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(22.9.30) 武富士の倒産と消費者金融ビジネスモデルの崩壊

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 28日、消費者金融大手の武富士が、来年期日が来る社債926億円の償還が不可能との理由で会社更生法を申請し倒産した。負債総額4336億円だという。
すでに09年9月にはアイフルが倒産しているので大手で二件目の倒産だが、現在残っているのは金融機関がバックについている消費者金融だけになっている。

 武富士と言えば一時は飛ぶ鳥を落とす勢いで、創業者の武井保雄氏が日本の長者番付の1位になったり、テレビ広告でダンサーが思いっきり躍動感のあるダンスをしていたが、あの時が武富士の最盛期だったのだとしみじみ思う。

 武富士が過去最高益を出したのが01年3月期で、連結最終利益が1272億円になったのには驚いた。当時は都市銀行が不良債権処理で青息吐息だったせいもあるが、「次世代の金融は消費者金融か!!」と思ったものである。

 だがその頃を境として消費者金融に対する風当たりが厳しくなっていった。
特に武富士はその強引な取立てが問題になり、また武井保雄氏自身もジャーナリストに対する盗聴事件を起こし有罪判決を受けて武富士がピークを過ぎたことを感じさせた。

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 しかし消費者金融が本当の意味で斜陽になったのは、06年1月に最高裁がいわゆるグレーゾーン金利を違法とした判決を出てからである。
それまで出資法の上限である29.2%に近い金利で融資をしていたが、これは違法で利息制限法15%~20%融資金額によって異なる)までしか認められないとしたので、消費者金融業界は大騒ぎになってしまった。

 なぜ大騒ぎになったかというと、20%以下の金利では消費者金融の平均的な延滞率約20%(だから最低の利回りが20%以上必要になるをカバーできないからだ。
この延滞をカバーして無担保・無保証で融資を可能にする条件がグレーゾーン金利と言われた29%前後の金利で、これによって収益を確保してきたと言える。

注)融資をする側から言うと無担保無保証ほど恐ろしいものはない。消費者金融より安全と言われている企業融資で、無担保無保証を売りものにしていた新銀行東京や日本振興銀行が倒産または実質的な倒産になったことからも分かる。

 最高裁の判決を受けて過払い利息の返還請求訴訟が各地で起きており、武富士年間約1000億円規模の返還請求に応じてきたが、将来的にはさらに1兆円規模の返還請求に応じなければならないと言う。
もうだめだ。とても返還請求に応じられない・・・・・

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 さらに追い討ちは改正貸金業法で10年6月から、貸出総額が年収の3分の1を超えて貸出ができなくなった。
消費者金融借入者約1400万人約半分が多重債務者と想定されており、A社の返済をB社の借入でファイナンスしていたのが今後はまったくできなくなった。
お客さん、返済できないならB社を紹介しますよ」というわけにはいかない。

 これにより延滞率は20%からさらに大きく上昇し、どこまで延滞が増えるのか分からない状況になっている。
グレーゾーン金利もだめ、多重債務もだめなら消費者金融は生きるすべがないじゃないか」悲鳴をあげている。

 実際問題として消費者金融のビジネスモデルは崩壊しており、将来的に復活するすべはない。
最高裁の判決および改正貸金業法は「消費者金融は一種の悪業であり、これをつぶしてもかまわない」という思想で統一されている。

 しかしコインに表裏があるように消費者金融にも表裏があり、30%近い高利でも借入を望む人はいる。
そうした人の借入は結局はさらにあくどい裏金融の世界で調達せざる得なくなるだろう。

 ドラスティックな改革はどうしても副作用が発生する。存在するものには何らかの社会的意義があるものだ。消費者金融を悪徳金融として完全に倒産に追い込むことが正しいのか、少し冷静になって考えてみる必要がありそうだ。

注)多重債務者問題については「多重債務者問題は解決するだろうか」を参照

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(22.9.29) ちはら台走友会の尾瀬登山 至仏山

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(遠くに見える山が至仏山

 毎年2回程度ちはら台走友会では登山を実施しており、今年の登山は夏は南アルプス北岳、秋が尾瀬の至仏山だった。

 総勢7名であり、山好きのOさんがいつも計画を立ててくれる。
ちはら台を朝の3時に出発して沼田側の大清水まで自動車で入ってそこから登山を開始する。
幸いなことに8時ごろから歩き出すことができたが、この日(25日)は午前中は雨模様だった。

 私は尾瀬には過去2回行ったことがあり、1回目は家族登山、2回目は単独行だった。
家族登山は約30年前になるが、子供が6歳と4歳であり、かみさんを含めて4人でヒウチが岳2356m)に登った時は「よくこんな小さな子が登山できるわね!!」といわれたものだ。

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尾瀬が原の木道。この場所の木道は古くなっているがほとんどの場所が良く整備されている

 今回登る至仏山にはなぜか登山をしていなかったので一度は登っておきたかった山だ。
尾瀬沼まではなだらかな登りと下りが続き、尾瀬沼から尾瀬ヶ原にかけてはほぼ平らな標高1400mの高地を歩くことになる。

 尾瀬は日本の自然保護の発祥地と言ってよく、木道がよく整備されて尾瀬沼も尾瀬ヶ原も保存されているが、何か昔来た頃に比較すると尾瀬ヶ原の乾燥が進んでいた。

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チトウ

 私のかつてのイメージは尾瀬ヶ原一帯にはチトウが散在し、みずばしょうの花が咲き誇ってたのだが、チトウが少なくなり、なにか普通の草原のような雰囲気だ。
それでも霧がでて木々がかすんで見えるさまは、やはり尾瀬だと思う。

 25日の午後からは晴れて、とても気持ちのいい登山になった。雨の場合は木道がすべるので下ばかり見て歩かなければならないので、木道が乾くといっぺんに気持ちが晴れやかになる。

 当日は山の鼻の至仏山荘に泊まったのだが驚いてしまった。
風呂があり(ただし石鹸類は使用できない)、寝具は暖かく、トイレはウォシュレットで食事は街のファミレス並だった。
登山でこんな場所に泊まっていいのだろうか」Oさんが言ったが、私も心底驚いた。

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至仏山の山頂付近

 翌日(26日)は至仏山2228m)に登って鳩待峠におりそこからバスで戸倉ここから自家用車の乗り入れを禁止している)までおりた。
至仏山の登りはほぼ直登だが、木道が整備されているので案外登りやすい。
ちはら台走友会のメンバーも楽々登っていた。

 帰りは温泉に入って汗を流すこともでき、とても気持ちのいい登山になった。
一泊二日の登山だったが、走友会の登山はメンバーが自動車を出してくれるのでこうした時間を短縮した登山ができる。
かつて家族や一人で登山していた頃はどうしても二泊三日はかかったのだからずいぶん楽だ。

また来よう」と山好きのOさんが全員に誘っていた。

 

 

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(22.9.28) 希土類(レアアース)戦争が始まった  中国の宣戦布告

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 日本がせっかく船長を解放したのに、効果はまったく上がっていない。
それどころか中国は日本が弱気なことを見透かして全面戦争を仕掛けてきた。
そのうちの一つが希土類(レアアース)の対日輸出禁止措置である。希土類は現在日本経済のアキレス腱になっている。
 
 希土類と言っても私を含め普通の人には何のことだか分からない。
生産・流通量が少ないレアメタル(希少金属)のうち性質が似た17元素総称だそうだが、そういわれてもさっぱり見当がつかない。

 ハイブリッド車やパソコンやデジカメの生産で使用しており、他の金属に混ぜると磁力が高まったり、耐熱性が高まる金属で、世界の産出量の約90%が中国で、その輸出先の約半分が日本だという。

 もともと中国で希土類の生産が始まったのは日本のメーカーが希土類の分離技術を指導して、それを輸入してきたからなのだが、希土類の生産地が中国一国に偏っていたため、中国はこれを対日制裁の道具に使うことにした。

 表立っての対日輸出禁止措置WTO違反だから、希土類の生産会社(ほとんどが国営企業)に日本に販売しないように圧力をかけ、関税手続きをわざと遅らせてサボタージュすることにしている。

 昔フランスが行った禁輸措置と同じで、フランスは日本製品の通関手続きを田舎の通関事務所だけにして、実質的に輸入禁止措置を行ったが、それにならったのだろう。

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 希土類の具体的な使用方法は、たとえば電気自動車ネオジム磁石がそれで、鉄75%と希土類のネオジム25%を加えたものだと言う。
しかしこのネオジム磁石は温度が120度を越えると磁力が減少するため、これにさらにディプロシウムという希土類を5%加えると、120度以上でも磁力が減少しない。

注)希土類のネオジムは世界各地に埋蔵されているが、ディプロシウムは現在のところ中国だけでしかみつかっていない

 こうした希土類の対日輸出制裁をやめないのは「船長を解放しても、この機会に日本の電気自動車の生産をストップさせ、中国電気自動車産業を立ち上げよう」と言うことのようだ。

 対日制裁があっても当然在庫がありすぐに生産ストップということにはならないが、トヨタや日産やホンダは頭が痛いだろう。
中国がほぼ独占しているため希土類の価格上昇ははなはだしく、たとえばネオジムが1年ほど前はトン当たり20ドルだったものが、今は70ドル3倍以上の値上がりになっている。

 日本としては価格が高騰しても希土類を使わざる得ないが、幸いに日本でも希土類が有ることが分かってきた
今までは中国から安価に輸入できたので国内開発など考えたこともなかったが追い込まれれば知恵がわく。
実は日本のマンガン鉱床にも多量の希土類が含まれており、中国が輸出を制限するならば日本で自力で開発すればいい。

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 だから、中長期的には日本で自力開発したり、他の資源を使用したりしていくらでも対抗することのできる措置なのであわてないことだ。

 かつて石油価格が高騰した時は、しばらくすると経済が縮小して価格が暴落したし、電池用のリチウムが投機で暴騰したことがあったが、しばらくすると適正価格に戻っている。
経済とは最終的には需要と供給で決まり供給者が一方的に価格設定できるものではない。

 中国はプーチンの天然ガス供給削減方式を真似て日本に圧力をかけてきたが、日本は技術の国なので、中国の希土類に頼らない生産方式を確立してしまうだろう。

 こうした中国のヤクザな脅しには右往左往しないで、中国に泣きついたり、領土を割譲したり、大金をせしめられたりしないようにするのが、石油ショック以降の需要者側の知恵だ。

 

 

 

 

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(22.9.27) 覇権国家中国外交の勝利と日本の惨敗 尖閣諸島漁船衝突事件

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(ブログは1日に1件と決めていましたが、緊急情勢なので2件目を作成しました)

 今回ほど日本外交稚拙さを感じたことはない。
一方中国の覇権外交については実に教訓になった。中国が外交とはこのようにして行うものだと実地訓練で教えてくれている。

 領土問題では弱気になったほうが負けだと私はこのブログで何度か指摘したが、その懸念が早くも火を吹いてしまった。
日本政府は24日に中国人の船長を処分保留で釈放し、これで問題が解決したと思ったようだが、そうは問屋が卸さなかった。
さっそく中国は「謝罪と賠償」を要求してきたからだ。

 日本側は大騒ぎで、「せっかく誠意を見せて友好関係を演出したのに、この中国の態度は何だ」と言うことだが、これは中国として当然の態度と言える。
なにしろ「日本政府が処分保留で船長を釈放し、起訴もしなかったのは日本に誤りがあると認めた」からだと解釈されるからだ。

ほれ、見てみろ。日本は尖閣諸島で中国漁民が操業するのは正しい行為で海上保安庁が取締りをするのは間違いだと認めたじゃないか。
なにしろ那覇地検は法的に逮捕拘留することを認めず、政治的判断で船長を釈放している。
しかし地検幹部が政治判断するなんて馬鹿な国だ

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 菅総理としては驚天動地だろう。
中国が邦人4名を中国国内法(軍事施設を無断で撮影したスパイ法違反らしい)にしたがって拘束したり、レアアースといった戦略物質の日本向け輸出を差し止めたり、日本への観光旅行を自粛させたりしたのですっかり弱気になり船長の釈放を決めたのだが、これは対日戦略の始めだったとは気がつかなかったようだ。

 日本人は世界でまれに見るほど優しい国民だから、こちらが誠意を示せば相手も誠意を示すと考えるが、それは日本国内だけの話で、世界を相手にその論理は通用しない。

 今回中国の示している態度がそれで、「水に落ちた犬は棒でたたけ」と言うのが国際外交の常識で、日本が処分保留で船長を釈放し自ら非を認めた以上、それに対してとことん追求するのが国際外交の常道である。

注)菅総理は平和運動出身者だから、こちらが友好と言えば相手も友好になると思っているようだが、中国の言う友好とは実力国同士の握手で、弱い国に対しては恫喝になることを実地に教えてもらっている

よし、この機会に尖閣諸島を中国領に実質的にしてしまおう。海上保安庁は取締りが間違いだと菅政権に言われて腐っているから、今後は取り締まりなんかしっこない。中国漁船は大手を振って尖閣諸島周辺で漁業ができる

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 領土問題はどこの国でも同じで、弱気になった国が負ける。日本が領土問題で腰が引けているのを見て、ロシアも韓国も強気に出ることは間違いない。
これでクナシリ・エトロフも竹島も日本に返還されることはなくなった。

注)インドはあきれて「領土など国益を左右する問題で弱い姿勢を見せる国などない」とコメントした。

 日本は日本大使館が暴徒に襲われても、また毒入り餃子事件で食中毒を起こされても「謝罪と賠償」を得ることができないのに、中国は日本の領海内で中国船が故意にぶつけて「謝罪と賠償を」要求してきた。

注)中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突させているビデオ画像を一刻も早く世界に発信すべきで、なぜそうしないのかは不思議だ。
漁船が故意に衝突させているなら明確に問題だし、かりに巡視船の方が反対に衝突させているにしても領海内で逃げ惑う漁船を補足するためなら当然の行為だ。

 日本が弱気になった最大の原因はアメリカが「本件は日本と中国の問題でアメリカは関与しない」と表明したからで、尖閣諸島が日米安保条約の範囲に属するとしてきた従来の立場を変更したからだ。
アメリカが中立的立場を表明した以上、軍事力で劣る日本が中国に一国で対抗する手段はない。

 安保条約が空洞化したのは民主党政権にも責任があり、普天間であれほどアメリカの心を逆撫ですれば、アメリカが日本を見捨てるのも当然だ。
その結果日本は中国に負けて、尖閣諸島を中国領とみなす第一歩を踏み出してしまった。

 尖閣諸島はイラク並みの石油資源が眠っていると推定された場所だが、日本が石油産出国になる機会はこれで失われた思ってよい。

注)ただし海底油田を中国が問題をおこさず掘削できるか否かは又別問題である。アメリカのメキシコ湾での石油流失事故を見ても分かるように、海底油田の掘削は危険が多い。

 何度も言って恐縮だが、日本人のやさしさは日本国内だけしか通用しない。中国の態度こそ世界の標準だと認識して、日本外交を展開しなければ日本は世界の草刈場になってしまう。

 

 

 

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(22.9.27) ちはら台走友会の8時間走

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 今年も恒例のちはら台走友会8時間走を20日の休日に実施した。
朝7時にスタートして午後3時まで走るのだが、コースはかずさの道の往復8kmである。

