(20.7.31) 不思議な本を貸してもらった

Image0_3  友達のNさんからとても不思議な本を貸してもらっている。本の題名は「あの頃の暮し」と言うもので、戦争末期から戦後初期にかけての、隣の誉田町(当事は誉田村)の様子を漫画とストーリーで描いたユニークな本だ。
当時はここおゆみ野は原っぱのような場所であり、誉田村が最も人口の多い、このあたりの文化の中心地だった。

 作者は宮崎よしひささんと言い、誉田村で生まれ今も誉田町に住んでいる地元の絵本作家で、若いときから漫画家を志して努力されたらしい。作風は馬場のぼるを彷彿させるほのぼのとしたタッチだ。

 私は当初「あの頃の暮し」と言う本の発行者が誉田商店街と言うので商店街の宣伝用雑誌かと思ったが、実際は誉田町の戦中・戦後の歴史書だった。

 これによると誉田駅にはかつて桜の古木があり、春は桜の花見を楽しんでいたこと、また駅の前には共同の井戸があって、当時の主要な交通手段だった馬車の馬方行商人の喉を潤していたことが分かる。
また大網街道は自動車など通ることもなく、子供の遊び場だったようだ。

 子供たちの遊びもユニークででリスの子供を森から見つけてきては牛乳で育てるのがはやっていたようだ。人間が育てたリスは育てた人間を親だと思って懐いたのだそうだ。

 また戦争中はここ誉田村に多くの兵隊が分宿していた。九十九里から米軍が上陸するのに備えて房総半島には多くの兵隊を帝国陸軍は配備していた。
ただし全く兵器を持っておらず、もっぱら防空壕を掘っているか、疎開した軍需工場で作業していたと言う。

 特に誉田小学校には多くの兵隊が分宿しており、松ノ木の上で敵機の来襲を見張っていたが、敵機が来ると防空壕に逃げ込むことだけが対抗策だったそうだ。

 また誉田村の上空でも空中戦が行なわれたが、もっぱら逃げていたのは日本軍機だったという。

 戦争が終わると誉田駅は故郷に帰る兵隊で大混雑をした。
大網街道にはアメリカ軍の戦車が轟音を立てて通っていき、子供たちは予想に反して優しいアメリカ兵にチョコレートをねだった。
そして日本軍が引き上げた後の草原に大量の軍の実弾が残されていたので、それで遊んだのだそうだ。

 この作者の母親は床屋を開業していたのだが無免許だったそうだ。仕方ないので休業中という札をぶら下げて、実際は営業していたと言うが誰もとがめる人はいなかったらしい。
なんとものどかな話だ。

 また誉田村には東洋交通と言うバス路線があったが、戦争が激しくなると燃料がなくなり木炭車になってしまった。馬力がなく坂道を登れなかったと言う。

 このあたりでは正月になると新しい下駄を注文するのだが、下駄は注文生産だったので、下駄屋さんに子供たちはよく足を運んだ。できばえが気になったからだ。

 そして町医者としては小沢医院しかなかったらしい。高齢の先生で往診を頼む時はリアカーに筵を引いて乗せてきた。

 こうした話が漫画とストーリーで続いており、見ているとなかなか楽しい。
いわば3丁目の夕日の世界に似ているが、それよりも10年以上前の話である。
この本は一般の本屋では売られていないので、入手しづらいが近在公立図書館には配布されているのではなかろうか。

 古きよき時代にノスタルジアを感じる人は一度読まれることを薦める。

(20.8.1追加) このブログを記載したところ、Nさんから緑区選出の「千葉市議会議員 みす和夫 後援会HP」の中に「あの頃の暮し」が掲載されているとの連絡を受けました。
題名は(あの頃地元誉田では)となっていますが、内容は「あの頃の暮し」と同じです(ただしページの順序や構成は異なります)。
以下のURLをクリックすると見ることが出来ます。


