘努力した。
 そして、プロになれる一歩手前で挫折した。45歳前後の話で、約15年ほど前になる。

(シナリオライターの巻)

  東京にはいろいろな教室がある。放送作家教室もその一つで、プロのシナリオライターを養成するため、現役のシナリオライターが指導に当たっていた。
 金子成人氏や、布施博一氏や、竹内日出男氏といった日本のシナリオ界を代表する人たちがかわるがわる教師になって指導をしていた。
 
 当時の放送業界は、バブルがはじけた後もなお収益を十分確保しており、テレビドラマ制作に対し十分に資金をつぎ込むことができていたらしい。そのため、新人のシナリオライターの発掘が急務だったのである。

 生徒数は正確に何人か分からない。しかし常時300人程度はいたと思う。シナリオ教室はいつも満員だった。ここで生徒はプロのシナリオライターの指導を受けながら、4百字詰め原稿用紙で60枚程度の作品を、年間2本作成することが義務づけられていた。

 そして、年に1回、教室内のコンテストがおこなわれ、私は1989年度のコンテストで、優秀賞を取った。題名は「市民ランナー1990」と言う。
 当時から私はマラソンが趣味で、よく神宮外苑でトレーニングをしていた。その経験と、私が勤務していた金融機関の渉外担当の経験をミックスして、うだつのあがらない職員が、マラソンランナーとして成功していく話を作ったのである。自分史に近い。

 よくシナリオ世界では、一本だけはすばらしい作品が書けるという。自分史を書くと、個性的で他人から見て大変興味のある話が書けるからだ。
 ビギナーズラックとも言う。私の場合それだったのかもしれない。

 たまたまこのコンテストの審査委員に、日テレのディレクターがいた。私の作品を読んで、自分が担当しているテレビドラマで放送してもいいと言う話が持ち上がった。

 私は舞い上がってしまった。
金融機関の仕事はアキアキだ。ようやく私も自由業者になれる。小椋佳みたいだ
 その後、日テレには何回足を運んだか分からない。金融機関の事務室と違っていつも騒がしく、ディレクターも何かいくつもの仕事を抱えて、集中できないような雰囲気だった。

山崎さん、私の持っている番組は2時間ものなので、2時間になるように書き直してくれませんか
 私は、1時間ものを、2時間物にして持っていった。
山崎さん、この題〔市民ランナー 1990〕じゃだめだな、題名を変えてくれませんか
 私は題名を〔友よ、風に向かって走れ〕に代えて持っていった。
山崎さん、すまん、時間がなかったので、まだ修正版を読んでない。次回までに読んでおくから

 私は放送業界の実情に無知だったが、当時私の置かれている立場は、プロ野球の二軍選手の立場とよく似ていた。レギュラー選手が怪我や故障で戦列を離れたときに、急遽ピンチヒッターで出てくる選手だ。
 ディレクターはもしもに備えて、単に時間延ばしをしていたに過ぎない。しかし私の場合、いくら待っても出番が回ってこなかった。
 このような状態が、ほぼ1年位続いた。

 その間、私は何本かのシナリオを書き、いくつかのコンテストで、最終審査まで行ったが、いづれもその段階で落ちた。
 この世界は、入選も落選も紙一重で、何かの偶然で入選したり落選したりするのだ。

 だから、もっとも確実な方法は、すでに社会的評価の定まった、シナリオライターを師として、そのライターの引きでデビューを果たすことだった。いわば徒弟制度のようなものだ。

 しかし、45歳を過ぎて、徒弟になるのはつらい。その後もシナリオを書いていたが、だんだん情熱は薄れ、いつの間にか書かなくなってしまった。
まあ、シナリオなんて書かなくても、今の仕事で生きていける
 
 こうしてシナリオライターになる夢は破れた。

 だが、定年後、信じられないような時代が始まった。ブログと言うシステムが普及し、私は毎日ブログを書く生活をはじめた。書いても収入にならないことを除けば、かつて夢見たシナリオライターの生活そのものだ。