注)ちはら台にはかずさの道という自動車道とまったく交わらない片道4kmの遊歩道がある。

 今年はひどい猛暑が続き、この日も日中は30度をこして、しかも湿度が非常に高かった。
こうした日は長距離ランには向かないのだが、日程を変えるわけには行かない。

 走友会のメンバーは30名強いるのだが、今回の出席者は17名だった。
参加者には練習熱心なメンバーが多い。

 朝のうちはそれでも涼しかったのだが、11時ごろから非常に暑くなった。
スピードも落ちてくるし、のどは渇くし、「ヘロヘロ」状態になる。
それでも懸命に走ったのは来年の萩往還250kmのレースを見据えて、長距離走の感覚を身体に覚えこませたいからだ。

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メンバーのSさんの力走)  

 長距離走ではペースを維持し、できるだけ体力の消耗を避けて淡々と走るのがコツだ。
誰かと競って途中でスピードを上げたり、落としたりするといっぺんで体力を消耗してしまう。

 4周程度までは何とかペースを維持していたが、段々と暑さに負けてきた。
こうなると暑さ対策が必要になる。
長年の経験から手ぬぐいを帽子の下にかぶり、後頭部に直射日光が当たるのを避ける措置をする。

 それでも暑く日差しが強い場合はこの手ぬぐいを水に浸して後頭部を冷やしながら走る。最後は身体全体に水をかぶって、水冷式の身体になって走る。

 ちょうどこのコースの真ん中あたりに公園があり、そこに水道があるので全身に水浴びをしながら走ることになった。
子供が私の仕種を不思議そうに見ている。

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コースの折り返し点

 走友会きっての快速ランナーのMさんが飛ばし、その後を等速ランナーの私がついていくという構図になった。
当初は8kmを50分前後で走ったが、最後は1時間10分程度かかり、よれよれになったがそれでも合計で64km走ることができた。

 この時期の長距離走としてはまずまずの成果だ。
終わると全員でかずさの道で宴会が始まった。私は酒は飲まないのでジュース類を飲んでいたが、メンバーは気持ちの良い人が多いので実に楽しいひと時だった。

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(22.9.26) ロドリゴ 蝦夷地探訪記 その16 最終回

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(帰りの車窓から撮る

 今回の蝦夷地探訪においてロドリゴがしみじみ感じましたのは、日本国の将来と言うことでございます。
この蝦夷地は間違いなく日本国の将来を指し示しているようにロドリゴには思えたのでございます。

 現在日本国は人口低下に悩まされ、老人の比率が高くなり、経済成長は止まって、残されたものは公共工事による道路や橋や港や空港の建設だけになっております。
そしてそれを最も特徴的にあらわしているのが紛れもなく蝦夷地でございました。

 札幌のような一部の都邑を除いて、あらゆる都邑や集落から人が消え、小中学校が次々に閉鎖され、集落で子供の影を見ることがほとんどまれでございました。

 農村地帯に参りますと数軒に1軒の割りで、放棄された農家とサイロがむなしく建っており、ほとんどの場合が雪の重みで半分つぶれておりました。
漁村地帯は農村地帯に比べるとはるかにマシで、昆布漁のおかげで家々は新築されておりましたが、ここも人口低下に悩まされているのは同様でございました。

 一方で道路や公園や港湾と言った公共設備はこれ以上はないというほどに整備され、社会資本の充実には驚かされましたが、残念なことにそれを使用する和人やアイヌはほとんどいないと言う状況でございました。

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 この人口減と公共設備のアンマッチほど蝦夷地を特徴付けているものはございません。
これは幕府が景気対策として公共工事ばかりに予算を配布した結果で、なにか古代ローマの遺跡群を見ているような感覚に襲われたものでございます。

 そして近い将来蝦夷地ばかりでなく日本国のほとんどもこのような状況になるのは明白でございます。

 こうした状況対処する方法は果たしてあるのでしょうか。
一つの方法は日本国を世界の裕福な人々に解放することではないかと思われました。
その理由は日本国は世界から見たら飛びぬけて生活するのに相応しい場所だからでございます。

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 故郷エスパニアにおいてもコスタ・デル・ソルというような風光明媚な避暑地を和人をはじめ多くの異国の民が別荘地として購入しておりましたが、蝦夷地や日本国ほど世界の別荘地として適したところはございません。

 風光明媚で気候風土が夏場を除けばマイルドで、かつ公共投資は古代ローマと同様に隅々まで行き渡り、医療も最先端、情報技術も一流で犯罪の少ない場所は、世界を見回しても日本国以外にないのです。

 ここは世界の金持ちにとって夢のような場所でございますので、多くの異国の民に居住してもらい、スイスのようなイメージの国家になるのが相応しいと思われます。

 政府を挙げてかつてオーストラリアがしていたような、お金持ちのシルバーの誘致を図るべきだと言うのがロドリゴの提案でございます。
それが過小人口と過剰な公共投資のアンマッチを埋める最適な方法のように思えるのです。


注)かつてオーストラリアでは日本円で5千万円以上の資産をオーストラリアの銀行に預金し、かつ仕事を求めなければ居住権が与えられておりました。
金持ち老人の優遇誘致策です。

 

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(22.9.25) ロドリゴ 蝦夷地探訪記 その15

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 歩み続ければ人間どこへでもたどり着くものでございます。
様似を出発してから早2週間、約400kmの道のりでございましたが今日(元禄3年8月21日)ようやく目的地の納沙布(ノサップ)岬に立つことができました。
ここからは北方4島が見渡されるのでございますが、特にエトロフ島は近藤重蔵様が最初にここが日本国の土地だと明記した碑を建てた場所でございます。
だからエトロフ島は日本国の固有の領土であると和人が申しておりました。

 根室から納沙布岬まで行ってひき返しますと約50km程度あり、1日の行程としてはやや長すぎましたので、行きはバスで、帰りを納沙布岬から歩くことにいたしました。

 納沙布岬ではちょうどノサップ岬マラソンが開催されておりまして、ロドリゴが岬に着いたときに開会式を行っていました。
この開会式の主賓は蝦夷地の鈴木大酋長で、「北方4島問題の解決を図るため、鳩山総理の代理としてロシアと交渉し、かなり前進が見られたが、菅内閣になってもとの木阿弥になってしまった。大変残念なことだ」という趣旨の話をしておりました。

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 鈴木大酋長はこの蝦夷地に公共工事という一大産業を樹立させた功労者で、おかげで蝦夷地は高速道路や一般道、空港や漁港の整備が格段に進み、それでも足りないと熊や狐のための道路まで作ったのでございます。
蝦夷地では多くの和人やアイヌから尊敬され、特に熊や狐は「鈴木大明神」という祠を作って参拝しておりました。
これは熊や狐のことまで忘れずに道路を作ってくれた感謝の気持ちだそうでございます。。

 しかし分からないものでございます。幕閣は大酋長が道路や空港を作るたびにその資金の一部をピンはねしているのではないかと疑い、江戸表に引っ立ててご詮議あそばされました。
その結果、「ピンはねは明瞭」との御沙汰となり、大酋長は鈴が森で斬首の刑に処せられたたのでございます。

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北方4島が見える展望塔。入場料が900円と高かったので諦めた

 鈴木大酋長の最後の言葉は「蝦夷地を愛するものが蝦夷地のために努力してなにが悪い」という言葉でしたが、ピンはねは熊や狐の食糧確保のための政治的行為だとの説明でございました。

 ここ納沙布岬からは北方4島がくっきりと見える展望塔があり、ロドリゴも見ようとしたのですが、信じられないことに見聞料が900両もするということで、見聞を諦めたしだいでございます。

 納沙布岬一帯はほとんど平らと言ってよく、牧草地と原生花園が広がっている何とものどかな場所でございました。
道路もほぼ直線で10km以上先まで見渡すことができ、とても気持ちの良い場所でございます。

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 こうして様似から始まって納沙布岬の先端まで約400kmの距離を歩くことができ、蝦夷地の見聞は格段に広がったのでございます。
当初は気づきませんでしたが、かつて近藤重蔵様が歩いたであろう道をたどることができ、ロドリゴはとても満足いたしました。

 明日はおゆみ野の地に戻ると思うととても気持ちが落ち着きました。明日の旅の準備をいそいそとして深い眠りについたのでございます。


(別件)苅田郷で恒例の陶芸展が18日より開催されています。詳細は以下のとおりです。
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(22.9.24) 世界経済の氷河期 グローバルスタンダードの終焉とブロック化

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 今世界経済が急速に氷河期に突入しようとしている。日本においてはすでに20年前から氷河期に入っていたが、アメリカ、西欧がこれに続き、今又新興国と言われている中国がこれに続こうとしている。

 日本に典型的に現れている氷河期の特色は経済成長が止まることで、これを無理やり成長させようと公共事業を拡大すれば、一方で国の国債発行額が増大し、財政支出に限界が発生する。

 仕方なしに金融政策に頼ってゼロ金利政策や無担保融資の拡大を図っても、国内には資金を使用する場所がなく、ヘッジファンドを通して金や石油や希少資源や新興国の不動産投資に流れてしまい、国内では金融政策もまったく効かない。

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 アメリカや西欧に現れている氷河期はこの日本の氷河期の修正版というようなもので、アメリカの場合は金融バブルを演出して海外から資金を集め、それで国内の不動産投資をあおってきたが、リーマン・ブラザーズの倒産で化けの皮が剥がれてしまった。

 今は日本と同様に財政赤字を無視して財政の拡大をしたり、ゼロ金利でジャブジャブの資金供給をしているが、国内に資金は留まらず、金や石油といったコモディティに対する投資や、新興国の不動産投資に資金が流れている。

 アメリカはドルを印刷して世界バブルをあおっているものの、景気がいいのは新興国だけで国内の景気は散々だ。
失業率が高止まりし、アメリカも日本と同様に経済成長が止まった世界になってしまった。

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 西欧はアメリカがイカサマで作った金融派生商品をしこたま購入して、金融機関が不良債権の山になってしまった。これを救済しようとして政府が財政支出を増やしたためギリシャ、スペイン、ポルトガル、アイルランド、アイスランドといった国の信用ががた落ちになってしまった。

我慢ならない。アメリカン・グローバルスタンダードとは決別して、ヨーロッパはヨーロッパの基準で生きよう
財政赤字をGNPの3%以内に抑える決心を再びして、赤字財政からの脱却を狙い経済成長を諦めた。

 こうした中で、新興国経済の花形だった中国にも激変が起ころうとしている。
中国は政治リスクが大きくそれが表面化し始めた。

 まず日本と中国との間で尖閣諸島をめぐりガチンコの対立が発生している。
領土問題は国家の帰趨を制する問題だから、どちらも一歩も後に引けない。
引いたほうが負けで、その時を分水嶺として支配・被支配の関係が確定する。

 経済的には両国の結びつきは非常に深くなっており、中国は日本の技術を盗むことで経済発展を加速しようとしてきた。
日本も市場としての魅力にひきつけられ中国に企業誘致を積極的に行ってきたが、領土問題の決着は最終的には戦争以外にないのだから、この問題は長引く。

注 追加)24日、日本政府は中国人船長を処分保留で釈放した。この措置は日本外交が敗北したことを意味し、尖閣諸島は中国領土だと認めとことに等しい。

 その間日本企業は中国市場から締め出しを食うので、仕方なしにインドやベトナムやブラジルといった政治リスクの小さな国に企業や営業の中心を移していくので、日本と中国の関係は完全に氷河期に入ったと言える。

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 また中国はアメリカから、中国元を政策的に安く操作していることの指摘を受けており、オバマ政権が産業資本の保護と輸出振興政策に乗り出したため、この中国の元安政策と真正面から衝突し始めた。
ここでも中国とアメリカがガチンコ勝負を始めた。

 こうして中国が世界市場に向かって好きなように輸出ができた時代が終わり、仕方なしに国内投資を拡大する時代に入ったが、これは20年前の日本と同じで、無駄な国内投資をし続けて消耗していくパターンだ。
中国経済もその政治リスクゆえ氷河期の入り口に差し掛かったといえる。

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 こうして世界経済はアメリカが指導した経済発展のグローバルスタンダードの時代が終わり、西欧は西欧で、アメリカはアメリカ大陸で、そして中国は中国グループで閉じこもり、低成長を甘受する時代になってきた。
経済成長が終われば(レアアースと言った資源確保のために)特に外国と積極的に接触する必要はなくなる。

 大恐慌以降の誰も世界を救えなかった時代と同じだが、幸いなことにヒットラームッソリーニの時代ではないから、戦争が起こる訳でない。

注)ブロック化はハンチントンが唱えた文明単位にまとまる傾向が強い。互いに同じ文化を持ち行動パターンが同じだからだ。
そうした意味で日本は単独の文明社会だから、どこの国とブロック化せず、単独な社会に閉じこもりそうだ。

 ただ経済成長は終わり、各国はそれぞれの経済ブロックに閉じこもって、平穏だが変化の乏しい静かな世界に安住することになる。
これを新しい中世と言ったり、江戸化といったりしているが、時代はそうした方向に急速に進もうとしている。

注)中国との関係を見ても分かるように世界は弱肉強食の世界で、やさしい日本人にはとても耐えられない。これからの日本は中国やアメリカとの関係を最小限にとどめ、この日本の国土の中で気持ちの分かり合った人々とだけ暮らそうとしていくはずだ。

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(22.9.23) 権力の横暴と驕り 大阪地検特捜部

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 大阪地検特捜部の権力の横暴と驕りが次々と明らかになってきた。
村木元厚労省局長の裁判で捜査を担当した前田恒彦主任検事が、重要な証拠物件であるフロピーディスク(FD)の更新日付を供述調書の内容に合うように改竄していたらしい。

 前田検事は「故意ではなく、操作を間違って日付を変えた」と言っているが、私が大阪地検の検事なら机の一つもたたいて「馬鹿も休み休み言え。罪を逃れようとしてあいまいなことを言っても許さんぞ。俺は大阪地検の主任検事でエースと言われた男だ」と言うところだ。

 この裁判についてはかなり前から冤罪の可能性が高く、私は(22.3.14)の記事「冤罪の構図 元厚労省局長 村木厚子氏はなぜ犯人にされたのか」で村木氏の無罪を確信していたから、9月10日の無罪判決そのものには驚かなかった。

 しかし裁判の過程で担当検事が証拠物件を改竄してまで供述調書をでっち上げていたことは驚きだ。
そうか、こうして供述調書を作るのか

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 なぜ前田検事がFDの更新日付を改竄したかと言うと、自分が作成した供述調書と整合性が取れなかったからである
供述調書では04年6月上旬に村木課長(当時)から上村係長に証明書作成の指示が行われたことになっていたが、FDの最終更新日付が6月1日になっていた。
そしてこのFDの中に偽の証明書の原稿が残されていた。

まずい、これでは村木課長の指示が出る前に、上村係長が勝手に偽の証明書を作ったことになる。
何としても村木課長に罪を着せるには、FDの日付を変えなくてはならない。6月8日ならつじつまが合いそうだ。

