(22.12.9) 文学入門 米原万里 嘘つきアーニャの真っ赤な真実 その2
注)米原万里さんの経歴は「その1」に記載してあります。
この題名はすこぶる刺激的で読む人を引き付ける。
題名の意味は「嘘をつくことが習い性になっている少女アーニャがなぜそのような嘘つきなのかの社会学的な分析」といってもいい。
アーニャは万里さんが通っていたプラハのソビエト学校の同級生で、万里さんが6年生の頃ルーマニアからやってきた社会主義社会の優等生にような少女だ。
すべて社会主義の教科書どおりのような言葉や話をする。
たとえばここチェコのプラハで相手を呼ぶ場合に、アーニャは必ずソードロフAさんと呼ぶ。
ソードロフとは日本語で同志、ロシア語でタワーリシチという意味で、ロシア社会では通常使用されていた呼称だが、ここチェコではロシアに対する反感が強く、こう呼ばれると誰でも嫌悪感を持つ言葉らしい。
「俺はロシア人の同志ではないぞ」
スクールバスの運転手も近くの駄菓子屋のおばさんも、この呼称に辟易し「パン(だんな)とかパニー(奥さん)と呼んでほしい」と依頼するのだが、アーニャはこのソビエト流の呼称を絶対にやめない。
そんな資本主義的な呼称では呼べないという訳だ。
アーニャの生活はソビエトロシアが望むそのものの生き方で、ロシア語を完璧にこなし社会主義の優位性を唱えて止まないのだが、実際のアーニャの生活は父親がルーマニアの高官で、母は有閑マダムで、住居は元貴族の屋敷に住み、召使をあごで使っている。
ルーマニアの社会主義政権は政権獲得後保守化して、いわゆる特権階級が形成され、民衆との間に資本主義国でも見られないほどの格差が広がっていたらしい。
ソビエトロシアでもノーメンクラツーラ(労働貴族)という階層があったのは有名だが、最近は中国で太子党(お偉方の子弟)という階層が跋扈している。
そしてルーマニアではロシアの労働貴族をもっと極端な形にして貧富の差が拡大していたという。
注)なぜ平等を希求して革命を起こした後、労働貴族が発生するかの理由は反対者を実力でパージ(銃殺したり強制労働収容所に送る)しなければ、自分の地位が危うくなるため。
パージしないと今度は自分がパージされるので、反対者を牢獄送りにして自分はいつまでも地位に留まることになり、結果として特権を享受することになる。
アーニャはこうした貴族的生活と社会主義社会の建前とのギャップを乗り越えるために「嘘」という仮想空間を作り、その仮想空間の中で生活することで乗り越えようとしたらしい。それを万里さんは「真っ赤な真実」と呼ぶ。
社会主義の建前を誠実な顔つきで常時述べている自分は、立派な社会主義者という訳だ。
アーニャの父母はユダヤ人で、ルーマニアで生き残るためにユダヤ名を捨ててルーマニアの労働貴族として懸命に生き残っている。
アーニャには三人の兄がいるのだが、三番上の兄はそうした生き方に耐えられずユダヤ教徒となって自分のアイデンティティを探し求め、一番目の兄はルーマニアから逃れてギリシャへ、二番目の兄も西欧社会に溶け込もうとしたが精神に異常をきたしてしまった。
アーニャの父母は労働貴族の常として子供を西欧社会に送りだそうとする。いつ自分の地位が失脚するかも知れず、また財産の隠し場所としてアメリカやイギリスに住む子供に学費送金にかこつけて資産隠しができるからだ。
アーニャはルーマニアに帰って万里さんとは音信不通になっていたが、30年後にルーマニアに訪れてみると、アーニャの父母は89年のチャウシェスク政権崩壊後も労働貴族としての地位に留まっており、アーニャはイギリスに留学してイギリス人と結婚していた。
注)ルーマニア人が外国人と結婚するのは非常に難しく、父親がチャウシェスクの了解をもらってようやく結婚できた。
30年後に会ったアーニャの生活はイギリス社会に完全に溶け込んでおり、かつてはロシア語を自由に操っていたように今は英語を自由に操り、イギリス社会のアッパー・ミドルの生活を楽しんでいた。
「ねえ、マリ、あの頃は、私もあなたも、純情無垢に体制を信じきっていたわね」と言ってのけるアーニャに万里さんは違和感を覚える。
革命後もルーマニア人の生活は悲惨で救いようがないことを見てきたばかりだからだ。
「ルーマニアの人々の惨状に心が痛まないの?」と聞く万里さんに対し。アーニャは「それは、痛むに決まっているじゃないの。アフリカにもアジアにも南米にももっとひどいところはたくさんあるわ」と答える。
さらに万里さんが「でも、ルーマニアはあなたが育った国でしょう」と聞くと「そういう狭い民族主義が、世界を不幸にするもとなのよ」と誠実そのものという風情で言ってのけた。
アーニャは相変わらず「真っ赤な真実」の中に住んでいた訳だ。
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コメント
『嘘つきアーニャ』は、僕も大好きな本の一つです。
この本に出会わなかったら、もっと頭のかたーい人間になっていたことでしょう!
米原さんの鋭い視点を持っていたいものです。
写真も話の内容に寄り添っていて素敵です。
投稿: ささき | 2010年12月12日 (日) 07時56分