 うぅーん、だから、60歳になり、夢が実現したと喜ぼう。
 

 

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(19.4.3)失敗記 その5

数学をつくった人びと〈1〉 Book 数学をつくった人びと〈1〉

著者:E.T. ベル
販売元:早川書房
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 信じられるだろうか。私は数学者になろうとしたのである。数学ができるからか。否、まったくできないからだ。

(数学者の巻)

 数学がわからなくなったのは、高校1年生の一学期からである。複雑な因数分解がまったくできなかった。以来数学は苦闘の連続だった。
 対数三角関数なんてほとんど理解できなかった。教師は大変丁寧に教えてくれていたのだけれど、何しろ基礎がまったくないのだから理解のしようがない。

 だから、高校3年生になって、数学の授業を受けなくて済んだときは、心底ほっとした。「これで数学とは永遠におさらばだ。数Ⅲなんて知るか

 しかし、正直言ってこの数学ができないことは、私の心の中に深いコンプレックスとして残ってしまった。本当は数学者になれる才能があったにもかかわらず、ちょっとした手違いで道を踏むはずしてしまったのではなかろうか。

 就職では、別に数学ができなくてもなんら問題はなく、数学のことはトンと忘れていた。ところが私が30歳になったある日、衝撃的な本を見つけてしまった。
 本の名前は「数学をつくった人びと」と言う。E・T・ベル著で、この本は1937年に発行され、その後、数学史上ではもっともよく読まれた名著だった。
 物語数学史で、数式は簡単なもの以外はまったく記載されていない。もっぱら数学者の生き様と情念を記載していた。私はこの本をむさぼるように読んだ。

 その結果、「数学界の王者はガウス」で、「貧困の天才はアーベル」で「天才と狂気の数学者はガロア」だ、というような知識でいっぱいになってしまった。アーベルの味わった貧困に涙し、20歳で決闘によって散っていったガロアに同情した。ガウスの誠実さには心を打たれた。

 そして、信じられるだろうか。私は数学者になると決心したのである。情念だけで数学者になろうとしたのだからすごい。さっそく数学関係の本を買いあさった。
 ヒルベルトの「幾何学の基礎」やカントールの「超限集合論」のような、歴史的文献を集めて、本棚に飾った。棚が数学書でいっぱいになった。
うん、数学者らしくなった。本がないと学者らしくない

 しかし、こうした本は、何が書いてあるかさっぱり理解できなかった。これでは数学文献のコレクターだ。大学の数学の教科書で勉強しなおすことにした。
大学の数学ぐらいならわかるだろう
 昔、数学専攻の友達が、高木貞治の「解析概論」を持っていたのを思い出して、まねて勉強を始めた。しかしこれも最初の1ページを見ただけで、何が書いてあるのかさっぱり理解できなかった。

うぅーん、大学の数学もタフだ
仕方ないので、基礎から始めることにした。高校の数Ⅰ、数Ⅱ、数Ⅲを学びなおすことにしたのである。定評のあった矢野健太郎(ヤノケンと呼ばれていて高校生の間で評判が高かった)の参考書を買い込んで勉強を始めた。

 私は当時営業担当だったが、あいている時間はいつもヤノケンの参考書を解いていた。営業の途中でも参考書を忍ばせた。夢中になると降りる駅を間違えて、約束の時間を違えた。言い訳が大変だった。
ちょっと、考え事をしていて、降りる駅を間違えました。申し訳ありません
頭のええ人は、考えることがぎょうさんあって、大変でおますな」と思いっきり皮肉を言われた。

 こんなに努力した結果、3年目にようやく数Ⅲにたどり着いた。高校時代にすっぽかした、あの数Ⅲだ。ここで極限の概念をはじめて知ったが、何度読んでも極限が理解できなかった。覚えておられるだろか、∞ー∞のような、不定形の概念である。ここを突破できなければ、数Ⅲの微分積分に到達できない。

