(20.9.7) 5月の白馬岳 NO4

1975年 29才 山口

白馬岳  4月26日~4月28日 単独行(2泊3日)

 この頃は肉体的にも精神的にも絶頂期にあり、ほとんど登山熱に浮かされていたといってよい。
5月の連休前後に休みを取って白馬岳に出かけることにした。
当時はまだ連続して休むことは「金融機関の職員としてはあるまじき行為」と思われており、上司からずいぶん顰蹙(ひんしゅく)をかったものだ。

 早春の白馬岳は残雪が多く、天候が崩れると冬山のようになるので油断できない。当時私は山口にいたのだが、アイゼンとピッケルを買いにわざわざ福岡まで行って装備を整えた。

 白馬岳は予想したとおり雪が深く,山荘はやっとオープンしたばかりだった。大雪渓を眺めてみるといたるところに雪崩の跡がある。
こりゃまずい。雪崩に会いそうだ
大雪渓を避け横の岩稜伝いに冬山ルートの足跡があったのでそれをたどることとした
ここは夏にはブッシュで登ることはできないが,雪のある期間はブッシュが雪にうずもれているので登ることができる。

 しかしこのルートは雪渓のルートに比較すると長く体力勝負のようなところがあり,特に岸壁の取り付きは雪が溶けて、深くくびれているため登るのに大変苦労する
一旦おり、次に足で雪を固めて岩に取り付こうとしたが何回やってもすかすかの雪を踏み固めているような状態になって足元が定まらなかった。

 それでもどうにか岸壁に取り付くことができ、1時間程度かけて30m程度の岸壁を登りきったところで精魂尽き果てた。

 身体がうごかない。仕方なしにしばらくピッケルを雪に突き刺してへたり込んでいたら、前から山の稜線伝いにサンタクローストナカイに引かれてやってくるのには驚いた。鐘の音まで聞こえる。
すごい、こんなところにサンタクロースがいる

 しかしよく見ているとそれはサンタクローストナカイでなく、であることに気づいた。すごいうなり声だ。
まずい、稜線で熊に会っては逃げられない

 私はピッケルを手に抱えて熊と戦おうと構えたが、いくら待っても熊はそれ以上近づかない。
なぜだ、なぜ近づいてこない

 しばらくにらみ合っているうちに何かおかしいことに気づいた。全く相手は動かないのだ。
ようやく疲れが取れて自分の身体が動くようになったので、に近づいてみると、雪の間から顔を出している黒岩だと言うことが分かった。

 人間精魂が尽きると幻覚を見るのだと言うことをこの経験で始めて知った

 白馬岳からは栂池高原スキー場に降りた。
途中でブロック雪崩のあとを見たが、トラックほどの大きさの雪の塊がごろごろしていた。
これじゃ、巻き込まれたらひとたまりもないな

 栂池まで降りると、スキー客が私の真っ黒になった顔をみてびっくりしていた。顔をカバーするすべを知らなかったのでひどい日焼けになり、ヒマラヤから降りてきた登山家のような顔になってしまっていた。

 会社に出勤する頃は顔の皮膚がはがれて実に醜い状態になっていた。上司に言われたものである。
山崎君、そんな顔でお客様に会うつもりですか

写真を掲載いたします。プリント写真が古くなっており発色は良くありません
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/nWrDJD?authkey=9eiI-zwAp0w

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(20.8.31) 初めての南アルプス NO3

(今日から再び登山シリーズを再開します)

1974年 28才 山口

聖岳  9月21日~24日(3泊4日)

 南アルプスには一度行ってみたかったが、麓までたどり着くのに時間がかかるのと、険しいとの評判で躊躇していた。
北アルプスと違って、人はほとんどいないし、道もはっきりしてないよ」そういわれていた。
この年大井川鉄道の終点井川まで行き、そこから第二畑薙(はたなぎ)ダムまでバスに乗った。
畑薙ダムから大井川を遡り,長いつり橋を渡って茶臼岳の登りに取り付いた。午後からの登山になった。

 当時はまだ登山についてのノウハウが十分でなく、もてるものは全て持って行った。
特にいざと言うことを考えて食料をたっぷり持っていったため,ザックの重量が30kを越え,歩くのがひどく苦痛だった。
茶臼岳へのルートは急登で、腰への負担がきつく腰が折れそうだったが、若かったのだろう、何とか登ることができた。

 茶臼岳の途中のウソッコ小屋で一泊し,翌日は茶臼岳の肩小屋(茶臼岳小屋)に泊まったが,そこは無人小屋で登山客が数人いた。無人小屋に泊まったのはこのときが初めてだった。