・終戦から60年 (あの頃地元誉田では)
http://www.misukazuo.jp/supporters/anokoro/index.html



別件)昨日調査をした携帯を利用してブログを見ている人の割合は、推定で5%程度と言うことが分かりました。
95%がパソコン、5%が携帯という割合です。
調査への協力、ありがとうございました。

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(20.4.3)さくら

おゆみ野四季の道」のテーマソング。以下のファイルをダウンロードすると曲が始まります。
 「pianotokurarinetto.mid」をダウンロード



 四季の道さくらのピークは今日(2日)みたいだ。そろそろ花びらが散りだした。私はほぼ毎日四季の道を清掃していたおかげで、この春の美しさを堪能させてもらった。

 四季の道には春の道にさくらの木が多数植えてある。実際は秋の道にも冬の道にもさくらの木があって、こちらは赤い花が咲いている。
一周するとこの時期にだけ散歩する人たちもいて、実ににぎやかだ。

 しかし全体としては花見をしている人は例年に比べて少ない。花見のピークの土日が寒かったり、雨が降ったせいだと思う。
いつもなら植栽の陰に放置してある缶ビールやゴミがない。おゆみ野クリーンクラブカモシカ姉さんと、安堵の会話を交わした。
今年は楽だったわね。もっとゴミが多いかと思っていたけれど、さくら公園の上から見ても、花見をしている人は少なかったわ

 ところで、花見は日本人の生活習慣に完全に根付いているが何時から花見を始めたのか気になって、Googleで検索してみた。
幸いに「このはなさくや図鑑」というブログに「お花見の歴史」が載っていた(以下の記述は主としてこの「お花見の歴史」に負うている)。

 それによるとさくら名前が始めて登場するのは、古事記日本書紀に「木花之開耶姫(このはなさくやひめ)」と記載されているのが始めで、この木花(コノハナ)が「さくら」のことだという。「さくらの花のように美しいお姫様」と言う意味だ。この場合のさくらは山桜である。

 大和朝廷の時代には、すでに「さくら」をめでる習慣があり、万葉集にはさくらを歌った歌が41首登場しているのだと言う。ただしこの時代はまだ「さくら」が花の中心ではなく「」や「」の位置が高かったのだそうだ。

 この時代に、山桜を取ってきて貴族の館に移植し、鑑賞することが始まった。
万葉集に「春雨に 争いかねて わがやどの さくらの花は 咲きはじめにけり」と言う歌があり、すでに観賞用のさくらが庭に植えてあったことが分かる。

 平安時代になると、花はもっぱら「さくら」になり、古今集の春の歌134首はさくら一色になっていると言う。
みやこ大路にさくらが植えられたのもこの時代で、さくらを貴族以外の人も鑑賞する習慣が始まったらしい。
いにしえの 奈良の都の 八重桜 きょう九重に にほいぬるかな」と伊勢大輔(いせのたいふ)が歌っているのもこの頃だ。

意味いにしえの奈良の都の八重桜が、今日は九重の宮中で、常よりも色美しくさきほこっていることです 

 その後、武士の時代になると「さくら」に精神性が加わった。
武士はさくらのように潔くなければならない

 この武士の時代の代表的なさくらの歌として、源義家(八幡太郎義家)の歌が残っている。
吹く風を 勿来(なこそ)の関と思えども 道もせに散る 山桜花

意味(「来る勿(なか)れ」という名の勿来の関なのだから、吹く風も来ないでくれと思うのだが、道を塞ぐほどに山桜の花が散っているよ。その散り具合なんといさぎよいことだ

 しかし私の好きな精神性の歌は北面の武士(近衛兵)だった西行のこの歌だ。
ねがはくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの もちづきのころ

意味どうか今をさかりと咲き乱れたさくらの花の下で、春に死にたいものだ。できればお釈迦様の亡くなった二月の15日がいい

 さらに安土桃山時代に入り、現在の花見の様式は決まったようだ。
あの豊臣秀吉の「醍醐の花見」が花見のスタンダードになり、現在まで続いているのだと言う。

 どうやら、「さくら」 日本原種で昔から愛されていたが、 本当に「さくら」日本人の心の一部になったのは平安時代からで、③ 武士の登場とともに「さくら」に精神性が付与され、 現代のような花見の様式が決まったのは秀吉の「醍醐の花見」からだということが分かった。
うぅーん、今回は勉強になった


