(22.8.24) 夏休み特集 NO16 失敗記 数学者の巻き

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 私が数学ができなくなった高校生に、何とかして再び情熱を持って数学に取り組ませたいと考えたのは、私自身が高校生になってからまったく数学が理解できなくなったからである。

 当時はすっかり悲観して、「もう二度と数学なんかするものか」と思っていたが、その後社会人になってから再び数学のとりこになった。
もっとも計算問題を解くようなことではなく、数学の思想、数学史に興味が集中した。

 そして、「何と数学は奥深いのだ」と感嘆してしまった。そうした喜びを数学を諦めた高校生に教えてやりたいと思い、数学コンサルタントの取り組みを行おうと思っている。

 今回の記事は私がどのようにして再び数学に興味を持ったかの報告である。

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(19.4.3)失敗記 その5


信じられるだろうか。私は数学者になろうとしたのである。数学ができるからか。否、まったくできないからだ。

(数学者の巻)

 数学がわからなくなったのは、高校1年生の一学期からである。複雑な因数分解がまったくできなかった。以来数学は苦闘の連続だった。
 対数三角関数なんてほとんど理解できなかった。教師は大変丁寧に教えてくれていたのだけれど、何しろ基礎がまったくないのだから理解のしようがない。

 だから、高校3年生になって、数学の授業を受けなくて済んだときは、心底ほっとした。「これで数学とは永遠におさらばだ。数Ⅲなんて知るか

 しかし、正直言ってこの数学ができないことは、私の心の中に深いコンプレックスとして残ってしまった。本当は数学者になれる才能があったにもかかわらず、ちょっとした手違いで道を踏むはずしてしまったのではなかろうか。

 就職では、別に数学ができなくてもなんら問題はなく、数学のことはトンと忘れていた。ところが私が30歳になったある日、衝撃的な本を見つけてしまった。
 本の名前は「数学をつくった人びと」と言う。E・T・ベル著で、この本は1937年に発行され、その後、数学史上ではもっともよく読まれた名著だった。
 物語数学史で、数式は簡単なもの以外はまったく記載されていない。もっぱら数学者の生き様と情念を記載していた。私はこの本をむさぼるように読んだ。

 その結果、「数学界の王者はガウス」で、「貧困の天才はアーベル」で「天才と狂気の数学者はガロア」だ、というような知識でいっぱいになってしまった。アーベルの味わった貧困に涙し、20歳で決闘によって散っていったガロアに同情した。ガウスの誠実さには心を打たれた。

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 そして、信じられるだろうか。私は数学者になると決心したのである。情念だけで数学者になろうとしたのだからすごい。さっそく数学関係の本を買いあさった。
 ヒルベルトの「幾何学の基礎」やカントールの「超限集合論」のような、歴史的文献を集めて、本棚に飾った。棚が数学書でいっぱいになった。
うん、数学者らしくなった。本がないと学者らしくない

 しかし、こうした本は、何が書いてあるかさっぱり理解できなかった。これでは数学文献のコレクターだ。大学の数学の教科書で勉強しなおすことにした。
大学の数学ぐらいならわかるだろう
 昔、数学専攻の友達が、高木貞治の「解析概論」を持っていたのを思い出して、まねて勉強を始めた。しかしこれも最初の1ページを見ただけで、何が書いてあるのかさっぱり理解できなかった。

うぅーん、大学の数学もタフだ
仕方ないので、基礎から始めることにした。高校の数Ⅰ、数Ⅱ、数Ⅲを学びなおすことにしたのである。定評のあった矢野健太郎(ヤノケンと呼ばれていて高校生の間で評判が高かった)の参考書を買い込んで勉強を始めた。

 私は当時営業担当だったが、あいている時間はいつもヤノケンの参考書を解いていた。営業の途中でも参考書を忍ばせた。夢中になると降りる駅を間違えて、約束の時間を違えた。言い訳が大変だった。
ちょっと、考え事をしていて、降りる駅を間違えました。申し訳ありません
頭のええ人は、考えることがぎょうさんあって、大変でおますな」と思いっきり皮肉を言われた。

 こんなに努力した結果、3年目にようやく数Ⅲにたどり着いた。高校時代にすっぽかした、あの数Ⅲだ。ここで極限の概念をはじめて知ったが、何度読んでも極限が理解できなかった。覚えておられるだろか、∞ー∞のような、不定形の概念である。ここを突破できなければ、数Ⅲの微分積分に到達できない。

 しかし、当時の参考書はどんな人間にも極限の概念を理解させるようなレベルに達していなかった。ヤノケンの参考書でもそうだった。私は涙を飲んで数学者になる夢をあきらめた。
しょうがない、この会社に骨を埋めよう

 それから20年以上たったある日、定年後のことを考えた。
定年になって有り余る時間を過ごすのは大変だ。時間つぶしがないと生きていけない

 昔、数学の参考書を時間を忘れて読んでいたことを思い出した。今度は、大学受験の雄、馬場敬之(けいし)の参考書で勉強を始めた。彼が「どんな人間にも数学を理解させることができる」と豪語していたからだ。
パーでも大丈夫」といっているに等しい。
 私は彼の参考書を読んで初めて極限の概念を理解し、数Ⅲを理解した。
もしかしたら、数学者になれるかもしれない」再び舞い上がった。

 しかし、まあこの年だ。
数学者にはなれそうもないが、数学の愛好家ぐらいにはなれるかもしれない。希望を持って生きよう。

 

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(22.8.23) 夏休み特集 NO15 失敗記 国連職員の巻き

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 私は若い頃、自分が勤めている金融機関の仕事がまったく自分に向いていないことに当惑していた。
できればもう少し身体を使ったフィールドワークのような仕事にあこがれた。