 しかし、当時の参考書はどんな人間にも極限の概念を理解させるようなレベルに達していなかった。ヤノケンの参考書でもそうだった。私は涙を飲んで数学者になる夢をあきらめた。
しょうがない、この会社に骨を埋めよう

 それから20年以上たったある日、定年後のことを考えた。
定年になって有り余る時間を過ごすのは大変だ。時間つぶしがないと生きていけない

 昔、数学の参考書を時間を忘れて読んでいたことを思い出した。今度は、大学受験の雄、馬場敬之(けいし)の参考書で勉強を始めた。彼が「どんな人間にも数学を理解させることができる」と豪語していたからだ。
パーでも大丈夫」といっているに等しい。
 私は彼の参考書を読んで初めて極限の概念を理解し、数Ⅲを理解した。
もしかしたら、数学者になれるかもしれない」再び舞い上がった。

 しかし、まあこの年だ。
数学者にはなれそうもないが、数学の愛好家ぐらいにはなれるかもしれない。希望を持って生きよう。

 
 

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(19.4.2)失敗記 その4

 私は若い頃、国連職員になりたかった。何回かトライしたが結局なれなかった。およそ20年前、40歳の頃の話である。

(国連職員の巻)
 私も時代の子である。国連に対し尊敬と憧憬の念を持って育った。国連による世界平和や、国際語エスペラントの普及を心から願った一人である。最近になり、国連が地域紛争さえ解決できない現状や、国連職員の汚職体質を知ったが、それまでは純粋に国連を支持していた。

 国連職員の募集は定期的に行われており、特に一時期は、日本人の国連職員が少ないため、積極的なリクルートもされていた。
 しかし、条件が厳しい。英語かフランス語で実務ができ、修士課程以上の学歴を持ち、専門家として相応の社会的実績があることが、基本条件になっていた。

 どれを見ても条件がクリアーできない。英語は学校英語で片言だし、修士の学歴はない。日本のサラリーマンだから、専門的知識より、社内遊泳術のほうが得意なくらいだ。

 思い余って社会人入学を認めている大学院の入試を受けることにした。せめて修士号だけでもとろう。しかし学科試験を受けたのでは学力がばれるので、面接と小論文だけで入学を許可してくれる大学院を選んだ。 筑波大学大学院が、そうした条件を満たしていたので喜び勇んで応募した。

 試験官から質問を受けた「どのような研究テーマを選ぶのか
私はあわてて「国連職員のなるための資格として修士が必要なので、テーマは何でもいい」と答えた。
 試験官は笑っていたが、すぐに「不合格通知」を送ってきた。正直すぎたと反省した。

 正式な国連職員になるのは無理だとわかったので、各国連機関が独自に募集している、臨時職員に応募することにした。スペシャリストと言う。たまたまスイスのジュネーブにある国連の下部組織がスペシャリストの募集をしていた。
パソコンの操作能力が高く、英語で日常会話ができること」が条件だった。

 これなら何とかなりそうだ。3名以上の推薦者がいることになっていたので、部下に強引に頼んで立派な推薦状を作った。相当程度誇張もした。
山崎次郎氏は英語に堪能で、業務を遂行するに足る十分な能力を要しております。またパソコンの操作については、スペシャリストとしての能力があります

 しばらくして、スイスから電話が来た。「前任者が不慮の事故にあったので、すぐに来てほしい。場所はソマリアでパソコン通信のスペシャリストが必要だが、貴方が条件に一番あっている

 ソマリアは世界でもっとも危険な紛争地帯だ。確かに私は国連職員になりたかったが、本音はスイスの湖畔でのんびりとつりをしたり、ヨーロッパで旅行をしたかっただけだ。ソマリアだったら、銃弾の中でパソコンを操作しなければならない。
 それに正直言えば、英語だってろくにできないし、パソコンの操作はワードとエクセルが扱える程度だ。  