絶対この事件は厚労省の組織犯罪だ。俺の見立てに間違いない。この組織犯罪が立証できれば俺の出世は間違いなしだ


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 私は最近の供述調書検事が作成するものと警察官が作成するものがある)はかなり強引な誘導が行われてるのではないかと疑っている。
何日も拘留され、「お前は嘘をついている」と机をバンバンたたかれ、眠る時間なく取調べを受けたら通常の人は何でもいいから供述するだろう。

 村木元局長は特別に意志が堅固であったので最後まで罪を認めなかったが、私などはすっかり参ってしまって「まあいいや、裁判であれは強制されたものだと言えばいいから、今はこの捜査官の言う供述調書にサインしておこう」と思うのに違いない。

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 同じような冤罪の事件が福岡高裁でこの9月に無罪判決になっている。
北九州市の病院で看護師をしていた上田被告が、認知症患者の足のつめをニッパー型爪きりで爪はがしたと言う事件で、地裁判決では「看護行為ではなく、楽しみで爪をはがしていた」として有罪になっていた。

 これも供述段階で上田被告がそのように供述したことになっているが、誘導された供述だと福岡高裁は認め無罪判決を下した。
単なる医療行為で、たまたま深爪になっただけに過ぎない」と言うわけだ。

 しばらく前の冤罪事件では、2003年の鹿児島県議会選挙で当選した中山信一県議会議員の陣営が、住民に焼酎や現金を配ったとして中山氏やその家族と住民らが公職選挙法違反容疑で逮捕された事件があった。

 捜査において、鹿児島県警が自白の強要や数ヶ月から1年以上にわたる異例の長期勾留などの違法な取り調べを行なった、とされる事件で裁判では被告全員の無罪が確定した。

 このときは捜査官が勝手に供述調書を作り上げて、「
AもBもCもみとめているのだからお前も認めろとまるで魔女裁判の裁判官のように自白の強要をしている。

 やはり裁判においては自白の強要でなく証拠物件による積み重ねが第一で、その場合でも検事や警察官は自分の都合がいいように証拠物件を隠匿したり改竄してはならない(
こんなことをエース検事に言わなければならないのが情けない)。

 今回のように検事がいいように証拠物件を改竄してしまうと裁判制度そのものが成り立たなくなってしまう

 この事件は司法制度の根幹を揺るがす大事件だと言える。

 

 

 

 

 

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(22.9.22) 覇権国家中国の真髄 尖閣諸島での漁船衝突事件対応

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 さすが覇権国家中国だと感心してしまった。
9月7日に発生した海上保安庁巡視船と中国のトロール漁船との衝突は、漁船が意図的に巡視船に衝突させたため、已む無く漁船を拿捕し船長を逮捕したものだ。
しかしこれを奇貨として中国の日本政府に対する揺さぶりはほとんどヤクザの因縁のようだ。
この落とし前をどうつけてくれる、おい、にーちゃん

 本件の事件そのものは偶発的なものだと私は判断し尖閣諸島の中国漁船衝突事件は偶発的事故という記事を記載したが、その後の経緯は恫喝外交になっている。

 閣僚級以上の首脳往来を停止し、航空路線増便に関する政府間協議を中止し、東シナ海のガス田開発に関する条約締結交渉も一方的に延期すると通告してきた。
そしてこんどは鳩山前首相温家宝首相との間で取り交わしていた「日本青年上海万博訪問団」の受け入れを19日夜にキャンセルしてきた(訪問は21日の予定だった)。

中国は怒っているぞ。てめーら、はやく船長を解放しろ。この程度の措置で済むと思っていると泣きを見るぞ」と言うことらしい。

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 しかし日本政府としては船長を絶対に解放できない理由がある。
もし中国の恫喝に屈して船長を解放すれば海上保安庁の巡視船の拿捕は不当なものだったということになり、日本が領海内での取り締まりをすることが間違っていたと言うことになる。

尖閣諸島は中国領土であり、そこを日本が実効支配しているのは間違いで、海上保安庁の巡視船は即時撤退させ、これからは中国がこの島を実効支配する」ということになるからだ。

 領土問題で実効支配がなされている場合、弱気になった方が負けで、実際クナシリやエトロフ周辺の海域で日本漁船が操業しようものならロシアの警備艇に即時逮捕され、場合によっては銃撃される。
韓国が実効支配している竹島も同じだ。

 日本の巡視船は紳士だから従来は追いかけるだけで、中国漁船が領海の外に出ればそれで良しとしてきた。
今回は船長が意図的に漁船を巡視船にぶつけてきたため、已む無く逮捕したものだが、中国政府は日本の暴挙を怒るふりをして、あわよくばこれを機会に尖閣諸島を中国領にしようということのようだ。

 なにかヤクザと喧嘩をしているようなものだが、国と国の関係は本来はこうしたもので、一方で友好を説き、一方でテーブルの下で足蹴りしているのが常態だから、特に驚くにはあたらない。

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 アメリカや西欧や日本のようなソフィストケートされた国の外交は、もっぱらテーブルの下の足蹴りだが、中国のような野蛮な覇権国家はそれを堂々と白昼で行うのでヤクザの喧嘩になってしまう。

 現在中国は国内の世論が沸騰して05年のような日本大使館襲撃事件のようなことは避けようとしているものの、段々とエスカレートしてきて05年の再来もあるかもしれない。

注)中国には本当の意味の世論はなく、常に政府によって操作された世論があるだけ。

 しかしこの事件は日本としても一歩も後に引けない事件なのだ。
中国は「日本は弱小国家だから脅せばいうことを聞く」と思っているので目一杯のブラフを仕掛けている。
が、そうでないことを見せないと、今後半永久的に日本は中国の衛星国家になってしまうのだから、ここは毅然とした対応以外に取るべき道はない。

 日本政府も高倉健のように男であることを示さなければならない場面なのだ。

(22.9.24追加)日本政府は中国人の船長を処分保留で24日釈放した。これは明確に日本外交の敗北で、今後尖閣諸島での中国漁船の取締りができなくなる事を意味する。

尖閣諸島は中国領土と認めたのと同じで、将来大きな禍根を残すことになった。

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(22.9.21) ロドリゴ 蝦夷地探訪記 その14

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 この日(元禄3年8月20日)は、初田牛の誰もいない駅舎をたって根室に向かいました。
目的地のノサップ岬はもうすぐそこと言う感じになってまいりました。

 途中昆布森西和田という集落を通過しましたが、このあたりの森林の荒廃には驚いてしまいました。
道路に沿って松林が続いているのですが、風雪に耐えられず倒壊しておりました。
このあたりは風がことのほか強く、風力発電には好地のようですが、一方そうした場所に道路を作ると互いに寄り添って風雪をたえてきた森林がたちどころに支えがなくなって倒壊するようでございました。

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(松林が倒壊していた。森林は寄り添って生きているため、風の強い場所に道路をつくると高木は倒壊する

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近くに風力発電の設備があった

 初田牛から花咲線沿いに蝦夷の道が根室に向かって伸びており、約40km程度根室の都邑に到着する予定でございました。
ロドリゴが完全に誤解していましたのは、根室と言い、花咲と言いとてもよく聞く地名でしたので、根室釧路並みの大きな都邑だと思っていたのでございます。

 しかし着いた根室は人口3万人程度(80年代は4万人の、市とはとてもいえないような寂しげな集落でございました。
JRの駅舎も1階建てのこじんまりとした建物で、駅前も閑散としておりオテルもほとんどなく、かろうじて見つけたオテルは一階が飲食店で2階と3階がオテルになっておりました。

 ロドリゴは都邑ではオテルに泊まることにしていたのですが、「これなら公園にテントを張ったほうがましかもしれない」と一瞬思ったほどでございます。

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明治になり、この根室の和田村に屯田兵が置かれた

 根室とはアイヌ語でネモロといい、「河口に流木が寄り集まる小川」と言う意味だと聞きました。
ここは松前藩が交易所を設置した場所でございますが、もともと交易所は根室ではなく近くのノッカマップにありました。

 ところが松前藩のアイヌに対する年貢の取立てが極度に厳しく、これに怒ったアイヌと松前藩の間にクナシリ・メシナの戦いが繰り広げられ、松前藩の一方的な勝利に終わったのだそうでございます。
その結果多くのアイヌをノッカマップで斬首したため、ノッカマップを避けて根室に交易所を移したと聞き及びました。

注)根室の風土記には以下のように記載されております。

 ノッカマップ岬は根室半島の根室湾側に面する小さな岬です。ノッカマップ灯台以外は何もないおよそ観光とは無縁の岬ですが北海道の歴史上極めて重要な場所です。

 1789年当時の松前藩から蝦夷地の交易を一任された場所請負人の不当な交易や強制労働に対して憤りを爆発させた国後島のアイヌとこれに呼応したメナシ(現羅臼・標津付近)のアイヌが蜂起し和人商人を襲撃。
松前藩はこれを鎮圧し(クナシリ・メナシの戦い)蜂起に参加した者をこのノッカマップに集め取り調べを行った後、首謀者とされた37名をここで処刑しました。これ以降和人の蝦夷地支配は決定的なものとなっていきます


 根室は漁業と牧畜で生計を立てている場所のようで、駅前は閑散としていますが漁港周辺には松前藩の役所や両替所が立ち並んでおりました。
高札もオロシャ語で書かれている等、とてもオロシャとの関連が深い場所のようでございました。
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根室市周辺は平坦な土地が多く、ほとんどが牧場になっていた)

 ロドリゴはこのオテルでいつものようにすべての衣類を風呂に投げ込み、自身もその中に入って衣類と身体の洗濯をし、旅の汚れを落としたのでございます。

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(22.9.20) 尖閣諸島の中国漁船衝突事件は偶発的事故

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注) 本件記事についてはその後の中国政府の対応を分析した結果、必ずしも偶発事故とはいえないのではないかとの結論に達しました。
新たに(22.10.21)「中国の深い闇 反日デモと内部闘争 共青団派と太子党」と言う記事を書いて修正しております。



 9月7日尖閣諸島急場島沖約15kmの場所で起きた日本の巡視船と中国のトロール漁船との衝突事故は偶発的な事故のようだ。
この海域は日本が実効支配しているが、実際は中国漁船や台湾漁船が密漁を繰り返している場所で、そのたびに巡視船と漁船の追いかけっこが繰り返されていた。

注) この尖閣諸島とその海域は1895年の日清戦争で日本の領有権が確定された場所だが、それ以前はどこの国にも属していなかったというのが実態だ。
日本と台湾の住民がこの島で鳥を乱獲して羽毛を取ったり、中国漁船が漁業をしていた場所だった。

 日本領になってからもこうした密漁が常時行われており、特に戦後は日本の防衛力が低下したため台湾漁民が自由にこの島周辺で漁業を行っていた(戦前までは台湾は日本領土だから日本人が漁業をしていたことになる)。

 このような状況が一気にきな臭くなったのは1970年に国連がおこなった調査で、この海域周辺には約1000億バーレル(イラクの埋蔵量に匹敵する)の石油が埋蔵されていると推定されたからで、以降この海域は日本・中国・台湾が領有権を争う紛争の海になってしまった。

 
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 日本側は主として漁船を日本の領海(島から約22km以内)の外に追い出すのが目的で追跡し、従来は強引に拿捕するようなことはなかった。
もちろん「停船命令」はだすものの、漁船がそれを聴くはずもなく適当に逃げてしまうと言うのが実態だった。

 今回事件になったのは、トロール漁船が何を思ったか意図的に巡視船に衝突させ巡視船の一部を破損させたため拿捕せざる得なくなったと言うことのようだ。
なぜ41歳の船長がこのような行為をとったのかは不明だが、あまりにしつこく追い回されて頭にきたと言うのが実態ではないだろうか。

 私がこのような判断をするのは、日本の右派・左派の両陣営から、このたびの事故は意図的な国家の謀略行為だとの主張がされているからである。

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 右派としては産経新聞が以下のような主張を行っている。

① アメリカの情報として「中国政府内部で尖閣諸島の実効支配が機関決定された可能性がある」
② この方針に基づき、漁船を隠れ蓑に軍と一体になって行動を開始した。
③ この時期を狙ったのは、日本が民主党の代表選で身動きが取れないこと、また普天間基地問題で日米連携が齟齬をきたしているため。
④ 中国は尖閣諸島だけでなく南シナ海や東シナ海でインドネシアやフィリッピンと領有問題を激化させており、退役艦艇を改造した漁業監視船を派遣して、インドネシア海軍が拿捕した中国偽装船の解放をめぐり、軍事衝突一歩手前まで行っている。
⑤ 今回の尖閣諸島での衝突は軍が意図的に行ったもので、日本とアメリカの動向を探るのが目的。

 一方左派としては田中宇氏が「日中対立の再熱」で以下のように論旨を展開した。

① 従来は日本の巡視船は漁船を追い詰めても逮捕することはしなかった。
② 今回それを実施したのは親米派の菅政権が強行姿勢に出たもの。
③ オバマ政権は国外の軍事費削減圧力を受けており、当然沖縄駐留米軍の撤退もその視野に入るが、この領域で日中両国が軍事衝突するようなことがあれば、駐留を継続できる。
④ アメリカの好戦派が日本の好戦派をそそのかして日中両国の軍事衝突を誘導したのが今回の結果。


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 私が今回の衝突事故は偶発的なものだと判断したのは中国の外務省が05年の日本大使館襲撃事件の時とは異なり、非常に冷静で、あきらかにこの事件の早期収束を図ろうとしているからである。

 05年当時は小泉親米内閣であり、小泉首相は靖国神社参拝を行う等中国と敵対しており、特に国連の常任委員会問題で中国と関係が悪化していた。

 一方民主党内閣は基本的には中国との関係を重視して、今回の尖閣諸島周辺での石油採掘についても政府間で話し合いをする段取りがついていた。
中国としても特にこの海域で軍事衝突するつもりはなく話し合いで解決しようとの姿勢を見せていた。

 中国は船長の解放については非常に強行だが、国内的にはデモを最小限に抑えたり、インターネットでのデモ参加を呼びかけるサイトを閉鎖したりして、05年の再来は防ごうとしている
おそらく日本側も早期の裁判を行い、罰金の支払いを命じて釈放するのではないかと思われる。

だから今、日本も中国も経済関係が良好な時に、領有権問題で火が吹くようなことは避けようとしているのが実態だと私は思っている。

注1)今回の衝突事件で中国は国内世論を押さえているが、実際に抑えきれるかどうかは中国政府の現在の力量にかかっている。
もし押さえ切れなければ、日本問題だけでなくチベットや新疆ウイグル自治区まで飛び火する


注2) 日本としても今回の拿捕については後に引けない。もし中国の要請にしたがって船長を即時釈放すれば、尖閣諸島は実質的に中国の領土とみなされることになる。
この地域での1000億バーレルと想定される石油は中国のものになり、日本は永遠に石油産出国としての地位が失われる。

 

 

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(22.9.19) ロドリゴ 蝦夷地探訪記 その13

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人間なれと言うものは恐ろしいものでございます。当初は30km程度歩くにも青息吐息で、「こんな馬鹿なことはさっさと止めておゆみ野に帰ろう」なんて気持ちでしたが、時がたつにつれて蝦夷地を歩くのがごく自然に思えるようになってまいりました。