 その一つに国連職員があり、当時は日本人の国連職員を増加させるのが一種の国策のようなところがあった。
私は勇んでこの国連職員に応募しようとしたが、学力が大学院卒でないとダメなことが分かり、已む無く大学院に入ろうと悪戦苦闘した。

 結果的にはこうした努力はまったく実を結ばず、60歳までこの金融機関に勤めることになってしまった。


22725_037 (19.4.2)失敗記 その4

 私は若い頃、国連職員になりたかった。何回かトライしたが結局なれなかった。およそ20年前、40歳の頃の話である。

(国連職員の巻)
 私も時代の子である。国連に対し尊敬と憧憬の念を持って育った。国連による世界平和や、国際語エスペラントの普及を心から願った一人である。最近になり、国連が地域紛争さえ解決できない現状や、国連職員の汚職体質を知ったが、それまでは純粋に国連を支持していた。

 国連職員の募集は定期的に行われており、特に一時期は、日本人の国連職員が少ないため、積極的なリクルートもされていた。

 しかし、条件が厳しい。英語かフランス語で実務ができ、修士課程以上の学歴を持ち、専門家として相応の社会的実績があることが、基本条件になっていた。

 どれを見ても条件がクリアーできない。英語は学校英語で片言だし、修士の学歴はない。日本のサラリーマンだから、専門的知識より、社内遊泳術のほうが得意なくらいだ。

 思い余って社会人入学を認めている大学院の入試を受けることにした。せめて修士号だけでもとろう。しかし学科試験を受けたのでは学力がばれるので、面接と小論文だけで入学を許可してくれる大学院を選んだ。
筑波大学大学院が、そうした条件を満たしていたので喜び勇んで応募した。

 試験官から質問を受けた「どのような研究テーマを選ぶのか
私はあわてて「国連職員のなるための資格として修士が必要なので、テーマは何でもいい」と答えた。

 試験官は笑っていたが、すぐに「不合格通知」を送ってきた。正直すぎたと反省した。

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 正式な国連職員になるのは無理だとわかったので、各国連機関が独自に募集している、臨時職員に応募することにした。スペシャリストと言う。たまたまスイスのジュネーブにある国連の下部組織がスペシャリストの募集をしていた。
パソコンの操作能力が高く、英語で日常会話ができること」が条件だった。

 これなら何とかなりそうだ。3名以上の推薦者がいることになっていたので、部下に強引に頼んで立派な推薦状を作った。相当程度誇張もした。
山崎次郎氏は英語に堪能で、業務を遂行するに足る十分な能力を要しております。またパソコンの操作については、スペシャリストとしての能力があります

 しばらくして、スイスから電話が来た。「前任者が不慮の事故にあったので、すぐに来てほしい。場所はソマリアでパソコン通信のスペシャリストが必要だが、貴方が条件に一番あっている

 ソマリアは世界でもっとも危険な紛争地帯だ。確かに私は国連職員になりたかったが、本音はスイスの湖畔でのんびりとつりをしたり、ヨーロッパで旅行をしたかっただけだ。
ソマリアだったら、銃弾の中でパソコンを操作しなければならない。

 それに正直言えば、英語だってろくにできないし、パソコンの操作はワードとエクセルが扱える程度だ。  

 しかし、意欲満々の推薦状も書いてもらった手前、無下に断れない。 見栄がある。
 一応、妻と相談してからと言って電話を切った。

男は見栄がなくなったら、男じゃない

 かみさんに相談したら、「馬鹿じゃない」と言われた。すぐに見栄からさめた。

 翌日、「現在の仕事が手が離せないので、今回の話は応じられない」と言って断ったときは、実にほっとした。

 後で知ったのだが、臨時職員は国連の中でもっとも危険な場所に送られ、一方、国連の正規社員はスイスやパリやニューヨークのような安全な場所で勤務していた。臨時職員は使い捨てなのだ。もう少しでソマリアの原野で野垂れ死するところだった。

 こうして、国連職員になる夢は潰えた。

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(22.8.22) 夏休み特集 NO14 失敗記 テニスの巻き

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 私は人生において何度も失敗してきたが、ほとんどの場合は自分自身が困るだけで他人に影響することは少なかった。
しかしこのテニスにおける失敗はちょっと他人に説明するのが躊躇されるような失敗だ。

 私はほとんどテニスができないのに、国体のテニスの線審をしたのである。
ワールドカップでサッカーを知らずにラインズマンをしているようなものだが、時にこうした間違いが発生するのだ。

22725_030 (19.3.26)失敗記  その1

 この年まで生きていると失敗した経験は山ほどある。特に私はやや軽率なところがあるから、普通の人なら絶対に失敗しそうもないことで失敗している。いくつかをご紹介しよう。

(テニスの巻)
 私は学生時代硬式テニスをしたことがなかった。テニスは軟式テニスのことだと思っていたくらいだ。会社に入って初めて硬式テニスと言うものがあることを知った。寮にテニスコートがあり、先輩が手ほどきしてくれたのである。場所は長野市で約35年も前のことである。

 私はしばしこの硬式テニスに夢中になり、何冊かの入門書を買い込み、毎朝出勤前に素振りなどをして、すっかりテニスマニアになってしまった。しかし基礎ができてないのは悲しいことで、バックスイングでまともにボールを捕らえることができない。

 ちょうどその頃長野市でローンテニスクラブ設立の機運が盛り上がった。音頭をとったのは信濃毎日新聞社に勤務するバリバリのテニス選手である。
当時テニスコートを持っている会社は少なく、私の勤務する会社にも参加の呼びかけが来た。技術のつたなさは、テニスコートをクラブに開放することで補われたのである。
私を含め数人が長野市ローンテニスクラブのメンバーになった。

 不幸は、その年長野県で国体が開催されたことにある。開催場所は松本市だったが、わがローンテニスクラブに審判団の派遣要請が来た。
信濃毎日新聞社に勤務している会長から、私の会社からも線審を出すように要望が来た。そのとき暇人は私一人だった。