 荷物を肩小屋において,翌日,上河内岳を経由して,聖岳に向かって稜線を歩き,コルから一気に聖岳に登った。聖岳はガレバの多い3000m級の山で歩きづらかったが,標準時間の半分程度の時間で登りきってしまった。

 このときのことはよく覚えている。心臓はパンクしそうだったが足は良く動いた。ほとんど休まず一気に登っている。

 そこから茶臼岳にひっくり返したが,平均の所要時間が14時間のところ10時間で引き返してきたため、無人小屋で一緒になった登山客が私の健脚に驚いていた。

 上河内岳肩小屋の間に幅50m、長さ200mぐらいの草原があり、なんとものどかな雰囲気の場所でとても気に入った。たまたまツェルトを持っていたので、それに包まってミイラのような格好で寝てみた。
人一人いない草原で寝られたらどんなに幸せだろう

 そのままそこで夜を過ごそうと思ったが下はかなり湿り気があり、だんだんと冷たくなったので寝ることはあきらめた。


 以来南アルプスにはよく登るようになったが、北アルプスと異なり広くたおやかな山並みであることを知った。

写真を掲載します。かなり色落ちしてしまっていたので編集処理を施しました
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/hIVESB?authkey=7GVowuH6yKQ

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(20.7.28) 北海道大雪山系縦走 NO2

2000年 54才 

大雪山系縦走  
8月初旬  T氏と 

 私は長い間北海道の山に登りたかったが機会がなく、この年初めて北海道の山に登った。
Tさんにルート選定を依頼したところ,大雪山系縦走コースを計画してくれた白金温泉から,硫黄山,美瑛岳,オプタテシケ,トムラウシ,白雲岳,旭岳にいたるルートだ。

 北海道までは大洗からフェリーで苫小牧料金は5000円で高くはないが,水戸までの電車賃4500円と,苫小牧から札幌までのバス代1000円がかかる)に出て,そこから旭川まで電車で行った。
当日は旭川の駅頭で寝て翌朝早く美瑛に出,そこからバスで白金温泉に入った。
 当初は白金温泉からタクシーで登山口まで行こうとしたが,タクシーのネイちゃんが帰りのタクシー代まで吹っかけてきたので断って歩くこととした。
ねえ、あんた達、歩くと遠いよ
いえ、結構です。歩きますので

 北海道の山は人の入山が少ないせいか非常に美しく太古のままの趣があった。Tさんとはトムラウシまで一緒に言ったが,トムラウシの稜線で天候が崩れ2日間風雨にさらされた。
このときの様子をTさんが自分のブログに書いている。

今回はトムラウシ山頂へ40分の南沼のほとりで自然の猛威も経験した。幕営指定地ではなかったが、景色が良いうえに、疲れもあって、そこにテントを張った。
当初は、池の冷たい水で体を洗ったり、草むらに寝転んだりして快適に過ごしたが、その翌朝に低気圧に遭遇。テントを張った場所は運悪く風の通り路にあたり、翌朝から翌々朝まで強風と豪雨に見舞われた。

 外に出れば1分間も経たないうちにびしょぬれ。テントをたたんで他の場所へ移動したかったが、作業のために長時間雨にうたれれば、たちまち凍死する危険があったので、1昼夜、寝袋にくるまってじっとしているしかなかった。

 テントは吹き飛ばされそうにバタバタと音をたてる。寝袋は濡れてくるし、やや寒くなる。トイレに行くのは大仕事。都会の生活に慣れてしまうと人は野生味を失い、自然のすごさを忘れがちになるが、いったん荒れたら、自然は厳しい。人が生きるのにまず必要なのは、食物と水と濡れに強い防寒衣であることをあらためて実感した

 Tさんは時間の関係でトムラウシから下山し,私はさらに稜線伝いに大雪山の主峰旭岳まで行くことにした。
風雨が特に強かったのはトムラウシの側だけで,そこから離れるにしたがって天候は改善し,気持ちよい登山となった。

 途中のキャンプ場でテントを張ったが、夜半にテントの外で動物のうなり声がした。
うぅーう
すわ、熊か」と思い私はもっていた熊よけの笛を吹いて脅そうと思ったが、いくら吹いても笛はスースーとしかならない。
あわてると笛もふけなくなるらしい。

 私はすっかり熊かと思っていたが,後で確認するとキタキツネが私のテントの外に出していたゴミ袋を加えて持ち去ろうとしていたようだった。

 大雪からおりてもまだ時間が十分あったので利尻岳に登ることとした。稚内からフェリーに乗って利尻島まで行き,キャンプ場にテントをはって登山をした。一番厳しいルートは登山禁止になっていたため,もっともポピュラーなルートで登って,次に険しいといわれているルートを下った。