 四季の道の満開のさくらの花を撮ってきました。あまりに花が美しいのでここ数日は花シリーズになってしまいました。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/204102?authkey=rmyCWEnxEPE

 

 

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(20.4.1)刈田子(かりたご)の春

おゆみ野四季の道」のテーマソング。以下のファイルをダウンロードすると曲が始まります。
 「pianotokurarinetto.mid」をダウンロード



 京成電鉄おゆみ野駅の南方に、緑区刈田子(かりたご)町と呼ばれる一帯がある。
おゆみ野が近代的な都市空間だとすると、古き良き日本をそのまま残している異空間で、おゆみ野が開発される以前の農村地帯だ。

 おゆみ野駅からほぼ数百mの距離にあり、この場所を訪れる人は一様にその牧歌的な雰囲気に声を上げそうだ。
ここは日本の原風景じゃないかしら
特に春がいい。

 さらにこの刈田子(かりたご)の一角に苅田郷(かったごう)という「古民具工芸の村」があるが、苅田郷(かったごう)とは刈田子(かりたご)古名である。ここで陶芸教室が開催されている。
この一帯に住んでいる人は高梨姓が多い。この古民具の村の、いわゆる村長さんも高梨姓である。

 私はここの村長さんとは顔なじみなのでなぜ高梨姓が多いのか聞いてみた。
高梨一族は、元北信濃の豪族で、村上義清が武田信玄に攻められた時、村上氏と同盟して信玄と戦ったのだ。
しかし、残念なことに祖先は信玄に敗れた。そこで昔から関係の深かった上杉謙信を頼って一族は信濃に移った


それがどうして、この千葉に移り住むようになったのですか

上杉氏はその後北条氏とことを構え、何度も関東に進出している。
その時祖先も従軍したのだが、信濃には土地がなかったから、切り取った関東の土地をもらって住むようになったのだろう。関東のあちこちに高梨姓がある。
野田市にある野田醤油の高梨一族も先祖は同じだ


ではその時、苅田郷に住んでいた高梨一族が、ここ刈田子に移り住んだわけですね。
その後はどうしたのですか


江戸時代になって、高梨一族はこの土地で百姓をすることになった。
わしの家は本家だったし、庄屋であり豪農だったので農業のかたわら酒造りもしていた。江戸時代の絵図が残っているが、この場所で酒造りをしていた様子が描かれている。
酒造りは昭和20年までやっていたが、うまい酒だった


なぜ今、古民具の村を経営しているのですか

祖先に対する礼儀のようなものだ。こうしたものは先祖が大事に作り使用していたものだ。それを粗末に扱うことは先祖に対して申し訳が立たない。特に売れるわけでもないがね

 古民芸の村村長さんの悩みは、農業の後継者が育たず、ここ刈田子(かりたご)でも農地が遊休化することにあるらしい。
どうやら村長さんはこのあたり一帯の農民を束ねる立場にあるらしい。

ところで、山崎さん、あんた農業をしないかね。10haの農地が遊んでいる。労働力がないからだ。あんた時間はあるのだろう

ええ、そうですが、農業はしたこともないしとても勤まりそうはないですよ。農業は技術がいるし難しいですから

そうかね、おしいね、それだけの身体をしていて農業ができないかね。農業は国の基本だよ。農業さえできれば食うに困らないよ

 農業者にはとてもなれそうにないが、ここに来て村長さんと話をするのは好きだ。この近辺で日本の農業談義を聞くことのできる稀有な場所だからだ。


刈田子の春の写真を撮ってきました。私の好きな牧歌的な空間です。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/2032?authkey=Iq1PutoDCoM


 

 

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(19.11.13)六通神社の杉の巨木が伐採された

 六通神社の杉の大木が伐採されたと教えてくれたのは、いつも四季の道で会うAさんである。
六通神社を散歩コースのひとつにしていたが、杉がなければ行っても仕方がないなあ