線審なんて、ボールが入ったか入らないかを見るだけでたいしたことがあるまい。いいですよ」軽く引き受けた。
硬式テニスを始めて半年程度の人間が国体の線審をすることになってしまったのだ。

 行ってすぐに後悔した。旗を渡されたが、これが何を意味するのか知らなかったからである。この旗でアウトとセーフの判定をするのだが、私は恐る恐る主審に、アウトとセーフの旗の振り方の手ほどきを受けた。
この人、だいじょうぶ」と主審は疑ったが、試合が始まろうとしていたので、私は線審をそのまま務めることになった。

22725_027_2  当時は沢松和子が全盛時代で、世界ランキング入りをしていた。私が線審をしたのは女子ダブルスで、目の前に沢松和子がプレーをしていた。

 サーブを見て驚いた。ボールが早すぎてコートに入ったか入ってないか分からないのだ。
私が今まで知っていたテニスのは、お遊びテニスだっただから、ボールにハエがとまりそうだった。だからこの落差に愕然とした。と同時に頭に血がのぼり、真っ白になってしまった。

 旗の振り方はすっかり忘れてしまい、サーブのたびに旗を上げ下げしたものだから、沢松和子にギューと睨まれた。心臓はとうにパンクしてしまい、その後どうなったのか分からないくらいだ。

 さすがに主審が見かねて、私に確認しに来た。「どっちなんだ
私は「入ったか入ってないか分からない」と答えたので、主審はあきれ返った。第一セットが終了した段階で線審を代えてくれたときは心底ほっとした。もう少しで、国体のテニス競技をめちゃくちゃにするところだった。

  興奮が収まるまで、テニスコートの端で、いじけて呼吸を整えていたが
人間は能力を超えた要請を受けたときは、きっぱりと断るのが正しい態度だ」と心から反省した。

 実はこの私の経験と同じような経験をした国際審判がいた。シドニーオリンピック柔道決勝100k超級の主審をしたニュージーランド人である。
 ドイエの内股に対し。篠原内股すかしで対抗し、明らかに篠原が一本とっていたが、主審はドイエの内股を有効とした。

 私は断言するが、この主審はいままで内股すかしを見たことがなかったはずである。内股すかしのような高度な技は、柔道の本場以外ではついぞ見ることのできない技だ。
この人はニュージーランドで私の国体審判と同じような過程をたどって選らばれたに違いないずぶの素人だ。

 この時は、大いに篠原に同情したが、同時にニュージーランドから来た主審にも同情した。
人間は能力を超えた要請を受けたときは、きっぱりと断らなければいけないのだ

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(22.8.21) 夏休み特集 NO13 髪が生えてきた

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 私の最大の悩みの一つに頭がハゲていることがある。正確には頭頂部がハゲていてその回りには毛があり、ちょうど鉄腕アトムのお茶の水博士のような状態になっている。

 今でこそ諦めてしまったが、まだ現役の頃は実に涙ぐましい努力をして頭頂部の毛髪の再生に取り組んだ。
いわゆる育毛剤と言うものをふりかけてマッサージを行うのだが、当初は有効な育毛剤はまったく存在しなかった。

 そうした中で発売されたリアップは、始めて効果が確実と言われた育毛剤だったので喜び勇んで購入し、神に祈るような気持ちで振りかけたものだ。
確かにこのリアップはそれなりに効果があったが、やたらと振りかけていたら、ひどい副作用に悩まされるようになった。

 心臓が締め付けられるように痛むのである。それも普段の時はそうではないのだが、マラソンでスタートダッシュをすると、心臓が止まるかと思うほど痛むので、さすがにリアップは諦めた。
その後フラバサイトという育毛剤に変えてみたが、こちらは自律神経に障るらしく、夜つばが出なくなった。

 何度もトライしてはむなしく諦めなければならなくなり、現在はひどくハゲが進んでいる。
仕方がないので外に出る時は帽子をかぶり、家では手ぬぐいを頭に巻いている。こうしてはかない頭髪を少しでも見ないようにして暮らすようになって精神が安定してきた。

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(19.3.17)髪が生えてきた。

 信じられないことに髪が生えてきたのだ。理由は2つ考えられる。一つは新しい育毛剤に変えたことである。花王の「フラバサイト」と言う。私はこの育毛剤が効いているのだと思っているが、かみさんはこの説に反対する。

仕事のストレスがなくなったからよ。パパさんはストレスに弱いから」と言う。
絶対フラバサイトだ」「いやストレスだ」と議論が沸騰しそうになって、ふと考えた。
もしかみさんの説が正しいと、議論をすることがストレスになって、せっかく生えた髪が抜けてしまう
にこやかに微笑んで「いづれにしてもいいことだ」と言って議論を止めた。危ないとこだった。

 私は頭頂部が禿げている。弟は「ローマ法王みたいだ」と言って笑った。私も大いに笑って「ユダヤ教徒の帽子みたいだろう」と言ったが、家に帰って鏡を見てため息をついた。複雑なのだ。

 実は私に頭髪が急激になくなったのは大病をしたからである。真珠腫性中耳炎という。耳の内耳に真珠のような塊ができ、だんだん大きくなって脳を圧迫するようになる。ほっておくと命取りになるので手術により摘出する。36歳のときだった。

 よく昔の武将で30歳台で若死する人がいるが、その理由が分かった。昔は手術などなかったのでそこで死んでいたのだ。私も昔だったら36歳前後で死んでいたことになる。

 しかし、この手術によって私の頭髪は急激になくなってしまった。癌患者が制癌剤を投与されて頭髪が抜けるがそれと同じ症状になってしまったのだ。最初は命が助かったことを神に感謝していたが、36歳で禿は早すぎる。