北海道の山は本当に原始の山だ。日本アルプスに飽いたら、北海道の山を登るといい。日本の山とは思われないような雄大な景色に圧倒される

写真を掲載します
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/FZeKgB/photo?authkey=aSqVDVAwmIg#s5171832868344463586

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(20.7.27) 戸隠西岳 NO1

1971年~72年 25歳~26歳

戸隠西岳登山

 戸隠西岳は実に思い出深い山だ。修験道の山で、標高は2千メートル弱の山だが、急峻な岩山で稜線では左右に鋭く落ち込み、初心者だと足がすくむような場所だ。
私の最初の勤務地が長野市だったこともあり、登山にのめりこんで行ったが、その中でもこの戸隠西岳は好きな山だった。

 長野市からバスで1時間程度で行け、しかも冬季の厳しさは日本一険しいと言われる剣岳並と言われていた。
実際冬季の登山は禁止されており、無理に行って遭難したりしたらそれこそ新聞で「無謀登山の犠牲者」と書かれてしまう。

 私はこの戸隠西岳に都合4回登ろうとして、内2回は頂上までたどり着けなかった。
戸隠西岳には戸隠神社の奥社から登るルートと、川筋から登るルートがある。奥社からのルートが通常の登山道で、川筋からのルートはベテラン向きのルートだった。

 私は好んで川筋のルートから登ったが、川のとっつきの場所が非常に分かりずらく、赤い布切れだけが目印で、よく見ないと見落としてしまいそうな場所だった。

 川筋のルートは夏と秋にそれぞれ1回登り、さらに冬季に登ろうとしたがこのときは雪で赤い布が隠れてしまい、とっつきの場所が分からなかった。
今思えば分からなくて幸いだったのだが、当時は西岳の冬季登山を敢行し「山と渓谷社」に登山報告を書くつもりだったので非常にがっくりしたことを覚えている。

 川筋ルートは途中から急峻になり、特に1箇所身体を空中に放り出さないと渡れない箇所があった。手でぶら下がるようにして、次の岩を足でまさぐるのだが、下は完全に切れていて空中散歩のようだった。

 当時私は信じられないほど体力があって、そうしたアクロバットのような登山を平気でしていた。シルベスター・スタローンクリフハンガーの世界だ。

 今は坐骨神経痛でまともに走ることも出来ないが、のような身のこなしだった当事が懐かしい。
人間には確かに「その時」だけ出来るような体の身のこなしというものがあるということをしみじみ感じている。

 

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(20.7.26) 夏休みは登山シリーズだ

 夏休み中はたっぷりと登山計画が入っているため、思い切ってブログを休もうかと思ってみたが、一方で阪神金本選手を見習って何とか継続回数を伸ばそうかとも悩んでいる。

 今期はちはら台走友会剣岳登山と、六つ星山の会南アルプス(千丈岳から塩見岳)、および東北の朝日連峰の縦走だ。

 六つ星山の会とは視覚障害者をサポートして登山をしている会であり、私の友人が事務局長をしている。夏場になると手が足りなくなって私にサポートの依頼が来る。
山崎さん、今年もお願いしたいのだけど
視覚障害者一人に3人程度のサポート要員がつき、前と後から支えながら登山をする。

 足場の悪い場所ではロープで支えるが通常は前を歩く人の肩に捕まってもらい、前を歩く人が足場の注意をする。
右に大きな石」「約50cmの段差」「左が切れている」「広い平原で安全」等等
後の人は視覚障害者が転んだり、危なかったりした場合のささえ役だ。

 友人の依頼でもあり頼まれると断れないので、今回は南アルプス朝日連峰に行くことにした。


 しかし登山をしている間はブログを書けないので、継続するとなると前もって用意しておかなければならない。しかし毎日のブログ作成でも資料調査で大変なのに、書き溜めるとなると大事だ。

 したがって今回は過去の登山記録を整理して見ていただくことにした。題して登山シリーズだ。

 私は最初の勤務地が長野市だったこともあり、その時から山の魅力に取り付かれてしまった。当時は休みを取るのも大変だったが、それでも時間を見つけては周辺の戸隠飯縄に登り、もう少し時間が有れば北アルプス八ヶ岳に行ったものである。

 その後は徐々に長い休みを取ることが出来るようになったので、時間があれば登山をしていた。当時は今と異なって身体が自由に動いたし、岩場を飛ぶように降りることもできた。
今思うと信じられないがとほとんど同じだった。