 小指の水ぶくれは靴に穴を開けて小指があたらないようにしてからすっかり回復し、またアブの襲撃には長袖のヤッケと軍手で防備をしてから刺されることがまれになりました。
またヒグマの結界にについては、ヒグマ見切りの術を会得してから、どのような場所にヒグマがいるかたちどころに見抜いてしまいましたので、キャンプをしていても快適な眠りにつくことができるようになりました。
こうして段々とロドリゴは蝦夷地の男に変身していったのでございます。

20_021  (浜中湾。この人は珍しくつりをしていた。釣り人を見たのは始めて

 今日(元禄3年8月19日)は根室に向かって歩みを始めました。
霧多布岬から浜中湾に沿って海の道をたどり、初田牛はったうし)というところからJR根室本線に沿って、山中をたどる道でございました。

 初田牛まで約40kmでしたので、当日はここでキャンプを張ることにしておりました。
根室本線の駅なので駅舎や水道やトイレがあり、夜半は無人になるので泊まるのには最適と予想していたのでございます。

20_031  (秋には鮭がのぼる川

 しかしこの初田牛の駅についてびっくりしてしまいました。確かに駅舎はあるのですがドアーが朽ち果て始め、ドアーの下が穴が開いていて、外から雪や雨が自由に吹き込みそうな場所でした。
さらにここには水道もトイレもなく、またこの駅を利用していた集落の人々も何処かに移動してしまったような、なにか見捨てられたような駅舎だったのでございます。

すごい、これが駅か。まるで幽霊船のようだ
こうした駅には不思議な帳面が置いてあり、ここの駅を利用した人が感想文を書いて残してありました。

 どうやら人がほとんど訪れることのない駅に降り立ち、そこに設置されている帳面に自己の足跡を記載することが、鉄道マニアの鉄道マニアたる自己主張になっているようでございました。

何もない、霧につつまれた初田牛の駅に降り立った。ここは本当に何もなく、朽ち果てた人の気配のない人家がポツリポツリとあるだけだ。
こんなすばらしい駅が日本に存在していると思うと感激だ。ぜひともこの駅は残してもらいたい

このような文言で飾られておりました。

20_042  (初田牛の駅舎。入口側のドアーの下は穴が開いている。手入れがされていない)

一般に駅は生活の場として必要なのですが、ここはマニアのためにだけ存在しているような駅舎で、実際ロドリゴが到着した3時以降、乗降客は一人もおりませんでした。

注)1日に4本の根室行き列車が停車しますが、3時の次は8時でした。

 ロドリゴは一人でこの駅舎を占領して寝ることができたのできたものの、この根室本線沿線は寂しい蝦夷地の中でもことのほか寂しさを感じさせる場所でございました。

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(22.9.18) ロドリゴ 蝦夷地探訪記 その12

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 蝦夷地はとても不思議な景観が広がっているところで、特に釧路から厚岸、浜中町にいたる海岸線は湿地帯が続いており、かつての日本国の原風景と言える場所でした。

 たとえば江戸ですが、今でこそ干拓がすすんで面影はありませんが、かつての江戸利根川当時は江戸に向かって利根川は流れておりました)の大湿地帯で決して人が住めるような場所で有りませんでした。
このため都から奥の国に向う旅人はこの大湿地帯を避けて、江戸湾フェリーの航路に沿って、上総の地に上陸していたものでございます。

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浜中町遠望

 ロドリゴはこの海岸線に沿った蝦夷の道別海厚岸線)がとても気に入ったのでございます。
ときどき森が切れて海が広がると紺碧の海が広がり、また平地に下りると原始の湿地帯が広がっていました。
大和知りたきゃ 蝦夷地においで 葦の野原で 卑弥呼が踊る ハーヨイヨイ」と江戸の童が歌っていたわらべ歌が思い出されました。

注)このわらべ歌はロドリゴが作詞・作曲したものでございます。

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海がいつも開けて見えました

 今日(元禄3年8月19日)は浜中町にむけて愛冠(アイカップ)岬のキャンプ地を後にしたのでございます。
蝦夷の地はアイヌの地名をそのまま和人の言葉にしたものが多いのでございますが、ここ浜中町はアイヌのオタノシケ砂浜の真ん中)と言う地名を意訳して和人の地名にしたのだそうでございます。
人口は7千人ほどで、ここも80年代は9千人規模だったそうですので、人口低下に悩まされておりました。

 この浜中町周辺は釧路湿原に勝るとも劣らない霧多布キリタップ湿原が広がっており、特に山の中腹からこの湿原を眺めますと、バイキングが住んでいる北ユアロッパの景色と寸分違わない景観でございました。
ここは、間違いなく文化の中心、ユアロッパじゃないか

 浜中町には町営の温泉があり、汗と埃まみれのロドリゴにとっては天国のような場所でした。温泉は岡の上に建設されていたため霧多布湿原が一望の下に見え、露天風呂でしばし見とれておりました。

注)岡の上の温泉に行く道を古老に尋ねたのですが、明らかに痴呆症の症状がでており、かえって道が分からなくなったものでございます。

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霧多布湿原

 この日は40kmほど歩いておりましたので、ここの温泉の近くにキャンプを張ろうと思いましたが、約4km程度はなれた場所にキャンプ場があると聞き、そこまで歩いていくことにいたしました。
霧多布岬キャンプ場と申します。

 しかし行ってみてがっかりしました。
ここは自動の車やオートバイに乗った和人が多く、ロドリゴのような歩行者はほとんど天然記念物の絶滅種扱いでございました。
夜遅くまで騒がしく、ただ一人でキャンプを張ってきたものには神田明神のお祭りのように思えたものでございます。

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できるだけ人の少ない場所にテントを張りましたが、夜半うるさいテント場でした

 このテント場を利用した名簿がありましたので、確認したところ8月になって約400組の利用者があり、その中で徒歩は私ともう一人だけでございました。
そうか、友はたった一人か!!」

 蝦夷地はすでにカニ族が生息する場所ではなかったのでございます。

(別件)苅田郷で恒例の陶芸展が18日より開催されています。詳細は以下のとおりです。
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(22.9.17) 単独の為替介入は政府のパフォーマンス   円高は止まらない

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 菅総理が再三に渡って言及していた為替介入15日実施された。
市場は菅総理の介入発言は口先だけだと高をくくっていたので、さすがにびっくりして円は82円から85円まで円安が進み、当局は為替介入が成功したと胸を張っている。

 しかしこの為替介入が成功するかどうかは、これからの為替相場の動向にかかっており、1日だけの勝負で勝敗が決まるわけではない。
15日は長い戦いの始まりに過ぎず、単独介入と言う援軍なき戦いを日本一国でいつまで続けられるかはかなり疑問だ。

 今回日本の通貨当局はアメリカやヨーロッパの通貨当局に「最低限ネガティブなことはいわないでほしい」と頼むのがやっとで、とても協調介入などできる雰囲気でなかった。

注)なぜ円高・ドル安になるのかの本質的な理由はアメリカにあり「円高・株安は止まらない 若者は荒野を目指せ」に記載した。

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 アメリカもヨーロッパも現状のドル安、ユーロ安は輸出振興に好都合であり、財政政策によるてこ入れをこれ以上する余裕がないので、本音は円高こそ望むところで、日本の為替介入はとんでもないと思っている。

注)アメリカは中国に対し元安の是正を求めている最中で、日本の円安政策に対しても快く思っていない。

 これを端的に表現したのがグリーンスパン前議長で、アメリカの公聴会で「為替介入は効果がない。長期的・普遍的な効果は期待できない」と実にそっけなく述べている。

 今回の政府・日銀の為替介入の規模は約2兆円といわれ、これで3円あまりの円安を演出したのだから、確かにまずまずの成果とはいえる。

注)通常は1円円安に誘導するためには1兆円が必要と言われているので、今回は2兆円で3円の円安なので、効果的だったとの判断になる。

 なお為替介入をして調達したドルはそのまま持っていても金利がつかないので仕方なしにアメリカ国債を購入することになる。日本も中国(元安誘導のためドル買いをしている)もこうしてアメリカ国債が積みあがっていく。

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 しかし為替介入は一旦始めると止めたほうが負けのポーカーゲームになってしまい、後はどちらが資金を持っているかの勝負になる。
政府・日銀は為替介入に必要な資金を短期国債を発行して調達し、それでドル買いをするのだが、前回03年から04年にかけての単独の為替介入では約33兆円の資金を投入した。

 その結果は125円台の円が、110円程度の円高になっているのだから、どう見ても成功したとはいいがたい。
日本は輸出振興による不況脱出を図ろうとして、120円台の輸出企業にとって最適な為替相場の維持を図ろうとしたが、そうは問屋が卸さなかったというところだろう。

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 今回の円高は日本に原因があるのではなく、アメリカにその原因がある。約70兆円にも登る景気浮揚策を実施してもアメリカ経済は一向に上向かない。
FRBはさらに追加の金融緩和を行うと言っているが、これはさらにドルを増刷すると言っているのに等しい。
こりゃだめだ。ドルはどんどん低下する。相対的に真面目に管理された円を持っておくのがよさそうだ」市場はそう思っている。

注)今回のポーカーゲームの対戦相手はヘッジファンドで、アメリカ政府がジャブジャブの資金供給をしているのでかなり手ごわい。

 原因がアメリカにあるのにアメリカはさらに放漫経営をしようとしているのだから、円高・ドル安の流れは決定的だ。
さらにアメリカはドル安を容認しているのだから対応の仕様がない。

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 今回仕方なしに単独で為替介入を始めたが、前回と同様30兆円規模の為替介入を行っても、グリーンスパン前議長の言う様に円高の流れを止めることはできないだろう。
菅政権は「政府は何もしないで円高を放置して、景気を減速させた」と言われたくないので、パフォーマンスとして実施しているにすぎない。

 しかし冷静に考えてみれば、円高とは日本全体の価値が上がることで、黙っていても金持ちになることを意味する。
強い円は企業買収や海外の資産を安く購入できる絶好の機会であり、願ってもない好機だ。

 だから「円高で輸出企業は大変だ」というお決まりの悲鳴はもう止めて、積極的にこの機会を利用するのが、まともな経営者というものだ。


(別件)苅田郷で恒例の陶芸展が18日より開催されます。詳細は以下のとおりです。
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(22.9.16) 終わりの始まり 菅総理の勝利と民主党の崩壊

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 14日行われた民主党の代表選は菅総理の完勝に終わり、続投が決定した。
国会議員地方議員サポーターも菅総理を支持したのだから、菅総理としては満足のいく結果だろう。
敗れた小沢氏は「今後は一兵卒として民主党を支えていく」とコメントしたが、実際は言葉通りになるかかなり怪しい。

 今回の代表選でサポーターが菅氏を圧倒的に支持することは予想されたので、小沢氏としては国会議員の得票で大きく水をあけなければ勝てない状況ではあった。

注)小沢氏が腹黒い政治家だとのネガティブキャンペーンが盛んに行われた結果、一般市民は小沢氏を嫌っている。しかしこれは意図的な小沢氏追い落とし作戦が行われているためと私は思っている。
詳細は「ネガティブキャンペーンが始まった」参照


 私は当初今回の代表選は国会議員だけの投票で行うものと思っていたため、国会議員の過半数以上が菅総理を見限ると予想した。
しかし実際はサポーターを含めた選挙で、サポーターが圧倒的に菅氏を支持する動向をみて、かなりの国会議員が菅氏に投票したようだ。
勝ち馬に乗ろう」と言うことだろう。

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 今回管総理は小沢氏とのバトルに勝利したものの、先に行われた参議院選挙で敗退し、参議院では過半数割れをおこし、衆議院では社民党が離反したため3分の2の再議決が必要な議員数を割っている。
国会は最後は数で勝負する場だから、民主党政権が完全にレ-ムダックになっていることを意味する。

 菅総理が勝利しても民主党政権を取り巻く環境はなんら変わっておらず、23年度の予算審議が始まる来年始めには解散総選挙に追い込まれる可能性がたかい。
予算案は衆議院が先決権限を持っているとはいえ、法律を改正しなければならない予算は、法律改正ができなければ執行できないからだ。

注)過去の例では21年度の道路特定財源を担保する揮発油税暫定措置法が期限切れになり、約2カ月間ガソリン価格が低下した。予算不足になったがこのときは3分の2の再可決で自民党政権は乗り切った。

 今回国会議員の約過半数が小沢氏を押したのは、現状を打開して政界の再編成をすることができるのは小沢氏しかいないと思っているからである。
実際小沢氏は自民党を飛び出してからは、新生党、新進党、自由党、民主党と政党を作っては壊してきたデストロイヤーで、その豪腕はつとに知られている。

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 小沢氏の懐刀の山岡氏が「このままでは来年の予算国会を乗り切れないので、小沢氏を支持する」と公言していたのがそれで、参議院で過半数を確保できなければ菅内閣の未来はない。
しかし菅総理に小沢氏のような辣腕を期待するのは無理と言うものだろう。

 現在の政党と政策が完全にアンマッチになってから久しい
冷戦時代は民主主義と社会主義の戦いで、自民党と社会党はその反映だったが、ソビエトが崩壊した後は、アメリカ支持か反アメリカかの構図になってきた。

 アメリカの言うグローバルスタンダードを認めるか認めないかの戦いだが、小泉総理と竹中大臣はアメリカ派の筆頭であり、一方鳩山総理と亀井大臣はアンチアメリカ派の筆頭だったと言える。

 菅総理は鳩山総理の失政の後、親アメリカ、親財務省の路線で鳩山首相の座を奪ったのだが、今回の小沢前幹事長の立候補は、反アメリカ、反財務省の巻き返し作戦であったといえる。
小沢氏は普天間の再見直しを図ると言ってアメリカの心を逆なでし、さらに消費税に反対して財務省の心を逆なでした。

注)小沢氏はかつては国連中心主義を主張したり、民主党の議員団を引き連れて胡錦濤国家主席に面接している。
こうした行動はすべてアメリカの一国支配に対抗しようとしたもの。

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 小沢氏が目指している政界の再編成はこの反アメリカの再結集で、具体的には自民党右派と小沢氏を支持する民主党議員による国家主義的な政権による国政の奪取である。

 今回小沢氏は敗れたが、来年初めの予算国会が行き詰ることを見越して政界再編に乗り出すことは確実で、菅総理の民主党政権の余命はその時までだろう。

 菅総理は代表選に勝利したが、行く手にはクレパスが大きく口を開けて待っている。

 

 

 

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(22.9.15) ロドリゴ 蝦夷地探訪記 その11

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 ロドリゴは今回の探訪によって、アイヌの人々を完全に誤解していたことに気づいたのでございます。
オロチョンの火祭りのイメージから、アイヌは常時熊狩りをしていた山の民だと思っていたのですが、実際にアイヌの人々が住んでいたのは、川や湖が海と接する河口であり、こうした場所は海獣や魚介類や海草の捕獲が容易で、かつ当時の交通手段カヌーで自由に移動が可能だったからのようです。

 一方山塊は当時も今も国の道蝦夷の道と言った道路が整備されていない場所は、ブッシュが生い茂り、アブや蜂の住処となってとても人が入り込めるような場所ではございません。
こうした場所に入り込めるのは春先の雪が地面を覆い、冬眠から目覚めた熊の足跡をたどって狩が容易にできる時だけだと言うことを知りました。