 私の親戚筋の女性は、結婚の3条件を「ちびと、でぶと、はげはいやだ」と言う。
はげはいいだろう。第一かわいらしい」と反論したが、女性の本音に愕然とした。

これは大変だ。もしかみさんから離婚請求をされたとき、『いいでしょう、離婚します』ときっぱりいえない。再婚するとき『はげはいや』なんていわれて再婚もできない
36歳で独身はつらいので「ママさん、おれが悪かった。何でも直すからおれを捨てないでくれ」なんて言いそうだ。
これでは男が廃る。

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 以来、涙ぐましい努力をすることになった。 あらゆる育毛剤を試したが、実際は精神安定剤以上の効果はなかった。ふりかけてマッサージをするが、そのマッサージだけが本当の効果と言うのが実態だった。

 だから1999年に、大正製薬からリアップが発売されたときは狂喜した。なにせ男性用発毛剤で国内唯一の医薬品であり、アメリカではロゲインと言って、効果が実証されている。
発売時の人気はすさまじく、私も数件の薬屋をたずねてようやく手に入れた。

 これで「まあ、山崎さんはいつまでたっても、髪が黒々して素敵だわ」なんていわれると思って涙ぐんだほどだ。

 だが、しかし説明書を見て愕然とした。「効果が出るのに半年から1年はリアップを使い続けなければならない」と書いてある。
大正製薬の陰謀ではないか」と思ったが、私は説明書どおりリアップをつけ続けた。

 確かにつけているときは、抜け毛が少なくなって髪が多くなるが、5年目ごろから、ひどい胸痛に悩まされるようになった。走ると狭心症のように胸が痛む。今から2年前の話である。

 リアップの副作用が出たのである。大正製薬は決して言わないが、リアップには副作用がある。効果と副作用は裏腹の関係だ。私は当時使用していた薬品はリアップだけだったので、これを止めることで胸痛から回復することができた。頭髪より心臓のほうが大事だ。
その代わり頭髪はますます少なくなってしまった。

 それ以来すっかり頭髪のことはあきらめていたが、小学校にボランティアに行くことになって少し考えを改めた。
小学生から「はげのおじちゃん」なんていわれるのはつらい。
せめて「頭髪がやや薄毛の、初老の紳士」と言われたい。

 リアップは副作用に懲りていたので、他の何でもよかった。たまたま目についたのが、花王の「フラバサイト」である。
 しかし、これが私にはぴったりと合った。あと数ヶ月もすると頭頂部も隠れるかもしれない。そうしたら小学生に「黒髪のおじちゃん」と言わせよう。もしかしたら「黒髪のおにいちゃん」と言ってくれるかもしれない。

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(22.8.20) 夏休み特集 NO12 足が目になる

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(マッスルさん撮影、山崎編集)

 私の趣味の一つにマラソンがあるのだが、長谷川恒男記念CUPという奥多摩で行われている山岳レースで実に貴重な体験をした。
この競技は午後の1時にスタートして、夜を徹しして走り、24時間以内に戻ってくればいいのだが、競技が行われるのが10月10日前後のため、すぐに夜になる。

 夜は懐中電灯で照らしても山道の起伏は分からない。一生懸命見ようとしても無駄で、その時は足裏のセンサーを効かして地面の状態を知る。

 普段はこの足裏のセンサーのことをまったく忘れているが、実際に暗闇の中を走ったり歩いたりすると、実に有効なセンサーだと言うことを知る。
この記事は普段は隠れている人間の持つ能力に感動して書いたものだ。

 
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(マッスルさん撮影、山崎編集)

(19.3.16)足が目になる

 足が目になる信じられないかもしれないが本当の話である。私がそのことを実感したのは、日本山岳耐久レース、別名長谷川恒男CUPにおいてである。

 長谷川恒男氏は、世界の岸壁を冬季に1人で登坂した日本の誇るアルピニストだったが、惜しいことに91年10月、パキスタンのウルタルⅡ峰において、なだれに会い遭難した。43歳だった。

 日本山岳連盟は長谷川恒男氏の偉業を讃えるために、奥多摩の山塊を走るトレッキングレースを開催することにした。距離は73kmだが、山塊である。最高峰は三頭山(みとうさん)で約1500m。スタートは武蔵五日市で標高差は1100mある。

 山の73kmを、平地換算するとその2倍、約140km程度のレースに相当する。時期は長谷川氏が遭難した10月10日前後の土日に設定される。

 制限時間は24時間とこの種のレースとしては余裕がある。すべて歩いても完走できる時間だが、一日中歩いていなければならない。
 スタートが午後1時のため、すぐに暗くなる。いわば夜を徹して山中を走り回ると考えればよい。完走率は約半分だから、実際は非常に厳しいレースと言える。


 夜中の登山道は木立に阻まれて非常に暗い。特に曇りや雨の日は真っ暗と言ってよい。もちろん懐中電灯は持っているのだが、暗闇に吸い込まれてほとんど何も見えない。目で見ても足元しか見えない。木の根っこや凹凸は分からない。

 このような時は目で道を探してはいけない。足で探すのだ。ほとんど足の感触に頼ることになる。土の道か、石の道か、岩の道か、すべて足に聞く。根っこはあるか。滑りそうか。傾斜の度合いも、危険かそうでないかもすべて足に聞く。
すべての神経を足に集中すると、目から得る情報と同程度の情報を足から得ることができることを知る。

 足が目になるのだ。私はこのときまで足にこんな素晴らしいセンサーがあることを知らなかった、目が見えなくても登山道を把握できる。
足に聞け」私は念仏のようにこの言葉を唱える。

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(マッスルさん撮影、山崎編集)