 しかし、意欲満々の推薦状も書いてもらった手前、無下に断れない。 見栄がある。
男は見栄がなくなったら、男じゃない
 一応、妻と相談してからと言って電話を切った。

 かみさんに相談したら、「馬鹿じゃない」と言われた。すぐに見栄からさめた。

 翌日、「現在の仕事が手が離せないので、今回の話は応じられない」と言って断ったときは、実にほっとした。

 後で知ったのだが、臨時職員は国連の中でもっとも危険な場所に送られ、一方、国連の正規社員はスイスやパリやニューヨークのような安全な場所で勤務していた。臨時職員は使い捨てなのだ。もう少しでソマリアの原野で野垂れ死にするところだった。

 こうして、国連職員になる夢は潰えた。

 

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(19.3.30)失敗記 その3

 私は若い頃に登山家になりたかった。そしてそれなりに努力したつもりなのだが、なぜかなれなかった。

(登山家の巻)

 私の最初の勤務地は長野市だった。長野は登山のメッカである。たまたま先輩が北アルプスの表銀座コース(燕岳・大天井岳・槍ヶ岳のコース)に、夏、連れて行ってくれた。それから俄然、山に目覚めてしまい、長野市近在の山に時間があれば登るようになった。

 その頃である。新田次郎孤高の人」を読んだ。登山愛好家は必ずこの本を読んでいる。主人公は加藤文太郎(ぶんたろう)で、昭和初期を代表する登山家だったが、惜しくも1936年(昭和11年)冬の槍ヶ岳北鎌尾根で31歳の生涯を閉じた。単独行の文太郎とも呼ばれる。

 普通の人は読んで感心するだけだが、私は「この文太郎を継ぐのは私しかない」とまで入れ込んでしまい、文太郎が行ったトレーニングを真似た。同じトレーニングをすれば、私も文太郎になれる。

 ビバーク対策として、冬の戸外で眠る訓練を始めた。たまたま寮に住んでいたのだが、冬の真っ最中に、寮のベランダで寝ることにしたのだ。衣類を思いっきり着込んで、上からツェルトをかぶった。
 たまたま、私は新婚当初であったので、これが話題になってしまった。
どうも、奥さんとうまく行ってないので、山崎さんは外で寝ている

 かみさんから懇願された。「私の立場がない
 文太郎になるための、ビバークの訓練は約1週間で終わってしまった。実際してみるとわかるが、厳冬の長野市は寒くて寝られるものではない。仕事中にうつらうつらしてしまう。

 文太郎がおこなった絶食の訓練もしてみた。数日間、水だけでどの程度耐えられるかという訓練である。遭難したとき何日持つかがわかる。
 たまたま会社の集合研修が1週間あったときにテストしてみた。三日間何も食べなかったことがある。
 研修担当から「誰か、食事をしない人がいるが、誰か」と問われた。
私は黙っていたが、4日目にたまたまサッカーをすることになって、めまいがして倒れてしまった。私が絶食していることがばれた。
君は、研修に来ているのだから、絶食の訓練なんかしてはいけない」と釘をさされた。3日程度の命だと言うことがわかった。
 
 会社に石をつめたリックザックを背負って通勤する訓練も行ってみた。足腰の鍛錬である。文太郎は20kg程度のリックを背負って通勤していたので、私も当初は20kgにしたが、重いのですぐに10kg程度にとどめた。私が大阪で勤務していた頃である。

 梅田の駅から御堂筋までリックを背負って歩いていた。上司から質問された。
何で、そんなことをするのか
 文太郎の真似だといったところ、あきれ返られた。
その情熱を、仕事に注ぎ込んでもらいたいものだ

 本人は、こんなにも真剣に登山家になろうとしたのだけれど、世間のしがらみにたやすく負けてしまった。文太郎になれない。
 あまりに口惜しいので、登山記録のブログを立ち上げた。
俺だって、この程度は山に登ったのだ
 見て、がっくりした。本当に「この程度」なのか。