 六通神社社殿が台風9号の大風で、倒れてきたイチョウの木の下敷きになって屋根が大破したことは以前にブログに記載した。
その後、六通の氏子の間で「今後の対応をどうするか」検討していたことは知っていたが、参道に植えてあった樹齢3~4百年はたっていた杉の巨木をすべて伐採してしまった。

 最近、周りに住宅地が立ち並ぶようになって「大木が倒壊したら危険なので木を切ってほしい」という要望があったようで、今回のイチョウの木の倒壊で、一気に問題が顕在化したようだ。

 六通神社の由来は古く、江戸初期にここ六通新田を開発するときに同時にこの神社が建立されたと言う。おそらく同時期に参道に杉の木が植えられたはずだから、神木の運命も3~4百年だったことになる。

 実はこおした街中に取り残された神社の運命は風前の灯になっている。氏子と言ってもだんだんと村落共同体としてのきづなが薄くなり、年に何回か行われる草刈も、野焼きができなくなって搬送に苦労するようになった。

 しかも今回のように社殿が崩壊してしまうと、再建に巨額の費用がかかり,その費用分担について複雑な問題が発生することは容易に想像できる。

 おりしも市民ネットワークの「福谷章子の街づくり通信」Vol.50に六通神社の杉の木の伐採とよく状況が似た記事が掲載されていた。
タイトルは「土気城跡を地域文化財に」と言うもので「歴史的に由緒がどんなにある地でも、私有地である限り保全を続けていくことはなかなか難しいものです。そこで地域文化財として保護するとか、歴史的景観のすぐれた地域として指定するなど、千葉市の積極的な関与が求められます」と言う内容だった。

 六通神社は私有地と言うより氏子全体の共有地だと思われるが、やはり地域の文化財として守っていかない限り、神社そのものが消滅してしまうのではないかと、今回の杉の木の伐採をみてしみじみと感じてしまった。

六通神社の伐採された後の写真です
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/191112

これは伐採前の9月に私が撮った写真です
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/19919

本件に関連する記事は以下のとおり
六通神社が壊れていた

「別件」
おゆみ野火遊び情報  NO2

 春の道公園で先週の夜半、運動場の中央のテーブル上で火遊びをした跡がありました。この件については緑公園事務所から警察に捜査願いが出されています(8日)。
またBさんの話だと、「夜半宴会が行われていたらしく、ゴミが散乱していた」とのことですが、私が本日(12日)確認したときには、清掃が済んでいました。
緑公園事務所の話では、おゆみ野地区の公共物に対する破損や放火が際立って多いのだそうです。

火遊びをし、テーブルを焦がした写真を掲載します。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/19111202

 

 

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(19.9.20)六通神社が壊れていた

 台風9号の大風で、六通(ろくつう)神社社殿が倒れてきた松の木(訂正 イチョウの木)の下敷きになリ壊れていた。

 このことを教えてくれたのは、いつも四季の道で朝会う、Aさんである。
社殿が壊れてしまってね、緑土木事務所が対応しているみたいだが、その後はどうするのかね

 六通神社は秋の道に沿っていて、ちょうど南警察署とK'S電気の中間あたりに存在する神社で「六通むかい公園」と隣接している。
六通はおゆみ野の地に古くからある村落の一つで、泉谷公園の南側に隣接している一帯を言い、そこの守り神が六通神社にあたる。

 おゆみ野風土記によると、「六通神社の由緒は非常に古く、江戸初期にまで遡り、この地に六通新田が開発された時期に同時に建立され、当初は日枝神社といっていた」のだそうだ。

 もともとこのおゆみ野の地は千葉氏の秣場(まぐさば)であったり、近隣の村落の入会地であったようで、言ってみれば雑草と潅木が生い茂る荒地だったようだ。
そこを「江戸初期(1677年)に近隣の百姓が生実藩(おゆみはん)の許可を得て、新田開発をおこなった場所が六通で、当時の新田開発に参加した百姓は14軒だった」という。