 狩は春先の一時的な出稼ぎのような仕事で、本来は海や川の民海から遡れる様な川の場合)と言えそうです。

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厚岸遠望。手前が厚岸湾、橋の向こうが厚岸湖

 今日(元禄3年8月18日)は古番屋のキャンプ地を出発し、厚岸あっけし)に向かって歩き始めましたが、ここは厚岸湖という大きな湖が海に面した場所で、まさにアイヌが最も好んで住んだような場所でございました。

 厚岸はアイヌ語でアッケウシといい「オショウの皮をはぐところ」と言う意味だそうで、かつてここでオヒョウの捕獲がされていたことが分かります。
またここ厚岸も人口低下に悩まされており、80年代に1万6千人いた人口が今では1万1千人になり、とても静かな寂しさを漂わせる集落でございました。

 この厚岸の集落の外れに愛冠岬あいかっぷみさき)と言う場所がございましたので是非とも探査の必要を感じました。
ここは第2次世界大戦の北方戦線千島列島防御)の艦船や輸送船の通り道の一つで、ここに大きな砲台が築かれ本土防衛のための守備隊が駐屯していたのだそうでございます。

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愛冠岬の眼下

 愛冠岬は厚岸の集落から約4km程度離れた岬で、現在は緑のふるさと公園として整備され、近くに北大の臨海実験場がございました。

 私は当初愛冠岬の場所が分からず、地元の和人に場所を聞いたところ、「自動の車に乗りねえ、案内しよう」と言って緑のふるさと公園まで簡単に連れて行ってくれたのでございます。

 ロドリゴはどこに行くにも歩いていくつもりでしたので、一瞬驚きましたが、和人の親切心に答えるべくこの自動の車に乗せてもらいました。
おそらく70歳をはるかに越しているこの和人は、「戦争中は愛冠岬の下に防空壕を掘るために狩り出されたが、ありゃ何の役にもたたなかった」と述懐しておりました。

 愛冠岬は公園からさらに1kmほど海側に入ったところにありましたが、訪れる人もまばらなとても静かな、眼下に大海原が広がっているとても気持ちのいい場所でございました。

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テント場としては最高のロケーションだった

よし、今日はここでテントを張ろう」歩いた距離は25km程度で少し早かったのですが、ロケーションが気に入ったのでここで一夜を過ごすことにしたのでございます。

 この場所は夕方になると野生の鹿がいるだけで、人の気配がまったくしない場所でございましたのでいつものヒグマ見切りの法で見切ったのでございます。
鹿が安心して草を食べている ヨーシ。そばに厚岸の部落がある ヨーシ。愛冠岬は常時人が観光に訪れる ヨーシ。ヒグマの心配なし ヨーシ

 こうしてその日は蝦夷鹿が夕餉に鳴く「ピー、ピー」という鳴き声を聞きながら安眠することができたのですが、この愛冠岬は今回キャンプを張った場所としては最高のロケーションでございました。

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(野生の鹿がそばで草を食べている。人になれていて逃げない)

注)実は後で気がついたのですが、この愛冠岬はキャンプ禁止になっておりました。近くにキャンプ場があったのですが、ここの案内係の人に聞くと「自分は行ったことがないので知らない。道はあるが行けるかどうか分からない」などというので、仕方なしに愛冠岬にキャンプを張ることにしたのでございます。


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この日の夕焼け
 

 

 

 

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(22.9.13) ロドリゴ 蝦夷地探訪記 その10

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 さすがにロドリゴも反省をいたしました。昨日白糠から釧路までのほぼ30kmをJRを使用してスキップしたことでございます。
このようなことがマラカのサンチアーノ大主教に知られますと破門は確実で、もし破門されれば老後の年金が支払われなくなることでございました。
まずい、年金めあてに真面目そうに修行しているのに、オジャンになってしまう

 ロドリゴがJRやバスに乗ろうとするのは、そうした乗り物があるからで、金輪際JRもバスも通っていない道を選べば、次のキャンプ地に到着するか行き倒れるかのどちらかしかないはずだと気がつきました。

 幸いなことに蝦夷地には海岸に沿って集落だけを結んだ蝦夷の道がございますので、今後はそうした道だけを歩むことにいたしました。

017_2  (海岸線の道は一気に視界が広がる場所が多い

 この道は集落の和人がカモシカやトナカイに乗って通る以外はほとんど人通りがなく、バスも通っていないのでひたすら歩く以外に方法はないのでございます。

 しかもこの道は海岸線に沿っていましたので、ときどき海が開けて見える場所があり、紺碧の海原が広がると気分的には実に爽快な気分になれるのでした。
海よ~ 俺の海よ~」ロドリゴは帆船の操縦が得意なのでございます。

 この日(元禄3年8月17日)は海岸縁にローソク岩とか立岩とかの奇岩が見える蝦夷の道(根室浜中釧路の道)を厚岸(あっけし)に向かって歩いていったのでございます。

014_4  (この下には集落があったが写真には写っていない

 実はこの頃から大変不思議な現象が出てまいりました。
と言いますのも前から来るトナカイやカモシカに乗った和人が、なぜか停車し、あるいはUターンをしてもと来た道に戻っていくのでございます。
なんで、カモシカやトナカイが止まってじっとしているのだろうか?」

 ロドリゴが近づいていくとようやく動き出すのでございますが、すれ違いざまに「なんだ、お前は人間か!!!」と言う顔で通り過ぎるのでございました。
ようやく理解したことは、ここ蝦夷の地で歩く人は皆無のため、道の片側に異様な物体がうごめいていますと、「すわ、ヒグマか!!」と警戒していたのでございます。

006_2  (これは集落の名前の由来が書いてある

 蝦夷地に来てはや10日、段々とロドリゴは現地に溶け込み、和人やアイヌから見るとほとんどヒグマに変身してしまったようでございました。
中嶋敦山月記には世の中を悲嘆して虎になった男の話が出ておりましたが、ひたすら山野を歩き続けるロドリゴもいつしか動物となり、傍から見るとヒグマに見えるようでございました。

 こうした自分を感じながら、この日はキャンプに適切な場所を探し、約45km程度歩いてようやく古番屋という集落の海岸線にキャンプを張ることができました。
ここはやはり昆布漁で生計を立てている場所のようでございました。

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昆布の干し場

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(22.9.12) ANAと関西国際空港の生き残り作戦 LCCに活路を見出そう

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 ANA関西国際空港が生き残りをかけて11年秋をめどにLCC格安航空会社)に参入をする。
日本が参入障壁を構築して日本市場を守っている間に、世界の航空業界はLCCに席巻されてしまった。
世界最大の航空会社はLCC最大手米サウスウエスト航空であり、メガキャリアではない。

注)LCCのシェアは現在提供座席ベースでは20%だが、将来は50%対50%程度にはなりそう。

 LCCは当初は欧米が中心だったが、現在は航空需要が爆発的に伸びているアジアに急拡大している。
そうした中で日本は最後のLCCの争奪戦場になろうとしている。

 日本の空がLCCから守られていたのは07年11月まではオープンスカイでなかったからである。
航空路や便数はすべて政府間の2国間協定で決められており、航空会社や空港会社は政府の言うことを聞いていれば、そこそこの収益が確保できる体制だった。
その見返りは国交省や県職員の天下りで、いわば持ちつ持たれつの関係にあったといえる。

注)07年11月以降も羽田、成田、関空、中部については発着枠がないという理由でオープンスカイの対象からはずしている。
なおオープンスカイとは空港の発着枠に余裕があれば、
航空会社が自由に発着枠、便数、路線を決められる政策をいう。

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 こうした当事者にとって夢のような世界が崩れたのは、アメリカ、EUを中心に世界の航空業界がオープンスカイに移行したからである。
オープンスカイになると格安航空会社が競争に参入し、航空運賃が劇的に下がり約半分になってしまう。

注)アメリカは国内航空会社の競争力を強化するために、いち早く航空自由化政策をとった。そして国内で十分に実力を蓄えたところで、オープンスカイという方式で世界の航空会社を系列化に置く戦略を立てた。
これに対して日本は門戸を閉じることによって対抗してきた。


 消費者にとっては天の恵みのような話だが、一方航空会社は死活問題で、実際JALは倒産してしまったし、ANAも赤字に苦しんでいる。
このままでは、ANAもJALと同じようになってしまう
危機感がANAにLCCへの参入を決断させたようだ。

注)10年3月期のANAの決算は営業利益が542億円の赤字。売上高は12%減で3期連続減少。ANAも経営改善策に取り組まなければ生き残りが難しい

 一方今回のLCCの導入に関空が積極的なのは、このままでは関空の未来がないからである。
近くに大阪国際空港神戸空港を持ち、関空は利用者数の伸び悩みに悩んできた。
本格的な滑走路が2本で、かつ24時間営業なのだから成田より条件はいいが、当初閉鎖予定の大阪国際空港が存続しているため、ハブ空港になれない。
これではいつまでたっても赤字を脱却できない

注)関空の10年3月期の経常利益は9億円の黒字だが、補給金90億円を除くと赤字であることに変わりが無い。

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 ANA関空の危機意識がLCCの導入に手を結ばせた。関空はLCC専用のターミナルを建設して、空港利用料の大幅引下げを目指している。
アジアにはマレーシアのエア・アジアやオーストラリアのジェットスターと言ったLCCの強豪がひしめいている。

 こうした中でANAがLCCに参入するのだが、座視していればJALと同じように倒産してしまうのだから当然の対応だろう。
世界の航空市場は2分化され、サービスが悪くても運賃が安いLCCと、運賃が高いがサービスの良いメガキャリア共存時代に入った。

 ANAの生き残りをかけたLCC参入が成功することを期待したいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

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(22.9.11) ロドリゴ 蝦夷地探訪記 その9

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 ロドリゴが蝦夷地を探訪して最も驚いたことは、蝦夷地に対する印象が人によってまったく異なることでございました。
この年、私の妹マリアも偶然にも蝦夷地の知床半島の探索に出向いていたのですが、マリアの報告が私のそれとまったく異なっていることに目を見張ってしまいました。

 マリアによると「蝦夷地は特に山海の珍味が多く、宿舎は王子のオテルと言う場所で、毎日バイキングと称する宴会が開催され、ウニやホタテが食べ放題で、このためマリアの体重は日をおって増えてしまった」ということだそうでございます。

 また移動はチーターの背に乗っての移動で、とても快適な気持ちになり、蝦夷地の牧場や農場の美しさにことの外感動したと言うのでございます。

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春彩湖

 この報告はロドリゴが遭遇している見聞とは大いに異なりました。
ロドリゴの手はアブの襲撃で醜くはれ上がり、ヒグマ見切りの法を編み出すまではヒグマの襲撃におびえ、食べるものはセイコー・マートの軒先でむすびと牛乳をほうばるだけでした。
不幸にもセイコー・マートが見当たらない時はわずかに残ったカリントウで飢えをしのいでおりました。
「明日は食事ができるだろうか

 ロドリゴの体重は日を追って軽くなり、アバラが透けて見え、そこに触れるとまるで琴のような音を奏でるのでございます。
夜半テントにもぐりなすことがなくなると、このアバラを使ってバッハの「飢餓線上のアリア」を奏でたのですが、まるで胡人が奏でる一弦琴のような悲しい音がするのでございました。

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釧路市と幣 舞(ぬさまい)橋

 しかし今日(元禄3年8月16日)は釧路という蝦夷地ではかなり大きな都邑に向かっておりましたので飢えの心配はありませんでした。
釧路約19万人が住む都邑で蝦夷地では際立って大きな都邑ではございましたが、それでもかつてのような賑わいはないとのことでございました。

注)1980年には約23万人の人口だったそうでございます。

 キャンプ地を出立するとすぐにパクシル自然公園がありましたが、ここはその自然の美しさとは別に、かなり前に営業を止めたボート場や売店がむなしく崩落を待っているような場所でございました。
おそらく地元の和人が観光客目当ての遊興施設を作ったのでございましょうが、蝦夷地は自然そのものが美しく、ボート場などは醜い自然破壊だったからだと思われます。

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(パクシル自然公園

 白糠という集落まで10km程度歩いてきましたが、このあたりから急ににぎやかになり、道路は江戸やおゆみ野と変わらず、今までの何もない自然そのものとは大いに異なる風景でございました。
こんな場所を歩いても、江戸と変わらないじゃないか
本音を言えば歩き疲れていたこともあり、この日はついにJRに乗り込み約30kmあまりを釧路までスキップしたのでございます。

注)このことはマラカのサンチアーノ大主教には内緒でございます。

 その代わり釧路についてから釧路周辺を歩き回ることができました。釧路湿原は昔歩き回ったことがありましたので、今回は春彩湖と言う周囲約5kmほどの湖に行くことにしました。
蝦夷地ではこのような都邑のなかに信じられないような自然が残っており、ここの湖の周回路を和人が走っておりました。

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春彩湖

 しかし都邑はロドリゴにとってはあまり愉快な場所とはいえません。
それと言うのもロドリゴは旅の途中でもできるだけ川に入り、衣類の洗濯に勤めたのですが、日を追って衣類と自身から異様な匂いを発するようになってきたからです。
都邑の和人はひどく臭いに敏感で、ロドリゴが近づくと、そっと避けてしまうのでございます。

 確かに衣類に鼻をあてて臭いをかぐと、思わず顔をそむけるほどでしたので、宿泊を依頼したオテルのカウンターにいた女性が、横を向きよそよそしくロドリゴに対応したのはこの臭いのせいだと思われました。

まずい、いくらなんでもこれでは熊や蝦夷鹿と変わりがない
すべての衣類を風呂に投げ込み、その中に自身も入って衣類と自分を交互に洗濯してようやく江戸表の伊達男に戻ることができたのでございます。

 

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(22.9.10) NHK 「貧者の兵器とロボット兵器」

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   このNHKの映像を見ると今までの戦争観が一変するような衝撃を受けるはずだ。
私自身の戦争観も一世代前のそれだったことを痛感した。

 通常私たちが共通して持っている戦争観は第2次世界大戦のそれで、沖縄や硫黄島の戦闘がそうであるように物量の差はあっても、両軍ともほぼ同じような装備で戦っている。
そして何よりも地上戦は歩兵対歩兵の戦いだ。

 この戦争観が変わってきたのはイラク戦争のときで、いわゆるハイテク兵器といわれた巡航ミサイルトマホークの登場がそれだった。
これは核兵器を積んでいないミサイルと言ってよく、かつ自身が目標を設定して爆撃しており、最後の瞬間まで目標を捕らえている映像が確認できた。

 私はこのハイテク兵器に驚いたが、現在のアフガン戦争はこの水準をはるかに凌駕したロボット兵器が登場していた。
一方でゲリラは旧来の兵器を使用していて貧者の兵器といわれている。

注)従来の戦争は国家対国家の戦争がほとんどだったが、現在は国家対テロリスト(ゲリラ)の戦争になっている。そのため兵器には圧倒的な差がでている。

 最も活躍しているロボット兵器は攻撃型飛行ロボットのプレデターである。プレデターは現在180機装備されており、もともとは監視専門だったが、今はあらゆる兵器が装備され、敵を見つけるとすぐさま攻撃できる。

