(22.7.29) 水澤 勇気さんの「数学の段階」
ありがたいことだ。私がブログネタで困窮していることを知って、友達の水澤 勇気さんが記事を送ってきてくれた。
水澤さんとは二人で数学ができなくなった学生に、どうすればもう一度数学という登山に再挑戦できるかのコンサルタントを立ち上げることにしている仲間である。
まだこの試みを行うシステム環境の整備が進んでいないため、立ち上げが遅れているが、いずれ実施する。
水澤さんは予備校で数学教師をされたり、大学院で素粒子物理学を専攻した本格的な若い学徒で数学に詳しい。
今回の記事は「数学の段階」という記事だが、これは無限にも大きさがあり、自然数と偶数は同じ大きさの無限だという話である。
カントールの素朴集合論というのだが、それをもとに水澤さんの人生観を聞かせてくれた。
なお注書きは読者が必ずしも数学に詳しくないことを想定して私が加えたものである。
「数学の階段」 水澤 勇気
もう15年ほど前にのこと、中学生だった私に数学教師が「自然数と偶数ではどちらが多いか?」と問うたことがある、答えが同じだとその教師は言ったが理由は教えてもらえなかった。
私は小学校、中学校と勉強など全くしない子供であったがその問いかけのだけは妙に心に残っていた。
その理由を時折思い出しては理由を考える、答えは出なかったがものを考えるってこんなことなんだなと少し哲学的?な気分になっていた。
答えは意外にあっさり出るものである。
大学に入学し、ふと落ち着いたときにものを数えるとはどうゆうことなのかとふと考えたときに理解できた。
ものを数えるとは対応させることなのである、つまりミカンとリンゴが同数又はどちらが多いかはミカンとリンゴを別々に数えることなくわかるのである。
ミカンとリンゴをペアにしていって過不足なくペアが作れれば、それらは同数、そうでなければ余っているほうの数が多いのである。
注)これを1対1の対応と言って、対応ができればその二つの無限は同じ大きさの無限になる。
実は我々がものを数える時には頭の中にミカンもしくはリンゴが既に備わっているのであり、それらは自然数直感と呼ばれ、我々がものを数える時、基準の役割を果たしてくれる。
ものを数えることが対応であるとわかれば、最初の問いはこう書き直せる「自然数と偶数でペアは過不足なく作れるか?」答えはYESである。
自然数1には偶数2を自然数2には偶数4を対応させてやればよいつまり、m=2nでお互いに絶対にペアは見つかるしこれに反する自然数と偶数はないからである。
実はこの発想はカントールの素朴集合論を根底で支える概念である。つまり無限を数える発想である。
現代数学を基礎で支える理論の根幹はミカンとリンゴを数えることを徹底的に反省することから得られるものであった。
自然数は果てない階段のようなもの、登りきったと思ったところには必ず次の段がある果てしなく続いて気が遠くなる。
ミカンを食べているときにその果てない階段の全景が自分に寄り添っていることもある。
ばかばかしいと思われる方もいるかもしれない、でもやはり数学教師の問いかけは時を経て、ミカンを食べている私の知的領域を広げてくれた、それは事実である。
長い時間をかけて成熟していった考えがときに実をつけ豊かな味わいを与えてくれる、数学の楽しみの一つはそんなところにあるかもしれない。
とかく最近はすぐに答えを出せる人間が求められている。
問題解決型人間、ソリューション型経営等、それはとても大事な能力であると思う。
しかし人間の知的営為とは答えを出した人間だけが紡いできたものかといえばそれは違う。
答えは出なくとも問題意識を持ち続けそれを後世に伝えていった人たちがいる、そしてその上に学問が華を咲かせるのである。
問題は人に対していわば安易に答えを求める姿勢だ。
人間は様々な面を持つ、さすればそれは理解不可能のようにも思えるほど複雑だ。
しかし粘り強く人との共感を見つけ出す作業は楽しくそして時には実り多く深い味わいを与えてくれる。
その楽しみを一瞬のかりそめの答えの為に捨ててしまうのはあまりにも不合理であろう。
民主主義は、己が完全でないと自覚し、祖先から学び、社会を構成する人々の互いの幸せを思い描き、不断に考え続ける個人がいてこそ輝くのではないか。
今はもう趣味でしか登ることができなくなってしまった数学の階段の途中から過去を振り返り、今の社会と向き合ってそんなことを考えてしまう
最近のコメント