 現在六通の古い古道を通ると、両側に大木が生い茂った立派な家並みが続いているが、それは新田開発に努力した先人の子孫に当たる人々の屋敷である。

 今回台風により、この六通神社の社殿は半壊してしまった。ちょうど正面から見ると左側の屋根が倒壊しており、そこに松(訂正 イチョウ)の大木が倒れかかったことが分かる。松(訂正 イチョウ)は樹齢3~4百年の大木で、直径は1.5mほどもあったのでひとたまりもなかったのだろう。

 今後の六通神社の再建はどうするのだろうか。昔のように村落共同体の絆が強かったときはともかく、現在のように「六通神社って何」という住民がほとんどの場合、旧の六通の住民だけで再建するのだろうか。それともこのまま放置されるのだろうか。あるいは文化財として市の助成があるのだろうか。

とても気になるところだ。

(追加)おゆみ野風土記を読んでいたら「鎌取」の地名の由来が書いてあった。
ここは千葉氏の奥方の所有する入会野で、近在の農民が草刈りをするとき、鎌一丁につき16銭徴収していたという。ところが盗み刈りをする者があとをたたず、見つけたらその者から鎌を取り上げていたので鎌取と言う地名になった」のだという。笑ってしまった。

なお、おゆみ野風土記からの引用は理解しやすいように文章を変えております。

六通神社の半壊の現状写真を掲載します
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/19919

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(19.7.7)大覚寺山(だいかくじやま)古墳

 私は古墳を見るのがとても好きである。何か古代のロマンに誘われるような気がして、かつて関西に住んでいた頃、仁徳天皇陵を見に行ったことがある。

 日本最大の陵墓といわれる仁徳陵は、遠くから見ると小山であり、近くで見ると森で、私がイメージしていた航空写真の陵墓とまったく違ったのにびっくりした。
どうも古墳は空から見ないと、古墳と言うことすら分からない。これじゃ単なる森だ」そお思ったのを覚えている。

 その点、埼玉のさきたま古墳群は公園として整備され、古墳を覆っていた樹木は切り払われ、うれしい事に頂上まで登ることができた。
なるほど、これが古墳か」と頂上から周りを睥睨したのを覚えている。
 権力者も昔、この古墳の上に立って、自らの領地を眺めていたはずだ。
うむ、民の生活は豊かじゃ。家から食事の煙がたなびいておる

 しかし、ここおゆみ野に越してきて14年にもなるのに、千葉の古墳については、まったく知識がなかった。
千葉に古墳なんてあるの」という感覚だったが、友達のKさんから「おゆみ野風土記」を借りて読んで認識を新たにした。

 特に千葉市埋蔵文化財センターの近くに、千葉市で最大の「大覚寺山(だいかくじやま)古墳」があることを知って、先日出かけてきた。京成電鉄学園前駅から徒歩で15分程度の場所にあり私の家からも自転車で20分程度の距離である
 
 大覚寺山古墳は全長66mの前方後円墳で、5世紀前半に建造されたと言われている。かつて村田川流域に勢力を張った菊間の国造(くにのみやつこの墓域と言われるが、未発掘なためまだ明確なことは分からない。
 菊間の国造は、この地域きっての豪族で、昔は菊間の国と言われた。
 
 行って見るとそばに小さな公園があり、そこから登っていくと古墳の入り口にたどり着く。一応古墳として整備されており、樹木も切り払われて、墳墓の形が分かるようになっている。
 しかし残念なことに、古墳としての魅力に乏しい。未発掘のせいもあるが、よく古墳公園にあるような埴輪もないし、展示場もない。
 ただ、芝生の丘があるという状況で、しかも周りが高い木々に囲まれているため見晴らしも良くない。

 かつては、南方の村田川方面に開けた、見晴らしの良い高台だったはずで、自分たちの領地を見渡せるこの場所に墓域を作ったのだと思われる。しかしそれを追体験することはできなかった