注)プレデターは今後400機まで拡大される計画になっている。

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プレデター

 これをコントロールしているパイロットはアメリカのラスベガス郊外の軍事基地におり、そこから通信衛星を使用して遠隔操作で監視と攻撃を行っていた。
画面はほとんどゲーム機のそれであり、攻撃の仕方もゲーム感覚だ。
パイロットが戦場にいない最初の兵器と言っていい。

注)巡航ミサイルトマホークも戦艦から発射されていたが、イラク近海まで出撃しておりアメリカにいたわけでない

 オバマ政権になりこうしたロボット兵器によるタリバン掃討に切り替えたのは、米軍兵士の戦死者数が増え続けているからだと言う。
すでにアフガニスタンで1000人以上の米兵が死亡しており、戦争を継続するためには死傷者の増大は避けたい。

 もう一つの理由はロボット兵器が従来の航空機のような兵器からすると圧倒的に安価で、この攻撃型飛行ロボットの値段は5億円から10億円で、最新鋭ジェット機の値段に比較すると80分の1程度になると言う。

 アメリカと言えども軍事予算が無尽蔵にあるわけでない。こうしたハイテクロボットは効果的でかつ安価なのだから、従来の兵器体系に変わって兵器の中心になることは必然だ。

 一方のタリバンの戦闘は、かつてのゲリラ戦をより過激にしたようなものだ。
タリバンの中でもハッカーニ・ネットワークが最も過激で、兵器はAK47カラシニコフ戦闘銃対戦車ロケット砲が中止になっているが、これはかつてのアフガンとソ連との戦いの時に、アメリカCIAが密かにタリバンに供与したものである。

注)当時からアメリカのCIAが支援していたことは知られていたが、今回のようにはっきりと映像で証言されたのを見たのは初めてだ。

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AK47と捕獲したロボット兵器。捕虜がロボット兵器になっている

 当時アメリカはソ連と対峙しており、ソ連と戦っていたタリバンに毎年3000億円相当の軍事援助をしてきた。
その中心がAK47や対戦車ロケット砲で、すべてソ連製だったのはアメリカが援助していることをカモフラージュするためだったと言う。

 さらにCIAはパキスタンの部族地域において、タリバンの戦士の軍事訓練を密かに行ったが、この中に仕掛け爆弾の訓練もあり、それがその後のアメリカ軍に対する最も効果的な武器になったことは皮肉だ。

 タリバンの中で最強と言われるハッカーニ・ネットワークは主として仕掛け爆弾と、それをさらに過激にした自爆爆弾でアメリカに襲い掛かっている
自爆のための聖戦士はパキスタンの部族地域で幼児から徹底的な宗教教育を行い、それでも疑問を持ちそうなものには麻薬を投与して判断力を失わせて、自爆要員に育て上げている。

 互いにスパイを放って敵の実情を探り合っており、アメリカのスパイだと思っていた男が実はタリバンのスパイで、それが自爆要員になることもある。

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次期戦闘機は無人機になると言う

 この「貧者の兵器とロボット兵器」はその内容に驚くが、さらに驚くのはこのような映像を入手したNHKの実力である。
タリバンは資金集めと戦闘要員のリクルートの為にこうしたビデオを作成しているのだそうだが、それにしてもよく集めたものだ。
まるでこれでは日本のCIAがNHKじゃないか

 タリバンが製作した映像を入手して、それをアメリカの現役や引退した実務者に分析してもらって、この番組ができたのだが、私が今まで見てきた軍事関連の情報で最高のできばえだ

 現在の戦争は対ゲリラ戦が中心で、それも兵隊をじかに投入するのではなくロボット兵器で対応させるのが現代戦争だとこの映像は教えてくれた。

 日本の自衛隊の武器体系はせいぜい湾岸戦争当時の体系を踏襲しているが時代はさらに進んでしまった。
日本近海で軍事衝突が起こるとすれば北朝鮮の暴発が最も可能性が高いが、それ以外ではマラッカ海峡やソマリア沿岸での海賊(ゲリラ)対策が主体になる。

ゲリラにはロボット兵器が最も有効だ」とのアメリカ軍事思想の転換について、自衛隊も深い研究が必要になってきたようだ。
今回のNHKの「貧者の兵器とロボット兵器」は深く考えさせる貴重な映像と言える。

 

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(22.9.9) ロドリゴ 蝦夷地探訪記 その8

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 蝦夷地はどこも寂しいものなのですが、特に農村部の寂しさはたとえようもありません。
牧場などは500mから1km程度離れて建っているのですが、その数件に1件は廃屋になっており、屋根が雪の重みでへこんで朽ち果てている様は、芭蕉翁が歌った「夏草やつわものどもが夢の跡」そのものでございました。

 江戸表の瓦版では、農業人口が05年対比約22%減少したと書いてありましたが、かつて大和の農業人口600万人と言われていた数も、とうとう260万規模になってしまいました。

 蝦夷地は牧草地にしても農耕地にしても江戸や大阪のそれよりはるかに大規模なものの、自由化の波に耐えられず農業経営に失敗しては農村部から消えていくようでございました。

 この様は著名な戯作作家、倉本 聰氏が「北の国から」で描いておりましたように、ちょっとした大雨で農地が流されたり、働き手の一人が不慮の死をとげるといった、ほんの少しのアクシデントで夜逃げ同然の状態になるようでございました。

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(こうした廃屋がいたるところに放置されている

  一方これはとても意外でしたのは漁村部が相対的に裕福で、家屋も瀟洒な建物が多く、一家そろって昆布漁にいそしんでいることでございました。
ここ蝦夷地の昆布漁は漁期が夏の4ヶ月で、しかも1日の漁の時間は3時間と決められており、各家屋に認められた和船は1艘と、完全に制限された中での競争が繰り広げられておりました。

自由化の波にもまれる大規模経営の農村部が疲弊し、一方制限競争の小規模経営の漁村部が裕福で集落が維持されており、子供たちも多いのはなぜか?」
これはロドリゴが蝦夷地を探訪していて最も印象に残ったことでございます。

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山間部の牧草地。あまりよい牧草は生えていない

 今日(元禄3年8月15日)は浦幌のキャンプ場を発って、釧路と言う都邑に向けて歩き始めました。
この道は十勝国道といって、昨日まで通ってきた蝦夷の道とは異なり、象やサイやライオンやチーターが疾駆する道でございました。

 歩道が整備されている場所はまったく問題がないのですが、困ったことにトンネル部分は歩く部分が50cm程度しかなく、リックが壁にぶつかったり、張られている電話線の突出部分があったりして歩道から落ちてしまい、なんとも生きた心地がしませんでした。
主よ、ロドリゴはここで象に踏み潰されるのでしょうか

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とても旧いトンネルらしく、歩道部分は50cm程度しかなかった

 十勝国道直別と言う集落あたりから海岸べりに走っておりましたので景色が一気に開けて気持ちが明るくなるのでございます。
蝦夷地を歩いて山道に差し掛かると視界が極端に狭くなり、ただただ木立の中を歩いていると言うような状況でございました。

 こうした場所はアブの結界でありただでさえ憂鬱になるのですが、いたるところに「ヒグマ注意」の立て札が立っていて、気持ちがナーバスになるのでございました。

 今日の歩行は30km程度と決め、パシクル自然公園近くの海岸べりの防波堤の近くにキャンプを張ることにしました。

遠くに人家あり、ヨーシ。近くに道路あり、ヨーシ。近くに森なし、ヨーシ。
ヒグマの気配なし、ヨーシ

これは毎回キャンプを張るときに繰り返した確認点検で、剣豪宮本武蔵五輪書に書かれていた「ヒグマを見切る法」の極意でございます。

 私ロドリゴが蝦夷地の探訪を行い、修行にいそしんだ結果得た最大の成果はこの見切りでございました。
それまでロドリゴは夜中に異様な物音がすると「すわ、ヒグマか」などと慌てふためいて起き上がり、持っていた杖を小脇に抱えて戦闘態勢をとっておりました。
異様な物音は夜中に何回もしますので、神経が休まる時がなく寝不足になってしまうのでございます。

注)ロドリゴはサンチアーノ大主教からノミの心臓とあだ名されておりました。

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こうした海岸端がキャンプ地としては最適

 しかし、この武蔵の見切りの術を見につけたロドリゴはそれまでのロドリゴと別人でした。
遠くに人家あり、ヨーシ。近くに道路あり、ヨーシ。近くに森なし、ヨーシ。
異常音 アーリ、ただしヒグマの可能性 ナーシ

一度見切ってからは、いささかも幻覚におびえることがなくなったのでございます。

ロドリゴ様、ロドリゴ様が秘剣、ヒグマ見切りを編み出すたびに、このおつうから離れていってしまうのが、悲しいのでございます
おつう、許してくれ。ロドリゴは剣の道でしか生きられないのじゃ
ああ、ロドリゴ様・・・・・・いっそ死ねと言ってくださいまし
おつう(叫ぶ)」
抱き合う二人(音楽、はげしく)


 このようにして熟睡できたのでございます。

 

 

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(22.9.8) 文学入門 藤原てい 「流れる星は生きている」

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 今回の読書会のテーマ本は藤原てい氏の「流れる星は生きている」で、この本を選んだのは読書会主催者の河村義人さんである。

 いつものように私は藤原てい氏もこの本も知らなかったが、読んでびっくりした。
藤原てい氏が新田次郎氏の妻で、この本にも登場する次男の正彦氏は数学者で「国家の品格」という書物を著し、最近は思想家としての側面が強い人だったからである。
調べてみると一族には学者や小説家が輩出しており、心理学でいう天才の家系と言っていい。

 この一族のなかで私が知っていたのは新田次郎氏と藤原正彦氏だけだったが、新田次郎氏の孤高の人槍ヶ岳開山は愛読書であり、また剣岳点の記八甲田山死の彷徨は映画を見て感動した。
藤原正彦氏の「国家の品格」には同意するところが多い。

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 今回のテーマ本の「流れる星は生きている」は昭和24年に刊行されているから私が3歳の時の作品だ。
日本が敗戦をした昭和20年からほぼ1年をかけて、満州の新京現在の長春)から3人の子供を引き連れ日本に帰ってくるまでの逃避行の記録である。

 私はこれを完全な記録として読んだが、念のため参照したWikipediaには一部には創作があると書いてあった。
しかしどこが創作部分か分からないので、すべてドキュメンタリーとして読んでいる。

 満州からの引き上げは、他の地域からの引き上げに比べて、日本人とって飛び切り過酷なものであったことは、かつて読んだ五味川純平氏の「人間の条件」や高橋和巳氏の小説で描かれていたので知っていた。
その最大の理由が、戦勝国がスターリンソビエトロシアであり、ロシア自体がとてつもなく貧しかったことと、スターリンが意図的に日本人の男性を強制労働、女性は性の労働に狩り出したためである。

注)スターリンのソビエトロシアはあらゆる人々に対して過酷な政体で、多くのロシア人、ドイツ人、そして日本人が犠牲になっている。

 一家は満州新京の観象台(現在の気象庁)に赴任した新田次郎氏について1943年に満州に渡り、1945年8月9日に日本に逃避行を開始したが、実際は約1年あまりの間、現在の北朝鮮の宣川で一種の収容所生活を余儀なくされている。

注)8月9日はソ連軍の侵攻が開始された日。いち早く軍属と官僚の家族には退避命令が下された

 この間新田次郎氏はソ連軍によって抑留され、藤原てい氏は長男正広(6歳)、次男正彦(3歳)、長女咲子(1ヶ月)を引きつれ、自身が鬼になることによって子供たちの命を救っている。

 私がこの本を読んで一種のやりきれなさを感じるのは、ここに出てくる人が本人を含めてすべての人が、生きるか死ぬかの瀬戸際で鬼になり、鬼になりきった人だけが生き延びたと言う「人間と言うものは最後はこうしたものだ」という悲しいまでの報告だからだ。

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 夫新田次郎氏に対する評価も散々だ。
新田次郎氏は新京からの脱出時に家族を先に旅立たせ、自分は観象台の残務整理をするのだが、それを「最後まで見栄と、ていさいのために、私たちを犠牲にしようとする夫に向かって、私はただ人並みの妻として涙を流すより仕方がなかった」と述べている。
私など新田次郎氏は立派な作家だと思っているので、ここで描かれる「見栄とていさい」だけの男の姿には衝撃だ。

 しかし藤原てい氏が描く日本人は自身を含めてすべてが利己的に振舞う。
特にてい氏は1ヶ月の幼児がいるため、この幼児のオムツの処理に四苦八苦するのだが、周りの大人たちはこの幼児のためのオムツを洗う水を惜しがり、また幼児がなくと「うるさい」と非難し、配給は子供には少なくあてがわれる。

 この逃避行の過程で大人は幼児を犠牲にし、強いものだけが結局は助かる。そうしたなかでてい氏はこの咲子と言う1ヶ月の幼児を助けるために、行商や、こじき女になり、また人のいい女性から金を巻き上げるすべを会得することで生き延びる。

 特にこの本に出てくる「かっぱおやじ」は印象的だ。自分が指揮する日本人集団だけの利益を優先して、他の集団のことを省みない。
てい氏の集団が「かっぱおやじ」の集団に援助を請うのだが、聞いたふりをしても出し抜いて自分たちだけで逃げてしまう。
俺の集団だけが生き延びるのだ」そうした生の人間の息吹を感じさせる人間性だ。

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 だがこうした人々も生活が安定していて新京で優雅に暮らしていたら、きっといいご主人でいい奥さんだったに違いない。

 1年余りの宣川での収容所生活の後、38度線の米軍キャンプ地に向けて決死の脱出を図るのだが、汽車は途中の沙里院までしか行かず、そこからは38度線目指して徒歩での脱出となったという。

注)日本の敗戦後38度線をはさんで北はソ連、南をアメリカが占領していた。

 雨の降りしきる泥濘の山道を靴も履かずに数十キロの山道を突破する時の記載は特に胸を打つ。
足には石が挟まり歩くことがおぼつかなくなり途中で幼児を人に預けるが、幼児はすぐに大人に見捨てられてしまう。
見捨てられた幼児に再会したてい氏は最後の力でこの幼児とともに川を渡るのだが、渡れたのが奇跡に見える。
こうした逃避行が数日続いている。

注)山道を裸足で歩けるのは常時裸足で歩いている人だけで、靴をはいた生活をしてきた人は石の上を歩く痛さに悲鳴をあげる。通常は歩くことができない。

 38度線に達し、生と死の境で米軍に助けられ、日本に帰ることができたのだが、この決死行は私が今まで知った決死行のなかで一番すさまじかった。

 この本は深く研究するに値する本だ。
人間が極限状況に追いこめられた時にどのような行動をとるかの生きた証言だし、人間がどこまで生命力を維持できるかの証言にもなっている。
読むことはとてもつらい本だが、多くの日本人が読むのに値する本であることは間違いない。

 なお、主催者の河村義人さんのレジュメは以下のとおりですので、合わせて参照してください。
http://yamazakijirou1.cocolog-nifty.com/shiryou/2010/09/2298.html

 

 

 

 

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(22.9.7) ロドリゴ 蝦夷地探訪記 その7

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 ロドリゴが本当にアブという生き物が恐ろしいものだと知ったのはこの日でございます。すでに腕を数箇所刺されて夜中のかゆみに耐えかねておりましたので、もうそれ以上刺されないために上半身にヤッケを着ることにいたしました。