 私はこのレースに3回出場したが、登山道が見えなくなると、足を目にかえた。そうすることによって完走することができたのだから、足のセンサーは馬鹿にならない。

 もっとも100%、目に変わるかというとそこまでは優秀でない。あるいは慣れていないと言うのだろうか、毎回アクシデントに見舞われている。

 1回目のときは三頭山の稜線で崖から落ちた。幸い5m程度落ちて木に引っかかったのだけど、天と地が逆になって身体が止まった。
このような状態になると、当初は自分がどんな立場になって居るのか分からない。どっちが上でどっちが下か分からないのだ。散々もがいて登山道に復帰したときは心底ほっとした。

 2回目のときは、小川にかかった梯子状の橋を踏み外した。梯子と梯子の間があいていたのだが、そこに足を突っ込んでもんどりうって倒れた。
痛さは気を失うほどで、タイツからは血がにじみ出ていた。このときはリタイアを覚悟したが、幸い10分程度倒れていたら、痛さが引いたので走ることができた。

 3回目のときは大雨で、あまり転んだため、体中が泥だらけになってしまった。この時は、足に聞いても滑って聞きようがなかった。
よくアメリカの海兵隊員が泥の中を匍匐(ほふく)前進する訓練をしているが、それと同じ状態になってしまった。雨の泥道は横滑りがしてとても走れるものではない。

 ただ、いづれのときも、夜は足を目にしていた。普段は気がつかない足のセンサーの能力は驚くほどだ。人間には隠れた能力が残されている。暗闇では足は目になるのだ。

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(22.8.19) 夏休み特集 NO11 なぜ「おゆみ野」というのだろう

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(マッスルさん撮影 山崎編集)

 私が住んでいるこの地区を「おゆみ野」と称している。当初私はこの地名がもともと有ったのだと思っていたが、UR都市機構が名前の公募をして決まったのだと知った。

 だから「おゆみ野」という地名は高々25年程度の歴史しかないのだが、一方「おゆみ」という地名は鎌倉時代に遡るらしい。
現在の千葉市埋蔵文化財調査センターの場所にかつて小弓城と言う城址があった。
この城をめぐって千葉の覇権争いがされたが、ここが下総上総を分ける要衝の地であったからだろう。

 私はこの千葉近在の歴史について調査をして、ブログに書きたいと思っているが、地方史の資料は細部が詳しいものの大きな歴史の流れを読みにくい。
何とかして歴史の流れの中に位置づけた、おゆみ野近在史を書き上げたいものだと思っている。

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(マッスルさん撮影 山崎編集)

(19.3.12)なぜ「おゆみ野」と言うのだろう

 この土地をなぜ「おゆみ野」と言うのか知りたくて「おゆみ野風土記」(おゆみ野の歴史を知る会編)を読んでみて頭を抱えてしまった。分からないのだ。

 最近のことなら分かる。この街が「おゆみ野」と正式に命名されたのは、19843のことである。それまで日本住宅公団はこの地を「千葉東南部地区」という、無機質な名前で呼んでいたが、入居開始にあたり、街の名前の公募を行った。

 その結果、この地の一部が昔から「おゆみ」といわれていたこと、および響きの良さや、親しみやすさ等を考慮して、「おゆみ」に「」をつけて「おゆみ野」と命名された(同書P28)。今から23年前のことになる。

(注)応募総数383通のうち、「おゆみ野」は7票だった。
 
  しかしこの風土記の「はしがき」をみてびっくりしてしまった。そこには1983にこの地を「
おゆみ野」と命名したと書いてある。こんな近い時代のことでもすでに2説ができている。しかも同じ本のなかに違った年号が書いてあるのだ。
これは大変だ。古い時代のことになるとどうなるか分からない
郷土史の漆黒の闇に足を踏み入れていく感じがした。

 最初、私はこの地一帯が、昔から「おゆみ」と言われていたと思っていた。「だからおゆみ野なのだろう

 しかしそれは正確ではなく、対象地10か町村のうちの2箇所(生実町、南生実町)だけの名前だと知った。さらに言えば、生実町、南生実町は飛び地の一部が、おゆみ野に含まれるが、ほとんどがおゆみ野の外の区域になっている。はっきり言ってしまえば関係ない。

 このおゆみ野の地に、開発以前からあった村落は、実際は有吉六通の2箇所だと知った。だから村落名をとるなら「有吉六通」になる。

うぅーん、おゆみおゆみ野は関係ないのだ
 念のため、場所を確認しようと地図を見た。生実町、南生実町は行政区域は中央区で、鎌取と蘇我の中間で、どちらかと言うと浜野よりの場所を示している。


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(マッスルさん撮影 山崎編集)

 だが「おゆみ」の地は確かに歴史上に登場する。

 「おゆみの地に有名な城が2つあった。「おゆみ」が歴史的な地名だと言われているのは、どうやらこの「おゆみ城址」から来ている。字が違う。「小弓」とも「生実」とも書く。 小弓城は現在の文化財センターの地に、一方生実城は生実池の近く、重俊院ちょうしゅんいん)の地にあった。前者は古く、後者は新しい。

 小弓城は歴史的にも重要な城で、ここをめぐって、鎌倉時代から何度も争いが起こっている。千葉の覇権をめぐる要衝の地である。ただし、お隣の地の歴史で、どう見ても「おゆみ野」の歴史ではない

 結論から言うと、「おゆみ」は歴史的地名だが、現在の「おゆみ野」の場所とは直接関係がない。あえて言えば、「おゆみ城」と言う有名な城が近くにあったので、借用しただけだと分かった。

「ワトソン君、おゆみをいくら調べてもおゆみ野とは無関係だね。どうしよう」
「ホームズ、おゆみ野の人には、事実は事実として伝えるしか仕方ないね。残念だが」

うぅーん、地名とはこんなものか。ひどく納得してしまった

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(22.8.18) 夏休み特集 NO10 走友会に入ってしまった

