(23.1.9) 高齢者は弱者か? 政治家の深き誤解
(おゆみ野の森のお相撲さん)
日本の政治や経済が低迷する原因の一つは、高齢者を弱者とみなしているからではないかと思うようになった。
一般的に高齢者とは65歳以上の年齢の人を指し、私も今年の8月には高齢者になる。
日本の高齢者の割合は世界最高で2010年9月段階で2944万人、率にして23.1%でこの様な高率な社会は世界のどこを探してもない。
比較的高齢化社会といわれているヨーロッパでも2007年現在の統計資料で、イタリアが19%、ギリシャが18%あたりが最高である。
一方でこの様な膨大な数の老人に対し、現在の日本の社会保障制度は老人は弱者であり、年金を支給して養うべき存在で、かつ医療は老人のために有ると思えるほど手厚い。
「日本の老人になって幸せだ」とつくづく思えるような制度だが、なにごとも行き過ぎると弊害がある。
その最も大きな弊害が国家予算の疲弊であり、一般会計は国債の発行額が税金の徴収額より多くなり、国債や地方債の残高はGDPの200%に達しようとしている。
一般会計のうち社会保障費の占める割合が30%と最高で、しかも年々増加の一途をたどっている。
世界の誰が見ても返済不可能な借金を抱えて財政はますますやせ細り、一方高齢者は登山やゲートボールでわが世の春を謳歌している。
「この世おば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしとおもえば」とかつて藤原道長が歌ったが、現在では高齢者のための歌のようだ。
私は現在の政治家の最大の誤解は高齢者を弱者と思って、さらに社会保障制度の充実に取り組んでいることだと思っている。
自分が65歳になろうとしてつくづく思うのは、高齢者は若者に比較して金銭的に裕福だし、健康な人も多い。
たとえば、私を取り巻く知り合いの生活は肉体的に問題がなければ海外旅行を毎年のように楽しんでいるし、身体に支障がある場合は、最新のIT機種を取り揃えて楽しんでいる。
もちろん病院に通う人も多いが、ある落語家が笑いのねたに使ったように「今日は体の調子がいいから病院に行くわ」なんて感じで、病院を社交場代わりにしている人もいる。
それなのに一体どうして高齢者が弱者なのだろうか。確かに寿命が尽きる直前になると足腰は弱り歩行が困難になり、頭もぼけて認知症になったりするが、そうなる前の高齢者は至って元気だ。
注)なお現在の高齢者が金銭的余裕があるのは高度成長期に人生を送りかつ十分な退職金を支給されているためである。したがって今後の高齢者が同じように裕福かはかなり怪しい。
私自身のことを言って恐縮だが、確かに頭ははげてしまい、耳の聞こえはますます悪くなっているが、その他の肉体についてはまったく支障がない。
日常的にマラソンをしているので、フルマラソンや100km程度のロングランはいつでも走れるし、登山やサイクリングはお手のものだ。
政治の世界では高齢者の年齢を引き上げ、67歳以上を高齢者にして少しでも財政負担を減らそうなどと検討しているが、そのような年齢別での区切りは何の役にもたたない。
それよりも年齢を無視して身体的障害者や経済的貧困者の救済を図る制度にしてしまい、健康な高齢者や裕福な高齢者は通常の生産人口(現在は15歳以上65歳未満)に加えてしまうほうが実務的にも経済的にも合理的だ。
「高齢者などいない。いるのは健康な人とそうでない人、裕福な人と貧困な人だ」と区分を変えるのである。
現状は高齢者を弱者だとの前提で福祉政策が出来上がっており、不要な補助や不必要な医療や、さらに紅白饅頭を受け取らなくてはならない。
その挙句に国や地方の財政はほとんどパンクしているのだから、この間違った前提での福祉政策の罪は重い。
思い余って小泉内閣の時に75歳以上の高齢者に対し、後期高齢者医療制度を設立して75歳以上の医療費負担を別会計にすることにした。
この趣旨はこの会計の範囲内での医療行為を完結しようと言うことで、ありていに言えば後期高齢者の医療水準を下げることにあった。
これに対し民主党・社民党・国民新党は「弱者の切捨てだ」と大反対のコールをしたが、日本国の財政が危機的にある以上、自分達が払える金額の範囲で医療を受けるのは当然の措置だと思ったものである。
日本と言う社会はとてつもなくやさしい。特に弱者に対しては優しいが、本来弱者でないものに対してまで一律に年齢で制限を儲けて保護の対象にするのは無理がある。
今の日本の財政状態が続けば早晩財政は破綻し、IMFの管理下に置かれ、私の試算では約30%の経費節減を迫られるはずだ(異常な国家予算が続いている 23年度一般会計予算を参照)。
それまでに自らの力で財政を立て直さなければ結局はそうなるのだから、そのときに急激な弱者切捨てをするよりは、今弱者でないものの保護をやめるほうがはるかに合理的だと私は思っている。
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