 ううーん、「本気で登山家になろうとしたのではなく、単に文太郎のまねをしただけなのではないか」と言われそうだ。
 それでも一応登山ブログのURLを教えておこう。登山好きの人が間違って見るかもしれない。

http://1-0-0-0.at.webry.info/

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(19.3.27)失敗記 その2

 しばらく失敗記に付き合っていただきたい。小学校も春休みになり、私も清掃活動の報告だけでは疲れてしまうのだ。第一清掃活動はルーチンワークでもできるが、ブログは毎日同じ内容にするわけにはいかない。目先を変えないと書くことがなくなってしまう。

(自動車ラリーの巻)

 自動車ラリーのナビゲータを頼まれたことがる。友達が行く予定だったのが急遽用事ができて私に代わりにいってもらえないかという依頼だった。たしか大学の3年か4年の頃だったと思う。今から約40年前のことになる。

ナビゲータなんてしたことがないけど、どうするのか」と一応聞いて見た。
友達は「あっちに行けと指示するだけだ」と答えたので、簡単に引き受けた。

 行ってみて驚いた。このラリーは当時日本を代表する国内ラリーで、選手も日本を代表する選手だった。確かTBSがスポンサーになっていた。
 夜中中、奥武蔵と奥秩父の林道を走るのである。ラリーは騒音がうるさいため、夜半に人が少ないような場所で行われることをこのとき知った。

 私がナビゲータをしたのは、審判団と選手を一緒にしたような車で、一番最後尾を走ってリタイアした車の確認をする役割だった。ドライバーはTBSの職員だと紹介された。

 ラリーの選手の車は早い。審判団もそれと同じくらいの走力が要請された。地図を渡されてびっくりした。曲がり角だけの地図で、そこまでいかないとどこが曲がり角かわからない。ナビゲータは曲がり角に来たことをとっさに判断し指示を与えなければならない。

走っている間は、私は厳しいが我慢してくれ」とドライバーにまず念を押された。それからが大変だった。ドライバーは極度に神経が研ぎ澄まされる。人間的会話がまったくなくなった。
ばか、早く教えろ・・どっちだ・・なにやってんだ・・地図も読めないのか・・・道なりかそうでないのか早く言え・・ばか、車が交差点にはいってしまうじゃないか・・ばか

 夜中中ばか呼ばわりされてしまった。思わずむっとしたが、レース中喧嘩するわけには行かない。
お前、ここで降りろ」なんていわれたら大変だ。夜中の林道に置いてきぼりにされてしまう。

 ラリーを実際にやってみるとわかるが、自動車の速度で、ナビゲートするには、それなりのトレーニングがいる。素人が道路マップを見て指示するのとはまったく違う。友達は「あっちに行けと指示するだけだ」と言ったが、「あっちかこっちかさっぱりわからない」のだ。

 曲がり角に来るたびに、地図と場所を確認するのだが、私が確認している間に自動車はその場所を通り過ぎてしまう。
あの、さっきの場所を右だったみたいです
ばか、なぜすぐ言わない。お前、ナビゲータだろ
あの、牛乳屋を左だと思います
あれは、パン屋だ。お前、目も見えないのか

 レースが終わったときはくたくたになってしまった。あまりにばか呼ばわりされたので、ドライバーには挨拶もしないで別れた。

 正直に言うが、私はとっさの判断が苦手だナビゲータなどはもっとも不得意の分野だ。今では、こうした能力の限界をよく知っているが、若いうちはとっさの判断ができないというような限界を認めるのはつらい。

 このときはナビゲータなど二度とすべきでないということがわかっただけでも収穫だったと言える。

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(19.3.26)失敗記  その1

 この年まで生きていると失敗した経験は山ほどある。特に私はやや軽率なところがあるから、普通の人なら絶対に失敗しそうもないことで失敗している。いくつかをご紹介しよう。