俺の天職は登山家なのではなかろうか」半ば本気で思ったものだ。
実際はその後も金融機関の職員として60歳まで働いたのだが、思い出しても当時が懐かしい。

 写真をスキャンしたり、当時のメモを参考に当時を懐かしむこととした。
登山に興味のない人には全く申し訳ないが、登山中は「登山シリーズ」でブログを埋めることとする。

 

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(19.8.1)ちはら台走友会の槍ヶ岳登山

 ちはら台走友会は年に2回、春と夏に登山をおこなうが、今回の夏の登山は燕岳(つばくろだけ)から槍ヶ岳への、いわゆる表銀座コースだった。メンバーは15名である。7月の末に実施された。
 このコースは登山者にはおなじみのコースで、日本アルプス登山の入門コースとして名高い。
 途中に大天井岳の巻き道や、東鎌尾根の槍ヶ岳直下のような、初心者にとって緊張する険しい場所もあるが、概して穏やかな稜線歩きができる人気スポットである。

2泊3日でこのコースを歩く」と登山の責任者から聞いたときは、「走友会の行事としては遠足みたいなものだ」と思ったが、よく聞くと「車中一泊、山中は西岳ヒュッテの1泊」だったので驚いた。
 このコースの通常の登山日数は2泊3日であり、最近のように年配者が多いと、3泊4日のコースなることもある。

 念のため、山岳マップでコースタイムを調べたら、初日が9時間半、2日目が12時間だった。これは食事時間や休息時間を含めない時間だから、1時間程度の食事時間を加えて、それぞれ10時間半13時間がコースタイムと言うことになる。
うぅーん、走友会らしいハードなスケジュールだ」感心した。
 後で聞いた話だが、西岳ヒュッテの管理人から「本当に大丈夫ですか」と念を押されたと言う。

 夜行バスは、夜中の8時に千葉を出発して、登山口の中房温泉に朝の5時ごろ到着する計画になっており、通常であればなんら問題がないのだが、日頃の走友会を知っている私には不安感がよぎった。
夜、寝かせてもらえないのではないかしら

 不安は100%的中してしまった。いつもの盛大な宴会が始まり、続いてしりとり歌合戦が始まって、てんやわんやの大騒ぎになってしまった。
 大いに酒を飲み、大いに歌うのが走友会の元気印の源だ。

 宴会は一応12時には終わったのだが、熟睡したのは酒盛りと歌合戦を楽しんだ人たちで、私はほとんど眠ることができなかった。
これは、徹夜の強行登山になるけれど、『甲州夢街道シルクロード215Km、36時間レース』の練習と割り切ろう」覚悟を決めた。

 天気予報では、天候は下り坂で、2日目の後半は雨の予想だったが、実際はまずまずの天気で、雨もほとんど降らなかった。
 さすがに、初日の後半は寝不足で頭が朦朧としてきたが、幸いにも西岳ヒュッテで熟睡できたため、2日目は実に快適な登山を楽しめた。
 最近の山小屋の設備は年配者に配慮してよく整備されており、布団も新しく、食事は街のレストラン並だ。

 走友会のメンバーは、相変わらずの酒豪ぞろいで、やれ宿に到着した、槍を登坂した等理由をつけてはビールを飲んでいたが、実は体力も相当なものだ。
 特にK氏などは、遅れそうな人の荷物を持ってあげて、さらに岩場を走るようにして登坂するのだから驚きだ。岩は走るためにあると思っているらしい。
イエティーでないかしら」率直な感想である。

 K氏以外でも、槍からの下りはマラニックだと走り出した会長のY氏や、マラニックの愛好家O氏がいる。
 私のように登山経験40年の者でも「ちはら台走友会のマラニック登山」は驚きだ。普通の人が見たら、化け物ぞろいではないかと思うのではないだろうか。

 この年になってまた一つ新しい経験をしてしまった。

 今回はコースの途中で撮った写真を掲載します。 
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/197

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(19.5.20)岩木山

 昨年の10月末に思い立って、青森に旅行をした。八甲田山岩木山に登りたかったからである。ついでに津軽半島の日本海側と弘前市に寄ってみた。津軽は私の好きな場所だ。

 八甲田山は風雨が強かったため、途中で引き返さざるを得なかった。だから、岩木山にはなんとしても登ろうと強い決心をして、岩木山神社のキャンプ場までやってきた。岩木山神社は「奥の日光と言われるぐらい著名な神社であるが、私は深田久弥の「日本百名山を読むまでそのことを知らなかった。