 そうした装備で今日(元禄3年8月14日)は十勝川をさかのぼり、浦幌集落方面に向かったのでございます。
十勝川流域は広く開けた場所で、牧草地や農耕地がどこまでも続いておりましたが、こうした場所はアブの結界テリトリー)なのでした。

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(朝霧の十勝川。朝霧が晴れると猛烈な暑さになった

 アブは気温が高くなると活発に活動をはじめるのですが、ちょうどこの日は蝦夷地ではまれに見るような高温に見舞われました。
ロドリゴはヤッケで腕をガードしておりましたものの、手のひらは素肌のままでした。
手のひら位なら出しておいても大丈夫だろう

 ところがこの素肌の手をめがけ一斉にウシアブ細長の小さなアブ)が襲い掛かったのでございます。
左手にアブがとまれば右手で叩き落すのですが、その間に右手を刺され、それを左手でたたき落とすと、その間に左手を刺されるという具合で、アメリカの艦載機に襲われた戦艦大和という状況になってしまいました。

 しかも止まると攻撃が激しくなるので、猛烈な暑さの中を休むこともできず、両手で絶えずアブを振り払い、傍から見るとまるで阿波の男踊りを踊っているようなしぐさだったと思います。

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誰も通らない農道を歩いたためアブのえさになってしまった

  和人やアイヌはこうした場所は自動の車なるものに乗り、決して歩くことがないためアブの襲来とは無縁でございますが、最初にこの地に入植した開拓農民の本当の敵はヒグマではなくこのアブだったことは間違いございません。

 ようやくのことでアブの結界を突破し、浦幌の集落に逃げ込んだのは昼ごろでございました。手の甲を見ると左手に8箇所、右手に4箇所かまれた跡があり、ムヒを目一杯つけては見たものの夜中は煉獄の苦しみが予想されました。

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お岩さんのようになった手の甲。ひどくはれて痒い

 ロドリゴは決心したのでございます。

アブはメスしか血を吸わない。このようにメスアブに襲われるのは、ロドリゴが石川遼君のようにあまりに美しい男だからで、坊主になれば小椋ケイと思って襲わなくなるのではなかろうか
この案はまったく名案と思われ、浦幌の集落で床屋に飛び込み坊主になった時は心底ホットいたしました。

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小椋ケイに変装したロドリゴ。うらほろ森林公園

 浦幌とはアイヌの言葉でオーラポロと言い「川尻に大きな葉の生育するところ」と言う意味だそうです。そしてここ浦幌も人口減に悩まされておりました。
1980年に約1万人いた人口が今は約6千人であり、集落はとても静かで人の影を見ることはまれでございました。

 そして蝦夷地の集落は多くがそうであるように、近くにうらほろ森林公園と言う実に快適な公園が整備されておりました。
こんなにアブにかまれたのだから、気持ちを整理するためにここで休息するのがよさそうだ
この日歩いた距離は約20kmあまりで少し早かったものの、この森林公園にキャンプを張ることにしたのでございます。

 ここには近在の和人が多くキャンプを張っており、とてもにぎやかでヒグマの襲来をまったく恐れる必要な有りませんでした。
一方、アブに噛まれた手のひらは赤くはれ上がり、夜中そのかゆさに耐えかねて掻くと、さらにかゆくなり、一晩中このかゆみとの戦いが続きました。
もうやだ。俺は苦しい!!」

 しかも朝起きてみるとノミに右足を噛まれた跡まで有ったのでございます。

 こうして芭蕉翁が歌った「のみしらみ 馬の尿(しと)する 枕元」に近い状況になってきたのでございます。

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(うらほろ森林公園のキャンプ場

注)アブの研究
① アブはメスしか吸血しない。したがって美男の男が多く襲われる。
② 温度が高くなると活発になる。これはアブが熱をあげている為。
③ 止まると集団で襲ってくるので、相手にせず無視するのがいい。
④ 農道や山道にはこのメスアブが多く、普段は牛や蝦夷鹿を相手にしている。人間の男はこうした場所に近寄らないため、たまたま近づくと大歓待をしてくれる。


 

 

 

 

 

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(22.9.6) BAHA(骨伝導補聴器)は救世主になるだろうか?

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 最近の難聴の進み具合にはほとほと困惑している。
以前はNHKのアナウンサーの声だけは明瞭に理解できたのに、最近はそれも危うくなってきた。

 幸いNHKでは日本語字幕をニュースやドラマで採用してくれているので、最近は音声を消音にして、もっぱら日本語字幕で見ることにしている。
聞こえない耳で無理に聞こうとすると、精神的に疲れるからだ。

 私の耳は感音声難聴で、音声を大きくするだけでは騒音と同じで意味がない。特に子音が聞こえないのでこれを補強する補聴器が必要なのだが、正直言って満足する補聴器に出会ったことがない。
最近は諦めて、補聴器をせずに想像力を駆使して会話をしている。
その人の思考パターンを理解して、どのような話をしているか予想するのである(ただしこれは面識のない人には効果がない)。

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 もし効果的な補聴器があれば是非使用したいと思っていたら、先日の毎日新聞に「小耳症対策としてBAHA(バハ)という骨伝導補聴器が有効」だとの記事が目に入った。

 小耳症とは耳の穴がふさがれている病気で、したがって鼓膜を経由して音声が入ってこない。
そのため骨を経由して音声を補足しようとして開発されたのが、骨伝導補聴器だが、従来のものはバンド方式と言って、補聴器をバンドで骨に固定して音声を伝える。

 この方式の弱点は補聴器を骨に強く接触させる必要があるため、バンドがやたらときついということで、こうしたバンドをしていると頭がガンガン痛くなってくる。
こんなに痛いのなら補聴器などしないほうがましだ」と思えるほどである。

注)バンドを緩めると今度は音声が聞こえなくなるので、はなはだ扱いづらい。

 それに対して小耳症対策として日本に紹介されたこの骨伝導補聴器BAHA(バハは、骨と結合する性質を持つチタンを側頭骨に埋め込み、そこに集音機能を持つ機器を植え込んで、骨に直接振動を伝える方式だという。
直接埋め込まれていて骨と一体化するので、慣れれば明瞭な音声が聞こえるという。

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 問題はチタンを埋め込むために手術が必要なことと、現在は保険対象外のため実費を支払わなくてはならない。
技術そのものは1970年代スウェーデンで開発されたもので、日本では小耳症対策として大学病院の治験を終え、医薬品医療機器総合機構の審査を待っているところだ。
承認されれば保険対象になる。

 私の場合は中耳に問題があって音が聞こえないのだが、骨からの伝導はそれほど衰えているわけでないことが検査で分かっている。
保険対象になったら埋め込んでみたいものだ

 そう思っているが、この手術を実施できるのが信州大学のような一部の大学病院だけで、しかもかなりの入院期間が必要らしい。
チタンと骨が一体化するまで時間がかかるという。

 だが、この方法が本当に有効であれば実に喜ばしいことだ。日本には多くの難聴者がいるが、かなりの人にとって福音になる可能性がある。

 それと言うのも現在一般に普及している耳穴式補聴器はかなり問題があり、デジタル式はやたらと価格が高く(片耳で20万円前後)、その割には補聴機能が十分でない。
眼鏡のようにかければ明瞭に見えるというわけには行かず、騒音の方が大きくなり実に不愉快だ。

 馬鹿馬鹿しいので私は補聴器を使用していないが、一方で会議などに参加すると、ほとんど話されていることが分からないことが多く、実に精神的に苦痛だ。
最近は会議と聞くとなるべく避けるようにしている。

 このBAHAという骨伝導補聴器はもしかしたら私の苦痛を取り除いてくれるかもしれない。今後の推移を十分注意して情報をトレースすることにした。

 

 

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(22.9.5) ロドリゴ 蝦夷地探訪記 その6

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 蝦夷地を歩いてつくづく思ったのは、自動の車という象やさいやライオンやチーターが疾駆する国の道を避け、明らかに裏通りと思われる蝦夷の道を歩くのが良いということでした。

 蝦夷地は鈴木宗男大酋長のおかげで、わき道といえども江戸の幹線道路のような立派な道が整備されており、行きかう象やサイはほとんどなく、実に快適な歩行ができるのでございました。

 前日は台風を避け、オテルなるものに宿泊しましたが、今日(元禄3年8月13日)は台風一過の雲ひとつない快晴でございました。
広尾国道は大変だからナウマン国道をたどったほうがよさそうだ
忠類から山道を抜けて、海に面したナウマン国道に向かったのでございます。
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(忠類のオテル。台風が接近していたのでここに逃げ込んだ

 この山道を通過中に台風の大雨で崩れた崖から、象の牙が露出していることに気がつきました。私ロドリゴは故郷エスパニアからマラカに来る途中の天竺シャムにおいて、この象なる動物を見知っており、その象牙が(から)において高価な値段で取引されているのを知っておりました。

 このことをさっそく松前藩藩士亀権乃助殿に手紙をしたためました。亀権乃助殿から何事についてもキット報告するように言われていたからでございます。

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ロドリゴが発見した象牙。その後1969年に再発見された

一筆啓上 亀権乃助殿
忠類よりナウマン国道に向かう土手に、多量の象牙なるものを発見せり。
象牙は江戸表や大阪においては飾り物として高価に取引されており、松前藩の財政に資すること大なるものと思料いたします。 ロドリゴ

 しかしこの報告は残念ながら亀権乃助殿が握りつぶし、江戸幕府に対し報告されませんでした。このような財宝が蝦夷地に眠っていることが分かれば、幕府がこの蝦夷の東半分を松前藩から召し上げ、天領にしてしまうことを恐れたためと思われます。

注)その後この象牙は1969年に再発見され、京都大学の横山博士により日本地質学の貢献者だったプロイセンのナウマン博士の名前を冠してナウマン象と呼ばれることになりました。
しかし、この蝦夷地探訪記にあるように、実際の第一発見者は私ロドリゴで、栄光あるエスパニアのロドリゴ象と命名されなかったのは、横山博士が蝦夷地探訪記を読んでいなかったからでございます


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(裏道に沿った牧場

 裏道は誠に快適でしたが、唯一の欠点は食料調達地のコンビニがないことと、途中に集落がなく、次の集落に到着する前に野宿が必要になることでございました。
なんという静かな場所なんだ。しかも何もない

 もう一つの問題は前日からいためている小指の水豆はいくら水抜きをしても拡大し、悲鳴をあげるような痛さになり、生花という場所まではきたものの、とうとう本当に歩けなくなってしまったのでございます。
もうだめだ。俺は野垂れ死にする

 この水豆に対する唯一の対処方法は、靴に穴をあけ、小指の痛い部分が靴に接触しないようにすることでございました。
本当は水豆ができ始めたらすぐにでも穴を開ける必要があったのですが、この靴はマラカの大主教サンチアーノ様からいただいた私の宝物でとても切り裂くことができかねていたのでございます。

 だがしかしロドリゴは何としても根室のノサップ岬までは歩き通さねばなりません。
意を決して靴に穴を開け、小指が当たらないようにすると痛さがなくなり、ようやく歩く勇気がわいてまいりました。

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小指があたるところをくり貫いてしまう。ただし靴は高価なのでこのようにするまでかなり逡巡する

 この日はことの他暑く、アブには追い回され、さらに数箇所を食われながらもようやくワッカリベツ川の橋の袂の、道路がそこだけやや広くなった場所にテントを張ることができたのでございます。

 この場所はテントを張る場所としては最悪で、路面は太陽に照らされて灼熱のフライパンのようであり、さらに象やサイが通るたびにその轟音に悩まされるのですが、唯一の利点はこうした場所にはヒグマが出没しないことでございました。

 歩いた距離はおよそ30km程度でしたが、暑さと痛さで疲労が重なっておりました。
このため3時頃からテントを張ったのですがテントの中はあまりに暑く、テントの外でお尻に靴をひき(直接座るとお尻が火傷をしそうでした)、雨傘を日よけにして6時ごろまで日暮をひたすら待っていたのでございます。
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このように道路の横にテントを張ったのは、自動車が通る場所にはヒグマが出没しないため。これ以上行くと山道に入りヒグマの結界に入ってしまう

 

 

 

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(22.9.4) 文学入門 村上春樹 「走ることについて」

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 この本を私に紹介してくれたのはY姉さんである。Y姉さんはある日、本屋でこの本を見つけ「山崎さんに読ませたらきっと喜ぶに違いない」と思ってわざわざプレゼントしてくれた。

 村上春樹氏については当然小説家としての村上氏は知っており、昨年の6月には氏の短編小説「蛍」を題材に読書会をしている。
その時の印象は「何とも乾いたニヒルな作家」だというもので、正直言ってそれ以上氏の小説を読む気がしなかった。
だから氏の代表作である「ノルウェイの森」も「IQ84」も読んでいない。

注)「蛍」の読後感は以下のURLを参照。
http://yamazakijirou.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-ed1e.html

 しかしY姉さんによると「村上春樹は相当のランナーでランニングに関する本も書いており、これがそれだ」という。
この本は小説ではなく、ランニングをテーマにした自伝で、村上氏の言葉ではメモワールとなっている。
小説家でランナーという取り合わせは何とも奇妙で「本当かい?」という感じで読み始めたが、読んで驚いた。

 村上春樹氏のランニング観や実際に練習している方法、それにその成果である記録、および体型、そして何よりもランニングと実生活の関係が(村上氏の場合は小説家としてのそれで私は定年退職者としてのそれ)、まったくと言っていいほど私と瓜二つだったからである。
なんだい、これは俺と同じじゃないか。一卵性の双生児みたいだ

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 どの位似ているかを列挙すると以下のとおりだ。

① 村上春樹氏 61歳 私 64歳  ほぼ同じ世代と言っていい。

② 体格: この本の中に写真が掲載されているが、ずんぐりむっくりの短足型で、下半身より上半身が発達している。これは私の体型とまったく同じ。

③ 練習方法: 月に300km程度走っており、決まった時間にほぼ毎日走る。これは私が現役時代に行っていた練習方法と同じ(最近は毎日というわけには行かなくなった)。

④ 記録:フルマラソンで3時間30分前後、100kmマラソンで11時間42分。私のフルマラソンの最高記録が3時間18分、100kmは11時間前後。両者とも平均的な市民ランナー。

⑤ 生活方法:決まった時間に決まったことを行い、そのリズムを崩さない。
村上氏: 朝3時間程度小説を書き、午後はJOGを行う。
私:朝清掃活動、午前中にブログを仕上げ、午後はJOG

⑥ 社会生活:人と酒を飲み交わしたり、集団スポーツをしない。個人生活を大事にしてスポーツは個人スポーツを好む。

⑦ フルマラソンで記録が伸びなくなってからの対応。
村上氏:トライアスロンに挑戦
私:超長距離ランに挑戦


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 これほどまでに村上氏と私が似た最大の理由は持って生まれた体型にありそうだ。ずんぐりむっくりの短足型の人間は、最大限努力をしても一流の長距離ランナーにはなれない。

 一流ランナーはまず体型で決まり、細身で体重が軽く、体全体に占める足のウェイトが大きい足長型で、頭が相対的に小さくなくてはならない。
ケニヤの選手をイメージすればすぐ分かるはずだ。

