今日はブログの作成が不可能かと思っていたが、すんでのところで作成ができた。実は昨日からインターネット・エックスプローラが動いてくれない。
5日のブログはネットカフェから稼動させたが、それ以降の分についてどうしようと頭を悩ませていた。
私が使用しているネット環境はソフトバンクのフレッツ光ネクストなので、早速ソフトバンクのカスタマーサービスに泣きを入れた。
20分ぐらい待って電話がつながり、やれ嬉やとばかり説明をし、何回かのテストをした結果、ソフトバンクのルータに問題がありそうなことが分かった。
私はこのような場合を想定して前に使っていたNTTのルータを保存していたので、そちらでテストをしてみるとうまくつながったので、ソフトバンクの新しいルータがくるまでは昔のスタイルでこのパソコンを動かしている。
注)ただし、我が家にある2台のパソコンのうち1台しかこの方法では動かない。
そんな訳で首の皮一枚で動いているので今日も何とかブログの更新ができた。
今日(5日)は長柄町で一周駅伝大会が開催された。6区間約27kmの距離である。昨年はインフルエンザで大会が中止になったので2年ぶりの大会だ。
ただし出場チームは2年前は69チームだったのに、今回は41チームに減っていた。
何か他のイベントとぶつかったのだろうか、特に高校生のチームが1チームととてもさびしかった。
しかしでてきているチームはいずれも強豪で、特にトップの山武消防Aチームなどは、大学駅伝の選手が走っており飛びぬけて速かった。
ちはら台走友会からは2チームが参加してAチームは総合10位、私が参加したBチームは総合34位だった。
走ってみると分かるが中学生といえども馬鹿にできない。私などは女子選手に軽々と抜かされてしまうし、1位から10位の間に5チームも中学生が入賞しているのだから大したものだ。
(ちはら台走友会AのYさんの力走)
この日はほぼ快晴で気温も暖かい小春日和だったので走りやすかった。この長柄町のコースはアップダウンが激しく、特に2区と4区は箱根の登りみたいな箇所がある。
私は相対的に走りやすい3区、約5kmを走ったのだがそれでもあごが上がった。
正直言うが64歳にもなると若者と一緒になって走るのはことだ。
しかしこの駅伝を止められないのは、限界に近い速度で走れるからで、駅伝以外でこんなにまじめに走ることはない。
いつものことだが走友会のメンバーと楽しく走れてとても幸せだ。
(22.12.8追加)この駅伝を同じグループで走ったマッスルさんが一文を寄せてくれました。
ところで、我々ロートル(老頭児)も負けてはおれぬ。
というのも先般5日(日)、近在の長柄町で駅伝大会が開催され、これに出場したのだった。
長柄町というのは、私の家からは20分足らずで、全く静かな農村のたたずまいで、私の好きな町(村?)である。
ここで行われた駅伝大会は第52回であり、昨年のインフルエンザ騒ぎでの中止を除けば、昭和32回から毎年開催されてきた、由緒ある(?)町内大会なのだ。
この大会で、5kmを必死に走りぬいたのは置いておくとして、私にとっては感動する出会いがあった。
私の走った区間は、水上小学校から大崎電気システムズの横を通って、長柄町役場までの最終区だったが、出走までの時間が有余るほどあったので、大崎電気までゆっくりウォーミングアップしている時だった。
途中に立派な石碑が建っていた。
大田實顕彰碑とある。
碑の横に説明文があって、そこに記されていた文章を何気なく読んだ私は、全身に緊張が走った。
こんなにも凄い方が、近在におられたのだ。
走るのがちょっと辛くて嫌だななどと思っていたダレた背筋がピーンと伸びてしまった。
海軍中将 大田 實
大田 實君は明治二十四年四月七日、父彌三郎 母乃ぶ の次男として長柄町高山に生る。
大正二年海軍兵学校を卒業後陸軍歩兵学校において歩兵戦術を修得 海軍陸戦の権威であった。
昭和七年上海事変には上海陸戦大隊長として出征、同十四年海南島攻略陸戦隊指揮官、同十七年ミッドウェイ攻略陸戦隊指揮官、次いで連合陸戦隊司令官としてソロモン方面作戦に殊勲をたてた、昭和二十年一月戦局愈々急を告げるや選ばれて佐世保警備隊司令官から沖縄方面根據地隊司令官となり部下一万名を指揮し陸軍十万を率いる第三十二軍牛島満司令官と一体となり軍官挙げて沖縄防衛に任じ米軍の重囲の中に善戦敢闘七十余日再三の転進懇請にも拘らず那覇南方小祿の海軍陣地を死守し遂に昭和二十年六月十三日午前一時「身はたとえ 沖縄の辺に朽つるとも 守り遂ぐべし 大和島根は」の辞世を口ずさみ残存部隊に後事を託し従容として自決された。
特に六月六日夜発信の海軍次官宛の訣別電報は島田叡知事に代わって県民の献身的協力状況をつぶさに伝え「沖縄県民カク戦ヘリ 県民ニ対シ 後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と訴えた々の悲願は世界戦史上不朽の電文であり 終戦後二十七年沖縄県の祖国復帰に伴い本土の人々の心を南方同胞援護に向かわせる指標となっている。
好文威武聖戦の必勝を祈念して祖国の為一身を捧げられた郷土の先覚者太田 實君の功徳を偲んで永之に顕彰を讃ふるものである。
昭和四十八年六月十三日
級友 日本国防協会長 保科 善四郎 撰
帰宅してすぐに大田中将について、インターネット検索をしてみた。
知らなかったのは迂闊だった。
Wikipediaによれば、『穏やかで包容力に富み、小事に拘泥せず責任感の極めて強い人物で、いかなる状況に遭遇しても一言の不満も漏らさず人を誹謗するような言行動は絶えてなかったといわれる。』
とある。加えて
『自決する直前の6月6日に海軍次官宛てに発信した電報は余りにも有名である。当時の訣別電報の常套句だった「天皇陛下万歳」「皇国ノ弥栄ヲ祈ル」などの言葉はなく、ひたすらに沖縄県民の敢闘の様子を訴えている。』
長くなるが最後の電文の要約を添付する。
『沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛のための召集に進んで応募した。残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。』
こう打電された直後、大田少将(後に中将)は自決された。
大阪府の橋本知事も大田中将のこの最後の言葉を引用され、『沖縄普天間問題は、日本全体の人が向き合うべき問題であり、今こそ大田中将の特別のご配慮に報いなければならないのではないか』と言われている。
奥様もご子息も立派な方達だった。
戦後、国から石碑建立の申し出があったとき、「多くの方が亡くなられた中で、主人の碑のみを建てるのは忍びない」と固辞したといい、また孔の開いた黒い頭蓋骨が戻ってきた時も、「多くの部下の遺骨が不明のままだから」と、自宅近くの墓でなく、最後に自決した近くの場所にご主人を埋葬したという。
娘さんは、米国人と結婚後渡米したが、日本軍幹部の娘ということでさんざんいじめられ、パンも買えない日々を過ごされたらしい。
後日、小渕恵三首相が「大変でしたね」と声を掛けられたら、「父の苦労に比べたら、大したことはありません」と泣き崩れたという。
12月8日、くしくも今日は日本が昭和16年1:30、真珠湾攻撃およびマレー作戦を開始した日である。
周辺の中国、北朝鮮では極めて不穏な動きが続いている。
大田中将の碑に直立して、沖縄で本土決戦を迎えられた人々や、苦難の中で戦った兵隊達を思うと、今の苦難など足元にも及ばない。
日本の将来、そして平和のために、我らは何をなすべきか、大いに考えさせられた。
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