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(マッスルさん撮影、山崎編集)

 私が走友会に入った経緯を記述した記事がある。
現役の頃は会社の仲間と確かに競技に出てはいたが、走友会と言う形式ではなかった。なにかいつも二人で出ていたと言うような感じだ。

 私がちはら台走友会に参加したのは、たまたまおゆみ野の四季の道JOGしていたKさんに声をかけたからである。
Kさんは女性ランナーでとても素敵なプロポーションをしており、しかも早い。

 すっかり見とれて思わす声をかけたのだが、この時ちはら台走友会に勧誘された。
それまで走友会に入ったことがなかったので幾分躊躇したが、この走友会は強制的な練習の縛りがなく、自主的な練習を奨励しているので私の趣向にマッチし、しかも気持ちの良いランナーが多かった。
おかげでその後ちはら台走友会の末席を汚させてもらっており、駅伝もBチームで出場している。

 結果的にはとても良い選択だったと思っている。

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(マッスルさん撮影、山崎編集)

(19.3.11)走友会に入ってしまった

 思わぬことで走友会に入ってしまった。
 四季の道を清掃していたときである。ロングタイツでピシッと決めた女性ランナーを見た。手にはペットボトルを持っている。LSD(長距離走)をしていた。私は根がランナーだから、このような人を見るとつい声をかけてしまう。

 Kさんという。ちはら台に住んでおり、ちはら台走友会のメンバーだと自己紹介された。私もマラソンが趣味だと言ったところ
走友会に入りませんか」と誘われた。
実を言うと、過去に何回か走友会に勧誘された経験がある。そのたびに断ってきた。走友会のイメージが怖かったのだ。

 怖いお兄さんが竹刀を持って叫ぶ。
おまえ、それでも走ってるんか、ブタでもそのぐらい走るぞ
この年になって、ブタ呼ばわりはいやだ。せめてコブタと言ってほしい。

 しかし今回はうら若き乙女から誘われてしまった。乙女から誘われて断ったことはない。
かみさんは「鼻の下が長いのだ」と言う。
断じて違う。乙女の心を傷つけたくなかったのだ。
主よ、このロドリゴは主のほかに愛をささぐる事なきを、お信じください

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(マッスルさん撮影、山崎編集)

 ちはら台走友会の例会は、毎週土日の午後4時から1時間程度と決まっているらしい。創立は1993年と言うから足掛け14年の歴史がある。私がおゆみ野に越してきてからの年数と同じだ。

 ちはら台には実に美しい遊歩道が整備されている。かずさの道と言う。特に桜並木が美しく、花見の時期は人出でにぎわう。
 ちはら台走友会はこのかずさの道をホームグランドとしており、往復で約8kmのコースとなっている。道にゴミはほとんど落ちていない。定期的に清掃する人がいるらしい。この街を愛している人がいることがひしひしと伝わってくるような遊歩道だ。

 ちはら台走友会の会長さんはYさんと紹介された。一目でマラソンランナーと分かる精悍な身体つきをしている。とても若く見えるが実年齢は分からない。マラソンランナーは確実に実年齢より10歳は若く見えるためだ。身体にも顔にも脂肪がついていない。

 サブスリーランナーだと言う。フルマラソンを3時間以内で走ると言う意味だが、マラソンをしたことがない人は、この意味を理解できない。
実は3時間以内で走るためには血のにじむような努力をして、それでも素質のある選ばれたものだけが到達できるレベルなのだ。

 私は仕事にかけるエネルギーを、すべてこのマラソンに注ぎ込んだ時期があるが、それでも3時間18分が最高だった。

 次々に紹介されるランナーを見て、心底驚いてしまった。マラソンが命と言う感じがにじみ出ている。小学校5年の少女もいた。とても速いのだという。
小学生に負けるようでは、完全に引退を決心しよう。『駄目ですね・・・もう少し速く走れるとおもっていましたが・・・足がもつれてしまって・・・引退ですね』」円楽師匠の気持ちになってしまった。

 しかし幸いなことにこの会は、自分の実力に合わせて練習をすることになっており、陸上部の選手のような集団走はしていなかった。たまたま実力が同じくらいのFさんと併走したが、かずさの道のRUNは心が躍るほど楽しかった。

 ランナーは気持ちのよい人が多い。ストレスをRUNで発散しているので、気持ちが前向きで明るい。吉永小百合を彷彿とさせる方も居た。私は喜んでこの走友会に参加させてもらうことにした。

 だがしかし、昔みたいにマラソンにのめりこんだらどうしよう。『走ることと、寝ることだけがとりえ』と言われていた昔に戻ってしまう。

主よ、このロドリゴにせめてブログを書く時間と、主を讃える時間をお与えください

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(22.8.17) 夏休み特集 NO9 魔境

P7240146
(マッスルさん撮影、山崎編集)

 これは私が実際に経験した話である。私の趣味の一つにマラソンがあるが、最近のマラソンは色々なバリエーションがあり、超長距離走もその一つである。

 超長距離走とは、一般的に100kmを超えて長い距離を走るものだが、川の道というレースもそのうちの一つだった。
東京の荒川を遡り奥秩父の源流域まで走って、今度は信濃川を下って新潟まで走るレースで、5日間で一気に走りきる種目と2日半ずつ二回に分けて走る種目がある。

 私は後者の種目に参加し、荒川の河口にある葛西臨海公園から長野の小諸までの270km二日半のレースに参加した。
この種目の難所は夜半に越える奥秩父の三国山約2000M)の峠越えで、まったく月明かりだけの山道を越えなければならない。

 この時疲労と暗闇の恐ろしさがあいまって私は幻覚を見てしまった。

P7240148
(マッスルさん撮影、山崎編集)

