(23.1.28) アラブ穏健派諸国の黄昏 チュニジアの崩壊
1月14日にアラブ穏健派と言われていたチュニジアで政変が起こり、それまで23年間独裁政権を維持してきたベンアリ大統領がサウジアラビアに亡命した。
その後をベンアリ政権の閣僚と野党指導者が暫定政権を作ったが、民衆はベンアリ政権の残党が政府に残っているとしてデモを継続している。
実は私は北アフリカの政情についてほとんど知らない。チュニジアといわれても、紀元前のカルタゴとハンニバルしか頭に浮かばないのだから、「一度は行ってみたい観光地だ」ぐらいにしか思っていなかった。
だからチュニジアで食料価格の高騰と高失業率を理由に、14日にベンアリ政権が崩壊した時は本当に驚いた。
直接の原因は失業中の若者が無許可で野菜を売っていたところ警察から停止させられ、これに抗議して焼身自殺を図ったのだが、それがインターネットで広まり抗議行動が暴徒化したからだと言う。
すでに治安部隊と民衆の間で衝突が繰り返され、100人あまりの人(未確認)が死亡してた。
しかしそれでも旧宗主国のフランスもアメリカもベンアリ政権が崩壊するとは想定しておらず、「いつもの過激派の騒動だろうが、ベンアリがうまく抑えるだろう」位に思っていたことは確かだ。
チュニジアやアルジェリアやエジプトをアラブ穏健派と言うが、この意味はアルカイダのような急進派を警察力で弾圧して、アメリカや西欧にたてつかない国家と言う意味である。
注)こうした国をアメリカやフランスは軍事的にも経済的にも支援してきた。
チュニジアは必ずしも貧しい国ではない。一人当たりの国民所得は 約8000ドル(2008年)だから中進国並だし、インターネットの普及率もアフリカでは最も高いといわれ教育水準も高い。
ヨーロッパとの関係も良好で、問題と言えば若者の高失業率と食料価格の高騰、それと言論の自由の抑圧ぐらいだった。
だからフランスもアメリカも「ベンアリはよくやっており、この程度で政変が起こるはずがない」と思っていたのは当然で、「問題が起こるとしたらもっと貧しく強権的な国だ」と想定していた。
しかし実際に政変が起きたのはアフリカでは相対的に民主化が進んだチュニジアであったことは、かつての東ヨーロッパの政変がチェコやハンガリーで起こったのと似ている。
アラブ穏健派の弱い輪が最初に崩れてしまった。
実際は徹底的な弾圧国家では反対者は殺されるか投獄されているから反政府運動など起こらない。
北朝鮮などは反対者が死に絶えたか韓国に亡命しているから、残った国民はキム・ジョンイル将軍の下に結集して韓国に砲弾を撃ち込んでいる。
(この映像はエジプトでの抗議デモを治安警察が排除している場面)
チュニジアは相対的に豊かな国だが、独裁権力国家の常として権力を握った人と一般民衆との所得格差は大きい。
それでも経済が順調に推移していれば問題は発生しないが、昨年後半から世界的な食料価格の高騰が始まった。
注)この農産物価格の高騰はアメリカ、EU,そして日本の金融緩和策による資金が農産物の投機に流れて発生している。
国連の統計で前年度の後半には平均価格で約3割も農産物価格が上昇してしまった。
貧しい人々にとって食料価格の高騰は死活問題で、飢え死にと相対的に自由な情報が結びつけば騒乱が起こるのは当然だ。
この騒動で軍や閣僚からそっぽを向かれたベンアリ大統領は逃亡し、前閣僚を中心とする暫定政権ができクーデタは成功した。
しかし飢えた民衆はクーデタではなく革命を求めており騒乱は続いている。
注)クーデタと革命の違いは今までの支配階級が残って頭だけ代えるのがクーデタで、一方今までの支配階級が実力で一掃されるのが革命。
このチュニジアのクーデタは今エジプトに飛び火しており、約30年間のムバラク独裁政権にも危機が訪れている。
強権支配でアラブ急進派を押さえ、その見返りにアメリカから軍事援助と経済援助を得てきたが、その政治モデルにNOが突きつけられようとしている。
アラブはアラブか、それとも西欧との協調か、今北アフリカは炎の時代に入ってきた。
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