(23.1.25) NHKスペシャル 邪馬台国を掘る 古代の宗教戦争
NHKが23日に放送した「邪馬台国を掘る」は実に興味深い内容だった。
現在奈良県の纏向(まきむく)遺跡で発掘が進められているのだが、ここから2009年に古代史最大の王宮跡(幅19m、奥行き12mの建物)が発掘され、「すわ邪馬台国の所在地ではないか」と研究者が色めきたった。
今回の番組はこの王宮跡地の隣の約400㎡エリアの発掘の模様を約1年間に渡って追った番組である。
ここの発掘のリーダーは桜井市埋蔵文化財センターの橋本輝彦さんだが、2010年7月の猛暑のなか、ひたたる汗を拭きながら発掘の指導に当たっていた。
(3世紀最大の建物のコンピュータグラフィックス。王宮と思われる)
この場所からは土坑(どこう)という4m四方程度の穴が見つかったのだが、ここから全国の土器、いのししや水鳥や魚の骨、祭祀用の道具、それと桃の種約2700個が見つかった。
私は当初貝塚のようなものかと思ったがそうではなく、祭祀道具一式が納められた倉庫のようなものだと言う。
しかもこの遺跡からは壊された銅鐸の破片が出土していたが、この意味が実に深いのだ。研究者によると銅鐸は非常に頑丈で通常の状態では破壊することがなく、人が意図的に火で熱してその後でもちつきの杵のようなもので破壊したのだと言う(実際に実験して見せてくれた)。
(銅鐸は火で熱した後、杵のようななもので叩き壊さないと壊れない)
私は知らなかったが銅鐸は弥生時代の神の象徴で、弥生時代人はこの銅鐸をたたいて五穀豊穣を祈っていたと言う。
弥生人はこの銅鐸の神がいる限り自分達の生活は守られるのだと言う強い宗教的信念を持っていたらしい。
ところが2世紀の後半、世界的に異常気象(ヒノキの年輪測定で異常気象が分かる)が発生し、大飢饉が東北アジアを席巻した。
このため中国では漢王朝が飢えた農民の反乱で崩壊し、隣の朝鮮も国中が荒廃し、そして銅鐸の神に守られていた倭国も大飢饉に陥り、倭国騒乱の時代に入ったのだそうだ。
人々は銅鐸の神に祈りをささげたがまったく効果がなく、次々と餓死者がでたので人々はそれまでの弥生の神を疑いだした。
(2世紀後半にひどい旱魃が頻発していた)
この騒乱を沈めたのが卑弥呼で卑弥呼が行った宗教改革が新たな王権を成立させたのだと言う。
この新しい宗教を鬼道(きどう)と言い、私はこれは原始的なシャーマニズムだとばかり思っていたが、実は明治維新の時のヨーロッパ思想と同じような新思想(新宗教)だと言うのにはびっくりした。
実は鬼道とは当時中国の魏の国で盛んだった宗教で、道教の走りでありそれが日本に直輸入されたらしい。
卑弥呼はこの新興宗教(明治維新で言えば西欧文化)で国を治めようとしたが、幸いにも異常気象が去ったことで鬼道の有用性が証明され、連合国家の長になれたのだそうだ。
蘇我氏と物部氏が渡来宗教の仏教を受容するか否かで争ったのが6世紀の始めだが、それより300年も前に、鬼道と銅鐸の神の戦いがあったとは驚きだ。
(大量に出土した桃の種)
ところでなぜ鬼道と道教が同じかと言うと、纏向遺跡から大量の桃の種が出土したからだという。
道教では桃は仙花と呼ばれ不老長寿の象徴で、祭祀では必ず使用されるものだという。
橋本氏はこのように纏向遺跡と中国の道教(鬼道)との関連が証明されたこと、さらに銅鐸が割られて古い弥生の神が葬り去られていたこと、当時としては最大級の宮殿が発掘されたこと等から見て、ここが邪馬台国に違いないと確信している様だった。
最も邪馬台国九州説を唱える学者からは、纏向遺跡からは鉄製の刀剣類が出土しておらず、当時の強国は鉄製の武器を持っていた九州の部族だから、邪馬台国は九州にあるに違いないと反論していた。
(道教の儀式。桃が中央に飾られている)