(19.3.7)魔境


 この世には魔境という言葉がある。井沢元彦氏によれば「その宗教が邪教であろうとなかろうと、一定の条件の下に、『悟り』と錯覚するような現象『幻視・幻聴等』は起こりうる。それを魔境という」のだそうだ(逆説の日本史、6中世神風編)。

 実は私もその魔境を見てしまった。これはその報告である。

 私の趣味はマラソンだが、現在のマラソンはスピード系距離系に分かれる。スピード系については、テレビでよく放映されている東京マラソンのような、あくまでもスピードを狙った競技を指す。

 一方距離系はできるだけ長い距離を走ることを目的として、一般的には100km以上の競技を指す。
 私が魔境を見たのは「川の道270km」という競技で、荒川の河口、東京の葛西臨海公園から、長野県の小諸まで、二日半で駆け抜ける競技だった。こうした競技に参加する人は少なく、数十名のこじんまりしたレースである。物好きとしかいいようがない。5月だった。

 荒川に沿って遡り、更にその上流の中津川を遡ると、奥秩父の最高峰甲武信岳の近くの、三国山約2000m)の峠にさしかかる。競技は更に峠を降りて、千曲川に沿って小諸まで走るのだが、私が魔境を見てしまったのは、この三国山の峠越えの時である。

 その時は夜だった。すでに180km走ってきており、スタートから1日半が経っていた。途中4時間の休憩は取ったが、眠っていない。その状態で山越えに入ったことになる。5月の山は寒い。その時も氷点下に近かった。

 正直言うが、私は気丈ではない。かみさんからは「蚤の心臓」といわれている位だ。深夜の山道を1人で行くのは恐ろしかったので、やはり気の弱そうな走者と二人で山越えに入った。

P7240150
(マッスルさん撮影、山崎編集)

 私が幻聴に気づいたのは、中腹まで差し掛かった頃である。回りの小立や、横を流れている川面から、いっせいに笑い声が聞こえてきた。実に楽しげな笑い声で、ケタケタ笑っている。
こんな山奥でいったい誰が笑ってるんだろう
 あまりに不思議なので、止まってしばらく聞いていると、それが木立が風に揺れる音や、川のせせらぎの音だと分かった。しかし笑っているのだ。

 次に現れたのは幻覚だった。ありとあらゆるところから人が飛び出してきて踊りを踊り始めた。実ににぎやかな踊りで、幕末に発生した集団舞踏ええじゃないか、ええじゃないか」のイメージに似ていた。
いや、すごい。みんな踊っている

 実際に踊っている人のそばまで行くと、それは倒木だったり、岩だったり、道路標識だったりしたのだが、遠くで見ている限り、人の踊りなのだ
 相手が動いているように見えたのは、実際は自分がふらついていたからだが、意識としては相手が動いている。

人が大勢踊っていませんか」 と念のため、隣の走者聞いてみた。
実はやたらと人が見えるんだ」隣の走者はそう答えた。

  もう一つ不思議だったのは、こうした現象を不思議とも思わず、また恐れることもせず、恍惚として見とれてしまったことだ。
こんな世界があるんだ。すごい」 
 まさに魔境である。

 私は30年間の走歴がある。練習もそれなりにしている。それなのに、たった2日間眠ることなく走っただけで、精神に異常をきたしてしまった。
よくオウム真理教のような邪教集団が、修行と称して数日間眠らせずに、一心不乱に読経させるが、これは魔境を見させるためである。

 人はたやすく魔境を見るものだという井沢元彦氏の説を裏付けてしまった。しかも魔境は人を恍惚とさせる。神と一体になったと思うのも無理はない。オウム真理教の信者で今でも改心しない人がいるが、その理由が分かったような気がした。

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(22.8.16) 夏休み特集 NO8 千日回峰

P7240137
(マッスルさん撮影、山崎編集)

 当初この四季の道の清掃を始めるにあたって願をかけた。
たとえどのような状況にあっても毎日清掃をするという願である。
雨が降ろうが雪が降ろうが、台風が来ようがあたかも比叡山延暦寺で行われている千日回峰のイメージで休むことなく実施することにした。

 しかし春先の驟雨は冷たい。傘を持たずに清掃活動をしていたら体中冷えあがってしまった。
こんなことなら願などかけるんじゃなかった」愚痴をいいながら歩いていたら、金澤小学校の近所に住む篤信の女性が傘を貸してくれた。

 おかげで風邪を引かないで済んだが、以後は雨の日は無理をしないことにして、千日回峰は止めることにした。

P7240104
(マッスルさん撮影、山崎編集)

(19.3.3)千日回峰

 千日回峰(せんにちかいほう)とは比叡山延暦寺で行われている荒行で、7年間をかけて通算1000日間の業が行われる。歩く距離は当初は一日30kmだが、だんだんと増加され最後は1日84kmも歩くというからすさまじい。実際やってみると分かるが、84kmとなると一日中歩いているようになる。

 実は私もこの千日回峰に憧れ、1000日間このおゆみ野で「」に入ることにした。千日間一日も休まず、四季の道を清掃する「」を立てたのである。
もし我に、この願、違えることあらば、死を与えよ

 すっかり修験者の気持ちになって清掃活動をしていたが、ある驟雨の日、すんでのところでところで凍死しそうになった。この時は篤信の女性が傘を貸してくれたので、凍死だけは免れた。

 あまり無理な「」は本当に死んでしまいそうだと悟ったので、「」の内容を少し修正した。雨の日は清掃活動を休むことにしたのである。
もし我に、この願、違えることあらば、死を与えよ

 朝起きて、雨が降っていようものなら、実にほっとしたものだ。
主よ、主はこのロドリゴに安息日を与えたもうたのですか

 雨が一日中降っているときは問題がないのだが、大抵の場合は午後には雨が止んでしまうことが多い。日差しが照りだしたりすると、ほとんど精神の安定を欠いてしまう。
ぼくちゃん、今日はどうしょうか。雨は止んだけど、おなかは痛いし、熱もあるかもしれない
ほとんど小学生が学校に行く前の状態になってしまう。