(テニスの巻)
 私は学生時代硬式テニスをしたことがなかった。テニスは軟式テニスのことだと思っていたくらいだ。会社に入って初めて硬式テニスと言うものがあることを知った。寮にテニスコートがあり、先輩が手ほどきしてくれたのである。場所は長野市で約35年も前のことである。

 私はしばしこの硬式テニスに夢中になり、何冊かの入門書を買い込み、毎朝出勤前に素振りなどをして、すっかりテニスマニアになってしまった。しかし基礎ができてないのは悲しいことで、バックスイングでまともにボールを捕らえることができない。

 ちょうどその頃長野市でローンテニスクラブ設立の機運が盛り上がった。音頭をとったのは信濃毎日新聞社に勤務するバリバリのテニス選手である。当時テニスコートを持っている会社は少なく、私の勤務する会社にも参加の呼びかけが来た。技術のつたなさは、テニスコートをクラブに開放することで補われたのである。私を含め数人が長野市ローンテニスクラブのメンバーになった。

 不幸は、その年長野県で国体が開催されたことにある。開催場所は松本市だったが、わがローンテニスクラブに審判団の派遣要請が来た。信濃毎日新聞社に勤務している会長から、私の会社からも線審を出すように要望が来た。そのとき暇人は私一人だった。
線審なんて、ボールが入ったか入らないかを見るだけでたいしたことがあるまい。いいですよ」軽く引き受けた。硬式テニスを始めて半年程度の人間が国体の線審をすることになってしまったのだ。

 行ってすぐに後悔した。旗を渡されたが、これが何を意味するのか知らなかったからである。この旗でアウトとセーフの判定をするのだが、私は恐る恐る主審に、アウトとセーフの旗の振り方の手ほどきを受けた。
この人、だいじょうぶ」と主審は疑ったが、試合が始まろうとしていたので、私は線審をそのまま務めることになった。

 当時は沢松和子が全盛時代で、世界ランキング入りをしていた。私が線審をしたのは女子ダブルスで、目の前に沢松和子がプレーをしていた。
 サーブを見て驚いた。ボールが早すぎてコートに入ったか入ってないか分からないのだ。
 私が今まで知っていたテニスのは、お遊びテニスだっただから、ボールにハエがとまりそうだった。だからこの落差に愕然とした。と同時に頭に血がのぼり、真っ白になってしまった。

 旗の振り方はすっかり忘れてしまい、サーブのたびに旗を上げ下げしたものだから、沢松和子にギューと睨まれた。心臓は当にパンクしてしまい、その後どうなったのか分からないくらいだ。

 さすがに主審が見かねて、私に確認しに来た。「どっちなんだ
私は「入ったか入ってないか分からない」と答えたので、主審はあきれ返った。第一セットが終了した段階で線審を代えてくれたときは心底ほっとした。もう少しで、国体のテニス競技をめちゃくちゃにするところだった。

  興奮が収まるまで、テニスコートの端で、いじけて呼吸を整えていたが
人間は能力を超えた要請を受けたときは、きっぱりと断るのが正しい態度だ」と心から反省した。

 実はこの私の経験と同じような経験をした国際審判がいた。シドニーオリンピック柔道決勝100k超級の主審をしたニュージーランド人である。
 ドイエの内股に対し。篠原内股すかしで対抗し、明らかに篠原が一本とっていたが、主審はドイエの内股を有効とした。
 私は断言するが、この主審はいままで内股すかしを見たことがなかったはずである。内股すかしのような高度な技は、柔道の本場以外ではついぞ見ることのできない技だ。
 この人はニュージーランドで私の国体審判と同じような過程をたどって選らばれたに違いないずぶの素人だ。

 この時は、大いに篠原に同情したが、同時にニュージーランドから来た主審にも同情した。
人間は能力を超えた要請を受けたときは、きっぱりと断らなければいけないのだ

 

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