だが私はこの番組を見て九州説には無理があり、邪馬台国はやはりここ纏向遺跡の場所にあったものと思うようになった。
ここ纏向はイメージ的には宗教的中心地でバチカンのような場所ではなかったろうか。
何も統一には武力ではなくとも宗教でも可能なことはバチカンが証明している。
出てくるものがほとんどが宗教的儀式(鬼道)に関係するもので、ここで卑弥呼は古い弥生の神を否定し、あらたな神(鬼道)を称揚し、連合国家倭国の宗教的シンボルとして君臨していたのだと思う。
2世紀後半の異常気象を新たな神で乗り切った(3世紀に入ると気候が安定した)卑弥呼が、倭国の指導者として推戴され、邪馬台国がその後ヤマトへと発展して行ったというのが最も合理的な推定だと私は思っている。
三世紀の始めにこのような宗教改革が行われたと言うのにはびっくりしたが、日本はそれまでの体制が行き詰ると、外国から新たな神(思想)を入れては再生してきたのだから、その最初の取り組みがこの卑弥呼の鬼道だったと言うことだろう。
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コメント
この巻向遺跡が素晴らしい遺跡であることに違いはないと思う。しかしこれが邪馬壱国であるかどうかは別な問題だとおもいませんか?そもそも対外的に知られていた、認知されていた勢力なら、それは国際国家群であり中国史書の記述に対応していて当然だと思うんですよね。それは考古学的成果についても同じ事でしょう。
投稿: 匿名希望 | 2014年12月24日 (水) 12時23分
だが私はこの番組を見て九州説には無理があり、邪馬台国はやはりここ纏向遺跡の場所にあったものと思うようになった。
邪馬台国がその後ヤマトへと発展して行ったというのが最も合理的な推定だと私は思っている。
↑上記の考え方は、理解が足りない人が思うことです。大和の古墳から出てきたもので、邪馬台国に結びつくものは1つもありません。九州北部の古墳で出てきたものは、三種の神器があります。
ネットで古代史を読みふけるようになり、2年くらいで、古代の大体のことがわかってきましたが、↑上記の考え方をする人は、日本書紀と古事記をそのまま信じ、根拠の説明がつかないときには、自分の都合の良いあきれた理由を付けているようです。東大卒の古代史研究学者はまとも、京大の学者はうそつき、そんな感じで私は見ています。ちなみに、マスコミの人は、古代史については、自分の判断を決してしないようです。この前、大和の古墳で赤い絹が出土して、これで、邪馬台国はここに決まり、決着がついた、というような学者の発言をマスコミは伝えます。何も知らないで。いろいろ、専門家が言うことをネットで調べると、あの赤い絹は、中国産ではなく、日本産だということで、意気消沈したようです。
投稿: こうじ | 2013年5月10日 (金) 17時53分
邪馬台国がどこか?は各人が好きな場所を思い描けるところにその魅力があるのかも知れません。知りたいようで、解明されてほしくない感じでもあります。
さて私は平々凡々、邪馬台国は巻向にあり、大型建物は卑弥呼の宮殿であり、箸墓古墳は倭迹迹日百襲媛命の墓であり、倭迹迹日百襲媛命は卑弥呼であり、この墓を造ったのは崇神でありと全て受け入れて、さらに海部氏系図も本物で9代孫の日女命は卑弥呼であるとすべてを受け入れて、さあて、記紀の中に卑弥呼は書かれているのか、邪馬台国は一体どうなったのか、記紀を読み易いところから順番に読み解いてHPを作ってみました。
投稿: とし | 2012年3月 6日 (火) 18時41分
とうとうNHKも纒向卑弥呼の王都説の片棒を担ぐようになった。
纒向より面白い発掘がある。秋津遺跡である。
http://yamatai.sblo.jp/
投稿: 曲学の徒 | 2011年3月 4日 (金) 14時53分