P7240117
(マッスルさん撮影、山崎編集)

 だが、しかしロドリゴは60才だ。小学生と同じでは笑われてしまう。中学生程度の意志力はある。
こういうときは景気付けが必要だ。大好きな長山洋子の「じょんがら女節」をめいっぱい歌いながら清掃活動を始める。

雪は下から舞い上がり、赤い裳裾(もすそ)にまといつく  ジャンジャンジャン(これは口三味線)・・・・・・・
この歌を歌うと、精神はだんだんと高揚し、幸せな気分になって、ちょうど軍隊の行進のように意気揚々と歩くことができる。

 ある女性から「山崎さんは歩くときは、身体をピシッと立てて、実に姿勢がいいですね」と言われたが、何を隠そう、長山洋子と心で歩いていたのだ。

 しかし、こんなことがかみさんに知られたらことだ。
いい年こいて、スケベー」なんて言われてしまう。

久米の仙人でさえ、乙女の腿脛(ももはぎ)を見て神通力を失うのが世の常なので、この程度は許容範囲だ」なんて居直るのも大変だ。こればかりはかみさんに知られないようにしよう。

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(22.8.15) 夏休み特集 NO7 からすなぜ鳴くの

P7240126
(マッスルさん撮影、山崎編集)

 思えばカラスとの戦いはもう数年に及んでいる。何か武田信玄上杉謙信川中島の戦いのようだ。
カラスはとても利発な鳥で、食料を確保できる場所を一度見つけると集団でやってきてゴミ漁りをする。

 最近では少なくなってきたが、その当時はアパートのゴミステーションはふたがなく、ただ積み上げるだけだったからカラスの格好の餌場になってしまった。
特に私の家の前のアパートのゴミステーションが狙われた時は最悪で、玄関の前がゴミの山になった。

 思い余ってD2ゴミネットを買ってきて、家の前のアパートをはじめ近所のアパートのゴミステーションにネットをかぶせた。
幸いに家の前のアパートの住人はこのネットを使用してくれたので、ゴミの山になることは以後なくなったが、せっかくの私のプレゼントを使用しないアパートもあって、そちらは相変わらずカラスの餌食になっていた。

P7240132_2
(マッスルさん撮影、山崎編集)

(19.3.1)からすなぜ鳴くの

 「カラスなぜ鳴くの カラスは山に かわいい七つの子があるからよ」と歌われた「七つの子」は野口雨情作詞、本居長世作曲の名曲である。
この歌に歌われるカラスはいかにもかわいらしいが、実際のカラスはタフで頭がよく、そしてゴミステーションの荒らし屋だ。

 私が近所のゴミステーションを舞台に、カラスと死闘を繰り広げていたのは、2年前のことである。
この近くには古くから建てられたアパートが多く、そうしたアパートのゴミステーションは上部が開いたオープン型で、ネットは張られていなかった。

 カラスはそおした場所を目ざとく見つけ、仲間を呼び集めてゴミをあさっていたが、日を追って数が増えはじめた。朝の蝉噪はすさまじく、私はカラスの鳴き声で目が覚めるほどになった。

 当初はやや遠くのアパートのゴミステーションが狙われていたが、数が増えるに従って私の前のアパートもターゲットになってしまい、前の道一面にゴミが散乱し始めた。

これは大変だ。家の前が夢の島になってしまう

 私はカラスの鳴き声がすると、起きてゴミステーションに群がっているカラスを追い払うのだが、回収車が来るまでがんばるわけには行かない。
 カラスは頭がいい。サラリーマンの習性を知っている。

カラスの親「もう少ししたら、あのおっさんがエサアサリに出かけるから待ってようね
カラスの子「うん、そうしたら腹いっぱい食べるんだ

 カラスは私が会社に行った隙を狙って、悠然とゴミをあさり、帰宅するとカラスに散らかされたゴミの清掃が日課になってしまった。

 いくらなんでもこれでは身が持たない。私は思い余ってD2に行って、カラス対策用のネットを購入し、カラスが群がっていた4箇所のゴミステーションにネットを張った。そして張り紙をした。

カラスがゴミを漁っているので、ネットを設置しました。ゴミはネットをかけて出すようにお願いいたします

 幸いにも、私の目の前のアパートともう1箇所はこのネットを利用してくれ、それ以来カラスの襲撃からは免れるようになった。住民も悩んでいたのだ。

P7240141
(マッスルさん撮影、山崎編集)

 ところが信じられないことに、他の2箇所のアパートではネットの上にゴミ袋を重ねて出し、相変わらずカラスの被害は減らない。
唯一の行幸はそこが私の通勤路を外れていたことだ。

ここは、私の通勤路じゃないから、知らん」と一旦は居直ったが、それでは少し心が狭すぎると反省し、1週間に1度はゴミステーションの清掃をしはじめた。

 ある日、そのゴミステーションの住人から声をかけられた。アパートの経営者に雇われた清掃員と思ったらしい。
ネットをようやく設置してくれたのはいいけど、ここにはその筋の人がいてどうしてもルールを守らない。ちゃんと言ってってほしいのだが
はあ、そうですか。ですが・・・・・

 私は、この近くの住人で、ネットも私が張ったのだと説明したら、その人は目を丸くして驚いていた。
この人、なに、どうしてそこまでするの」という感じがありありと見えた。理由を説明するのも大変だ。

 私はその後もゴミステーションのゴミが荒らされていたら、清掃をしているが、どうしても会社から雇われた清掃員と間違えられてしまう。

あんたもっとちゃんときれいに掃除しなさい」と言われたら、なんて答えようか。

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