 この時期のキャンプ場には誰もいない。また一人だけでキャンプを張るのだが、正直言うと夜が怖い。何しろ私は「蚤の心臓」とかみさんから言われているくらいだ。
 物音がすると、すぐに目が覚めて、そばに置いてある登山用の杖を持って身構えてしまう。
 この時はヨタカの声に飛び起きた。「ぎゃー」といすさまじい鳴き声なのだ。「な、な、なんだ。なんなのだ」状況を把握するのに、しばらく時間がかかった。ヨタカの声と分かっても、しばらく心臓が高鳴ってしまった。

 岩木山はとても秀麗な山だ。津軽地方からはどこからでも見ることができる。別名を津軽富士と言う。津軽の人は、この山を「おいわきやま」と愛着を込めた名で呼ぶ。
 1600mの丹沢程度の山だが、独立峰なのでもっと高く見える。また北にあるので、高山植物も豊かだ。

 私の登った前日には少し雪が降ったようだった。地元の人が「雪があるから気をつけなさい」と注意してくれた。

 キャンプ場から、4時間程度で登れるので決して難しい山ではない。上はガスでかすんでいたため、下界は見えなかったが、十分登山を楽しめた。
 それにしても不思議なのは、八甲田山のような気象条件の厳しさがないことだ。八甲田山とは、たった50km程度しか離れてない。たまたまなのか、本質的に八甲田山と異なるのか判断がつかない。

 今回は、岩木山岩木山神社の写真を紹介する。スライドショーで見てください。

(追伸)
 考えてみれば、岩木山も、八甲田山も深田久弥の日本百名山の一つだ。今後の私のライフワークとして、百名山の写真をWeb写真として紹介するのは楽しそうだ。
もしかしたら、人生の金脈をつかんだかもしれない
 少し浮かれてしまった。

http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/18102902

このブログと関連するブログは以下のとおりです。
http://yamazakijirou.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/19512_af47.html

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(19.5.12)八甲田山

 八甲田山をご存知だろうか。青森市からバスで1時間ちょっとで行ける標高1600m程度の山塊である。関東界隈の山で言うと丹沢程度の山である。

 ここで明治35年、青森第5連隊の将兵210名が雪中行軍を実施し、うち199名が遭難した。この遭難事件は新田次郎が「八甲田山死の彷徨」と言う小説で圧倒的な迫力をもって描いたため、山岳小説の愛好家は八甲田山は魔の山だと思うようになった。
 また、「八甲田山」と言う題名で映画化されており、高倉健が主演していたので見られた方もあると思う。その中で将兵が雪の崖を滑り落ちていくシーンを見たものは、絶対に八甲田山に近づくまいと思ったはずだ。

 私は長い間、なぜ1600m程度の低山で、軍人と言う最も体力的に恵まれた男たちが199名も遭難死したのか不思議に思っていた。
 そこで昨年の10月下旬、青森県に旅行した折、八甲田山に登山してそのことを確認しようとした。

 まず最初にびっくりしたのは、青森第五連隊の将兵が遭難した場所は、八甲田山中ではないことだ。ふもとに近く標高も700m程度の場所だ。晴れていれば青森市が真下に見えそうだ。
こんな低地でなぜ遭難したのだろう」不思議に思った。

 しかし、理由はすぐに分かった。
 私は青森市からバスで酸が湯(すがゆ)温泉に入り、そこでキャンプを張ったのだが、まだ10月下旬と言うのに、横殴りの氷雨にあって、すぐに凍えきってしまった。寒いのだ。
 テント場は閉鎖されており、誰一人いない。この時期に登山する人はほとんどいないようだ。私は管理棟のテラスにテントを張って寝たが、風にあおられ、シュラフ二つ重ねても寒さで寝つけなかった。
なるほど、ここは凍えるような場所だ

 それでも翌朝は、八甲田山の主峰大岳に向かって登り始めたが、途中の広大な湿原地帯で風にあおられ、身体を倒すようにして進もうとしたが、それでも一歩も前に進めなくなってしまった。風の強さは半端でない。しかも雨混じりであったので、気持ちがすっかりなえた。
死んでしまいそうだ

 10月下旬でこうなのだ。真冬になったらいかばかりか想像が付かない。八甲田は日本海から太平洋への風の通り道と言ってよい。遭難した理由が分かった。

 今回は八甲田山を中腹まで上った写真を掲載する。氷雨の中の写真なのでからっとした写真はない。毎回の写真集で恐縮だが、すっかりWeb写真にはまってしまったので許していただきたい。またスライドショーで見てください。

 http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/18102903

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