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(22.11.23) 文学入門 米原万里  嘘つきアーニャの真っ赤な真実 その1

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その1 「リッツァの夢見た青空」


 今回の読書会のテーマ本は米原万里氏の「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」だった。
いつものように私は米原万里氏もこの本も知らなかったが、読んでみて驚いた。

 米原氏の経歴を見ると通常の日本人が経験することはないような幼年期をおくっており、この本はそれを元に書かれた異色の体験記になっていた。
米原氏が生まれたのは1950年だから、私よりは4歳年下だがほぼ同世代と言っていい。

 20世紀の後半を生きたわけで、いわゆる東西の冷戦期とソビエトロシアの崩壊期が人生に重なっている。
私自身は日本に住み冷戦を日本の中で経験したのだが、米原氏はそれをチェコスロバキア(当時)のプラハ9歳から14歳までの5年間1960年から1964年まで)の間経験していたことになる。

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 なぜ米原氏がこの間プラハにいたかというと、父親が日本共産党の幹部でプラハにある社会主義陣営の国際的組織インターに派遣され、そこで雑誌「平和と社会主義の諸問題」の編集をしていたからだ。

 米原氏の父親が派遣された1960年は、日米安保条約が締結された年で、日本では朝野を挙げて賛成・反対運動が盛り上がっている時期だった。
国会の前には毎日のように全学連と労働者のデモが繰り出されていて、それを機動隊が阻止しようと肉弾戦が繰り返されていたものだ。

 今から思うと当時は信じられないほど左派勢力が力を持っており、その左派勢力を背後で支援していたのがソビエトロシアだった。
当時ソビエトロシアは世界革命を先導していたから、そのための組織の一つとしてプラハに国際的プロパガンダのための国際機関インターを持っていた。

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 米原万里氏は少女期の日本の学年で言えば、小学校4年から中学2年までをプラハでソ連が運営していたソビエト学校に通っている。
この学校はロシア人だけでなく、米原氏のように各国から派遣されてきた子女や、亡命共産主義者の子女が通っていた非常に国際色豊かな学校だったという。

 米原万里氏は2006年、56歳の若さで癌で死亡したが、それまで日本を代表するロシア語の同時通訳者で、かつエッセイストで作家という多忙な生活をしていた。
この本は米原氏が死去する5年前の2001年に上梓され、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。

 この本は3部に分かれており、一部が「リッツァの夢見た青空」、2部が「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」そして3部が「白い都のヤスミンカ」と題名が付けられているが、いづれもこのソビエト学校で学んだ女友達との友情と別れ、そして30年後の再開の物語になっている。
この本の題名は3部作の第2部の題名をそのまま表題にしたものだ。

 当初私は共産主義者の娘が書いた本だから、赤旗を読むような教条的な話だろうと思ったが、それは誤解だった。
米原氏の語り口は非常にリアリスティックで、めちゃくちゃに面白く、また東欧社会に住む人々がどのような運命をたどり、そしてどんな考えを持っているか生き生きとどんな解説書より分かりやすく教えてくれている。
各賞を総なめにした実力のほどが分かる(他に読売文学書や講談社エッセイスト賞を他の作品で受賞している)。

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 第一部に登場するリッツァは亡命ギリシャ人の娘で、戦後ギリシャが王党派と共産主義者の間で内戦になり、結果的に王党派が勝利したのだが、そのために国を追われた共産主義者の娘だ。

注)従来ギリシャは王政だったが、第2次世界大戦中はナチス・ドイツの支配下にあった。戦後イギリスに支援された王党派とソ連に支援されたパルチザン派が壮烈な内戦を繰り広げ、その後イギリスに変わってアメリカが王党派を支援したことで、1949年王党派の勝利で内戦は終結した。
この内戦の終結で、ソ連のヨーロッパへの進出はギリシャを分水嶺として食い止められることになった。


 リッツァはまるで勉強はできないが非常なおませで、性に関することは何でも知っている少女で何か男はつらいよ女寅さんのような性格だ。万里さんはこのリッツァから初期の性教育を受けて興奮している。

 私も知っているが概してスラブ系の国民は性に対しておおらかだ。男の子が女の子のスカートの下に手を入れることは日常的に行われていたらしい。
早くから男女の営みがあり、リッツァの2歳上の美男子の兄貴は数学の単位が取れなくなると、30歳代の女性数学教師を篭絡して見事学校を卒業している。

注)この学校は12年制の一貫学校。

 リッツァは真っ青な海の故郷ギリシャに帰る事に非常な憧れを持っており、実際に軍事政権が倒れた後、81年にギリシャに帰ってみたが、自分が西ヨーロッパの人間で東ヨーロッパには住めないことを感じてチェコに戻っている。

注)ギリシャでは1950年に総選挙が行われ、王政の元で民主化が進められたが左右の対立が激しく民生は安定しなかった。この状況を見た軍部がアメリカの支援の下でクーデタを起こし、68年から78年にかけて軍政を敷いている。

 
リッツァの運命は1968年に起きたプラハの春社会主義国のなかでの民主化運動)で暗転した。プラハの春を押しつぶすためにワルシャワ条約機構軍(実際はソ連)がチェコスロバキアになだれ込み、言論の自由を押しつぶしたが、その時リッツァの父親はソビエトの弾圧に断固反対したのだという。
そのため国際機関インターを追われ、かつチェコで生活をする基盤がなくなったため、已む無く西ドイツに亡命したという。

 リッツァは当時カレル大学の医学生だったが、寮は追い出されたものの大学からは追放されることがなく、その後父親の後を追って西ドイツで医者の開業をしていた。

 この物語は30年後、万里さんがリッツァにあいたい一心でかつてのソビエト学校をたづね、さらにカレル大学を訪ね、プラハのギリシャ人コロニーを紹介され、ついにドイツに住んでいたリッツァに会うまでの物語である。
なにか日本映画「幸せの黄色いハンカチ」のような、会えるまでの緊張感がみなぎり読んでいて飽きない。

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 リッツァのドイツでの診療所は主として東欧圏やトルコやギリシャといったドイツでの下層階級を相手としている診療所だが、ロシア語、チェコ語、ギリシャ語、トルコ語、そしてドイツ語を操るリッツァ先生の評判はすこぶるいいらしかった。

 リッツァはドイツ生活を必ずしも受け入れているわけでなく、ドイツを「経済はいいけど文化がない」と評しており、老後は人柄のいいスロバキアで過ごしたいと言っていた。
理由はスロバキアが半分ロシアで、ロシア人の持つ「あったかーくて、お人好しで馬鹿親切」な性格を共有しているからだという。

注)ロシア人は個人的に付き合うと、間違いなくリッツァのいう性格を持っていることが分かる

 元兄嫁(とても美人だが浪費癖があり兄が生活力がなくなると兄を捨てて新しい男とアメリカに移住した)を罵倒する時は「あの自堕落な雌犬! 腐れ○○○の売女」など相当下品な言葉使いだが、この女性には非常に好感が持てた。
ドイツという場所で、医者としてもし望めば上流階級として暮らせるのに、あえて自分の故国や最下層の人々のための医者として生きようとする姿がすがすがしいからだろう。


注)なお読書会の主催者、河村義人さんの読後感は以下のURLをクリックすると見ることができますのでご参照ください。
http://yamazakijirou1.cocolog-nifty.com/shiryou/2010/12/221210-4f9f.html

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

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