 村上氏や私のような体型の者はどんなに努力しても市民ランナーの勲章といえる3時間を切れない(きったランナーをサブスリーランナーという)。
だからある時から記録狙いは諦め、他人と競争するよりも自分が到達できた3時間30分程度の記録を維持してそれができれば満足することになる。

 それでもこの3時間30分を維持するのも並大抵のことでなく、月に300km、年間3600km程度の走り込みが必要で、このために人との付き合いをやめて、ひたすら練習に励む。

 その結果として生活は非常に規則正しくなり、体型は脂肪が取れてすっきりするが、付き合いがない分社会人としての評価が低くなる。
このバランスを回復するため、特殊な部門で才能を発揮しようとし、村上氏は小説家として大成した(私は著名でないブロガー)。

 この村上氏のメモワール「走ることについて」には衝撃を受けた。世の中には自分とまったく同じような人間がいるのだという驚きだ。
一方はノーベル文学賞候補で、私は単なる年金生活者に過ぎないが、そうした社会的評価を別にすれば、村上氏と私は一卵性双生児の兄弟だといってもよいほど似ている。

注)正確な本の題名は「走ることについて 語るときに 僕の語ること」

 

 

  

 

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(22.9.3) ロドリゴ 蝦夷地探訪記 その5

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 私は長く江戸表などに住んでいましたので、アブの恐ろしさを忘れていましたが、蝦夷地での最も大きな脅威はこのアブの襲撃でございました。
アブには何種類かのアブがいるのですが、ロドリゴには大きなでぶっちょアブ、小さな細長アブ、それと花アブの区別しかつきませんでした。

 この中で大きなでぶっちょアブはすごい羽音をさせて襲ってくるので、こちらも身構えることができるのですが、小さな細長アブは羽音をさせず、チクとした痛みを感じてはじめて刺されているのが分かるのでございます。

 アブは刺すというより噛み付いているという感じで、少々手を払っても動じません。仕方なく叩き潰すのですが何があっても血をすい続けるという実に獰猛な性質を持っておりました。

 アブに刺されて最も困ることはかゆみがなかなか引かないことでございます。ロドリゴは2日目の襟裳岬に行く途中に初めて刺されたのですが、そのかゆみはほぼ1週間にわたって続き、刺された場所は赤くはれ、最後は膿さえ持ってしまいました。

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(こうした場所にアブは生息している

そうだった、アブ対策をしないと大変なことになる
ようやく気づいて途中の集落でムヒというアイヌ伝統の薬草を購入したのでございます。
これは刺されたらすぐに塗ると毒を中和させ、かゆみを軽減させるという薬草でございました。

 アブは海岸べりにはあまり多く生息しておらず、山道や牧場に大挙して生息しており、主として牛を狙って攻撃をいたします。
名前もうしあぶと言い、しつこく牛を追い回す性質がございます。

 しかしこうした場所には和人やアイヌは絶対近づかず、ロドリゴのようにひたすら徒歩で移動する皮膚もろだしの人間だけが、牛以上の格好の餌食にされてしまうのでございました。
アブから見ると「一世一代のご馳走が来た。生き血をすべて吸い尽くせ」という感じで、ロドリゴはまるでドラキュラに狙われた処女の立場でございました。

注)この日までに右手首を3箇所アブにかまれていたのですが、それが単なる序章にすぎないことをその時は知りませんでした。

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のどかな牧草地帯が続いておりました

 今日(元禄3年8月12日)は、広尾のキャンプ場を出て、広尾国道をとおり、忠類という場所まで歩くつもりでございました。おおよそ30kmの距離でございます。
忠類とはアイヌ語でチュウルイベツと言い、急流を意味する言葉だそうでございます。

 蝦夷に来る前は毎日40km程度は簡単に歩けると思っておりましたが、酷暑の中を歩くのは非常に消耗し、かつ足の小指に水ぶくれができ、アブにさえかまれてしまうと、歩みは非常に遅くなるのでございます。

 しかもこの日は蝦夷地に向かって台風が押し寄せてきており、午後からは大降りの雨が降ってまいりました。
この国の道は帯広という蝦夷地では大きな城郭がある場所にむかう主要な道でしたので、自動の車と称する象やさいやライオンやチーターが全速力でぶっ飛ばしているとても危険な場所でございました。

 マサイ族の青年のようにロドリゴはただ一人こうした獣の間を歩いておりましたが、忠類の直前の約7kmあまりは歩道がなく、白線の外側は約50cm程度の幅しか有りませんでした(通常は歩道があるか、白線の外側に1m以上の余裕がある)。

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忠類の近くでマンモスの骨格が発見されている

 台風による大雨は視界をさえぎるほどであり、国の道にはいたるところに水溜りができ、そこに象やさいやライオンやチーターが目一杯の速度で疾駆しておりましたので、こうした動物に行き会うたびに猛烈なシャワーをあびてロドリゴは水浸しになってしまいました。

 台風の大雨でさえつらいのに、あまつさえ水しぶきを浴び、たった50cmあまりの避難場所でひたすら身体を丸め、主の祈りをささげていたのでございます。
時により すぐれば民のなげきなり 八大龍王 雨やめさせたまへ!! やめさせたまえ!! やめさせたまえ!!

 しかし雨は一層強くなり、目の中に雨が張り付き何も見えなくなるような状況でしたが、これはあわてて主の祈りを間違えてしまったからでございます。

 結局この道を突破するのに約2時間かかり、この時ほど修行の厳しさを感じたことはありません。
当初は忠類の公園でキャンプを張る予定が、身も心もずぶぬれになり、かつ台風も接近しておりましたので忠類の温泉兼ホテルに逃げ込んだのでございます。
主は弱きロドリゴをお許しくださるでしょうか?」

 

 

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(22.9.2) NHK 追跡A to Z ”はやぶさ”の快挙はなぜ実現したか

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 最近見たドキュメンタリー番組でこれほど感動したものはない。NHKの「追跡A to Z ”はやぶさ”の快挙はなぜ実現したか」である。
はやぶさの快挙については先にクローズアップ現代で放映されたのでその時も感動して以下の記事を書いている。
日本の宇宙航空技術が世界のトップに並んだ  「はやぶさ」の帰還)(ネットが張ってあります

 今回の「追跡A to Z」ではさらにプロジェクトメンバーの一人一人の役割と、そのときの感動まで伝わってきた。
そして崩壊一歩手前まで行ったこのプロジェクトがいかに再生し、成功里に収束したかのドラマを食い入るように見てしまった。

なんて日本人は粘り強く、苦境に陥っても立ち直れるのだろうか
これがこのドキュメンタリーを見た率直な感想である。

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 この計画は探査衛星はやぶさによる小惑星イトカワからのサンプルリターン計画だが、ここに携わった科学者と技術者の集団こそ、日本人の最も良質な人々がどのような人々であるかを教えてくれる。

 苦境に陥ったときのリーダーが示す態度、およびメンバーが持てる能力をすべて発揮して協力していく姿は、自信喪失ぎみの日本人に感銘と自信と喜びを思い出させてくれる。

この番組こそ日本人全体に見せるべき番組だ。特に若く知性溢れる若者には是非見てほしい番組だ」心からそう思う。

 はやぶさが日本を飛び立ったのは03年5月7日であり、地球から約3億km離れたイトカワという直径500mの小惑星に着陸し、そこの岩石を採取して、再び地球に帰ってくる計画だった。
サンプルリターン計画という。
片道2年間で合計4年という長いミッションだったが、実際にはやぶさが帰還したのは10年6月13日だったから7年の月日がかかったことになる。

 その間、はやぶさには3回の大きなトラブルが発生して、ほとんどミッションは失敗したのではないかと思われた。

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 1回目のトラブルははやぶさがイトカワに到着してサンプルを採取しようとしたときに起こった。
このサンプル採取の担当者は矢野さんという技術者だったが、当初イトカワは平坦な砂漠のような星だと想定していた。
しかし実際に見たイトカワはごつごつした岩の塊であり、着地することは勿論、岩石の採取はとても不可能に思われたという。

 実際はやぶさは2度にわたって着陸を試みたが1回目は失敗して岩石の上をバウンドしながら転がり、約30分にわたって約100度の岩盤の上に放置されたという。
2回目はうまくサンプル採取ができたと思ったが、実際はプログラムミス地球からの指令に20分もかかるため、自動プログラムを組み込んでいた)で、採取装置が稼動しなかったという。
信じられないような失敗で、申し訳が立たない」リーダーの川口淳一郎氏が陳謝している。

注)その後の再調査でイトカワの粉塵が採取できた可能性が分かり、実際に粉塵があるかどうかの調査を現在行っている。

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 この段階でサンプル採取を諦めリターンだけ行うことになったが、2回目のトラブルイトカワへの着陸失敗時のアクシデントで姿勢制御をする制御装置(3方向にガスを噴射して姿勢制御する)のうち2つが壊れてしまった。
さらに燃料の一部が噴出したためはやぶさ回転運動を起こし、通信用のパラボナアンテナと太陽光発電の太陽光パネルの方向が狂ってしまった

 太陽光パネルが太陽に向かなければ発電ができず、パラボナアンテナが地球に向かなければ通信ができない。
通信ができない探査衛星は宇宙のゴミと同じで、その段階でプロジェクトは崩壊しそうになったという。

 この時のリーダーの川口淳一郎氏の対応がすごかった。はやぶさが回転しているなら、太陽光パネルが太陽に向いて発電が再開でき、その時パラボラアンテナが地球に向いていれば通信が可能になると想定し、その確率は1年間はやぶさを追えば6割の確率で補足可能と計算したのだ。

 映像を見て、リーダーとは最後まで諦めず、あらゆる可能性を探る人のことだと知った。

 この確率計算を基にプロジェクトははやぶさの探査を再開し見失ってから47日目に再びはやぶさの電波を捕らえることに成功した。

 さらに姿勢制御を安定させるために、技術者の一人白川さんの提案で、壊れた2つの姿勢制御装置の代わりに、燃料の噴射と太陽光の圧力を利用してはやぶさの姿勢を安定させることに成功したという。
太陽光の圧力を利用するとは信じられないような発想だ。

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 3回目のトラブルは4つのイオンエンジンがすべてストップし、地球に帰還できなくなった時である。耐用年数が過ぎて動かなくなったという(4年で帰還する予定が7年かかったため)。
エンジンが動かなければ宇宙のゴミになってしまう。
この時の國中さんというエンジン担当の技術者の対応がすごかった。

 イオンエンジンはプラスイオンとマイナスイオンを別々に噴出して、それを結合することで推進する。
それぞれのエンジンは壊れているが、生き残っている別々のプラスイオンとマイナスイオンの噴出口を再結合して、エンジンを再開させた。
國中さんはもしもの場合に備えて、再結合が可能なようにエンジンを設計しておいたのだという。

 こうして大きな3つのトラブルを乗り越えて、はやぶさは10年6月13日7年の歳月を費やして帰還した。
すべてリーダー山口さんの最後まで諦めないリーダーシップとそれに答えたメンバーの努力の賜物だ。

 サンプルリターンという惑星探査の成功は、日本の宇宙技術がアメリカ、ロシア、中国に負けない第一級のものだということを示しており、それを成功に導いた技術者集団は世界に誇る技術者集団だ。

日本人はなんてすばらしいのだ」64年の人生でこんなに嬉しいことはない。涙を流して喜んでしまった。

 

 

 

 

 

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(22.9.1) ロドリゴ 蝦夷地探訪記 その4

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 蝦夷地を探索してみて最も驚くことは歩く人がほとんどいないということでございました。
ちょっとした集落に立ち寄っても、歩いている人はほとんどなく、ましてや集落から集落の間の道路には自動の車と称する乗り物に乗って移動する人以外は皆無という状況でございました。

 かつてロドリゴが故郷セビリアの神学校で神の教えを学んでいた頃、生徒の間で僻地を徒歩で旅することが若者の証であったのを思い出します。
当時はカーキ色の横長のリックを背負ってひたすら歩いていたのですが、後ろから見るとカニの甲羅のように見えるため、カニ族と呼ばれておりました。

 しかし元禄のこの世で蝦夷地を歩く人はロドリゴ一人ではないかと思われるほどカニ族は絶滅していたのでございます。

 さて今日(元禄3年8月11日)はキャンプを張った音調津(おしらべつという漁港を後にしたのですが、この頃から足の小指に水ぶくれができ、歩くことに支障が出るようになりました。
途中のフンベの滝で足を水に浸したして冷したりしたものの、水ぶくれは徐々にひどくなり、気持ちは段々とナーバスになっていったのでございます。

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これがフンベの滝。岩の間から水が湧き出している

 ロドリゴの履いていた靴はアシックスのGELという、マラソン用シューズで、甲高でだん広の足にはとてもフィットする靴でございます。
しかし真夏の太陽に照り付けられた道路面は50度以上に熱せられ、長時間歩いたり走ったりいたしますと、ちょうどフライパンの上に足を乗せた状態になり、一種の火傷のような状態になるのでございました。

昨日も昨日も10時間以上歩いているんだから水ぶくれも仕方ないか・・・
休むたびに針で水抜きをしてまた歩くのですが、状況は改善せず歩くたびに「イテー」と悲鳴をあげるようになりました。

こりゃ、だめだ。少し足の手当てをしなければ納沙布岬までとてもいきつけない。今日は早めにキャンプを張ろう

 音調津(おしらべつから広尾までは10kmあまりで、さらにそこから3kmあまりのところにシーサイドパーク広尾というキャンプ場がありました。
今日は無理をせず、このキャンプ場で休息をとることにしたのでございます。

22824_125_3  (キャンプ場からながめた景色。手前がラッコ川、その向うに十勝港が見える

 実はこの時本音を言えば、足の痛さに絶えかね「ああ、やだ。こんなに足が痛いのなら帰ろうかしら・・・・」と思っておりました。
しかし、おゆみの野の在を出立した時、「ロドリゴがんばれ、我らの誇りだ。カニ族だ」と盛大な送別会をしてくれた同僚の顔を思い浮かべ、その思いを断ち切ることにしました。

 もしここで帰宅すれば「ロドリゴは修道士の恥だ。おゆみ野には一歩たりともいれず島流しにしろ」なんていわれそうだったからでございます。

 ここ広尾はアイヌの言葉でピオロと言い、石があるところの意味だと聞きました。
広尾は松前藩とアイヌとの間の一大交易所で「場所」と称し、多くの和人とアイヌが住んでいる場所でございます。
また広尾を含めてこの一帯をトカチといい、ここ広尾には寛政の時代から十勝神社が祭られており、アイヌに対し和人の神をあがめることを強制しているようでございました。

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十勝神社の参道

 しかしここ広尾も蝦夷地の他の集落と同様に人口減に悩まされており、1980年に約1万2千人いた人口が、昨今は8千人まで減少し、かつてあった広尾線も廃線になっておりました。
蝦夷地の集落はどこも寂しいものですが、ここ広尾もそうした寂しさを漂わせておりました。

22824_130_2  (これが私のテント。このテントの中でひたすら寝ていた

 この日はキャンプ場で足の手当てとして水抜きを行い、昼ごろから後は疲れを取るために、主に祈りをささげながら寝ていたのでございます。
主よ、我に歩く力をお与えください

 

 

 

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