(22.7.21) 文学入門 春宵十話 岡 潔
今回の読書会のテーマ本は岡潔(おか きよし)氏の春宵十話だった。
岡潔氏は79年に他界した日本を代表する数学者だったが、生前多くのエッセイを書いており、春宵十話もそのうちの一冊である。
死後岡潔氏のエッセイはあまり読まれることがなかったが、最近になって復刻本がだされ、これが評判になっていると聞いていた。
今回この本をテーマ本に選んだのは私のかみさんである。
岡潔氏の数学者としての業績は「世界の数学者がいどみながらも誰も解けなかったドイツのベンケ教授の出した多変数函数論についての三つの問題を、見事に解いてみせた」と前坂 俊之(ジャーナリスト)氏のブログに記載されていた。
さて、この春宵十話という本はとても難しい本だ。文章そのものはやさしいのだが、はっきり言って何を言っているのかさっぱり理解できない。
「天才はこのように考える」という独白みたいな本で、結論ははっきりしているのだが、その論証は通常の意味での論証になっていない。
たとえば最初の「人間の情緒と教育」からかなり断定的だ。
「すべて成熟は早すぎるより遅すぎるほうがよい。これが教育というものの根本原則だとおもう」
ところが今の教育は「人間性をおさえて動物性を伸ばした結果」「人に対する知識の不足が」「幼児の育て方や義務教育の面」に現れ「思いやりの心を育てるのに失敗している」という。
何を言っているのか分かるだろうか。
私などは成熟が早くなったのは日本人の栄養状態がよくなったために成長が早まって、その結果男も女も大人になるのが早まってきためと常識的に思っている。
確かに性的な成熟が早くなれば異性を意識するのが早まるので、勉強がおろそかになることは分かるが、これが意図的に教育で「人間性をおさえて動物性を伸ばした結果」とは言いがたい。
別に一方を抑えたり、一方を伸ばそうとしたわけでなく自然にそうなってきたと言うのが私の理解だ。
岡潔氏が何度もこの本で繰り返し述べているのは「情緒」で、「学問は情緒でする」と主張する。
その理由として大脳生理学の説明があり、交感神経と副交感神経の働きの説明から始まり、急に「感情に不調和が起こると下痢をするというが、本当は情緒の中心が存在し、それが身体全体の中心になっているのではないか」と結論づける。
ここから岡潔氏は「学問は情緒だ」と言うのだが、情緒の中心が存在することの論証は「下痢をすること」だけだ。
「いくらなんでもこれが情緒論の論証になるのだろうか」私ならずとも頭を抱えるだろう。
私はこの本は天才岡潔はこう考え、こう感じたと言う本だと思っている。
他の人になぜそう考えたり感じたかの説明は一切しないで(一応はしているがまったく理解できない)、自分の思いのたけを語った本だ。
前述の前坂 俊之氏によると岡潔氏は相当な奇行の人物で、「絶えず数学のことを考えており、熱中していい考えが浮かぶと、散歩中だろうが、いきなり道端にしゃがみ込んで石や木を拾い、むつかしい数式を書き込んでは計算を始める。解けるまで、一時間でも二時間でもしやがみ込んで計算しており、道行く人は何事かと驚いた」という。
この辺までは私も理解できる。
しかし以下の文章を読むと相当な奇人だと誰でも思うだろう。
注)こうした奇行があったため、一時精神病院に入れられている。
そして「講義のために数学教室に行くが、その手前に築山があり、そこの岩に小石を投げるのを日課にしていた。
岡潔氏は「学問は情緒だ」と言ったが、常識人にはなぜそうなのかまったく理解できない。
注)岡潔氏と映画「ビューティフル・マインド」で出てきた天才数学者、ジョン・ナッシュは双子のようによく似ている。
なおこの本で岡潔氏が述べている幼年期や学生期、それにフランス留学時期等のエピソードはとても興味を持って読める。
しかしそうした経験から帰納される抽象的な理論、とくに情緒論はとても同意できない。
岡潔氏が確かに情緒で数学を行っていたことは確かだとしても、それなら過去の3大数学者、「アルキメデス、ニュートン、ガウスも情緒で数学を構築した」なんていえば言われた本人が目をむくだろう。
日本人一般が情緒的傾向があるということが事実だとしても、それと数学とは直接関係がなく、ただ岡潔氏がそう思っていただけだというのが、私がこの本を読んだ感想だ。
注)いつものようにこの読書会の主催者、河村義人さんが感想文を記載してます。私の評価とはまったく異なりますので比較してみてください。
http://yamazakijirou1.cocolog-nifty.com/shiryou/2010/07/22722-a0f8.html
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コメント
岡潔の作品そのものは読んだことがなく、それについてコメントを書くのは少々恐縮ですが、少しだけ失礼します。
御存じかもしれませんが、志賀弘典著「数学語圏」(数学書房)という本があります。
この著書の初めの方で彼は、岡の「数学は情緒」であるという言葉を解釈してます。
その内容は、数学を形式的体系としてとらえれば、その体系の内の定理すべてが自明のものであると、しかしその自明さは不完全である我々にとって到達し得ない自明さである、故に数学に携わる人間には情緒が入り込む余地があり、特にその創作・発見の段階においては決定的役割を果たすと。
私はこの考え方もある種極端なものとも思いますが、数学の中における情緒のあり方の一つという意味では理解しやすいものだと思います。(志賀の数学の教育論には色々と問題があるとも思います)
私は物理学の基礎に携わってきた者として人間の主観性は数学、科学のあり方に多かれ少なかれ影響を及ぼすと考えています、もちろん私自身は現在の数学や科学のあり方を否定するものではありません、しかし、主観性を尊ぶ形で学問の価値を主張するという人がいてもおかしくはないと考えています。
情緒を人間の主観性の良い面と捉え、かつ数学の普遍性をそこに加味し「己(人間)が主観的に発見したことが普遍に至る」、「己(人間)の主観には普遍性(の一部)が内在する」と考えたのは過去の偉大な数学者に共通の心持ではないかとも考えます。
認識をめぐる議論のなかで主観と客観の二項対立が多大なる困難を持っていることが明らかな現在、彼の現象学的な数学ともいえるものは方向性の一つとして我々を啓蒙するのではないでしょうか。
(山崎)有意義なコメント、ありがとうございます。
投稿: 水澤 勇気 | 2010年7月21日 (水) 05時27分