 ところで国造(くにのみやつことは不思議な言葉だ。一応は「律令体制が固まる前の、豪族に与えられた姓(かばね)」という説明がされているが、それ以上のニュアンスを感ずる。

大和朝廷の使菊間の長、あなたに国造という称号を与えよう
菊間の豪族称号とはなんだ、あんたからそんなものをもらういわれはない。第一、大和の国なんて俺は知らん
大和朝廷の使いやいや、これは失礼した。あなたが、この地を収めている長だと、私たちは認めると言うことだ。この国を造ったのはあなたで、あんたが大将だと言う意味だ
菊間の豪族それなら、まあ、そお呼んでもいい

 大和朝廷の苦労がしのばれる言葉だ。

今回は、大覚寺山古墳の写真を掲載します。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/1975?authkey=5lVvyH7qJbM

 

 

 
 

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(19.3.12)なぜ「おゆみ野」と言うのだろう

 この土地をなぜ「おゆみ野」と言うのか知りたくて「おゆみ野風土記」(おゆみ野の歴史を知る会編)を読んでみて頭を抱えてしまった。分からないのだ。

 最近のことなら分かる。この街が「おゆみ野」と正式に命名されたのは、19843のことである。それまで日本住宅公団はこの地を「千葉東南部地区」という、無機質な名前で呼んでいたが、入居開始にあたり、街の名前の公募を行った。

 その結果、この地の一部が昔から「おゆみ」といわれていたこと、および響きの良さや、親しみやすさ等を考慮して、「おゆみ」に「」をつけて「おゆみ野」と命名された(同書P28)。今から23年前のことになる。

(注)応募総数383通のうち、「おゆみ野」は7票だった。
 
  しかしこの風土記の「はしがき」をみてびっくりしてしまった。そこには1983にこの地を「
おゆみ野」と命名したと書いてある。こんな近い時代のことでもすでに2説ができている。しかも同じ本のなかに違った年号が書いてあるのだ。
これは大変だ。古い時代のことになるとどうなるか分からない
郷土史の漆黒の闇に足を踏み入れていく感じがした。

 最初、私はこの地一帯が、昔から「おゆみ」と言われていたと思っていた。「だからおゆみ野なのだろう

 しかしそれは正確ではなく、対象地10か町村のうちの2箇所(生実町、南生実町)だけの名前だと知った。さらに言えば、生実町、南生実町は飛び地の一部が、おゆみ野に含まれるが、ほとんどがおゆみ野の外の区域になっている。はっきり言ってしまえば関係ない。

 このおゆみ野の地に、開発以前からあった村落は、実際は有吉六通の2箇所だと知った。だから村落名をとるなら「有吉六通」になる。

うぅーん、おゆみおゆみ野は関係ないのだ
 念のため、場所を確認しようと地図を見た。生実町、南生実町は行政区域は中央区で、鎌取と蘇我の中間で、どちらかと言うと浜野よりの場所を示している。

 だが「おゆみ」の地は確かに歴史上に登場する。

 「おゆみの地に有名な城が2つあった。「おゆみ」が歴史的な地名だと言われているのは、どうやらこの「おゆみ城址」から来ている。字が違う。「小弓」とも「生実」とも書く。 小弓城は現在の文化財センターの地に、一方生実城は生実池の近く、重俊院(ちょうしゅんいん)の地にあった。前者は古く、後者は新しい。

 小弓城は歴史的にも重要な城で、ここをめぐって、鎌倉時代から何度も争いが起こっている。千葉の覇権をめぐる要衝の地である。ただし、お隣の地の歴史で、どう見ても「おゆみ野」の歴史ではない

 結論から言うと、「おゆみ」は歴史的地名だが、現在の「おゆみ野」の場所とは直接関係がない。あえて言えば、「おゆみ城」と言う有名な城が近くにあったので、借用しただけだと分かった。

「ワトソン君、おゆみをいくら調べてもおゆみ野とは無関係だね。どうしよう」
「ホームズ、おゆみ野の人には、事実は事実として伝えるしか仕方ないね。残念だが」

うぅーん、地名とはこんなものか。ひどく納得してしまった

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