(22.6.4) 人を恋うる歌 与謝野鉄幹
「人を恋うる歌」は三高寮歌(現在の京都大学)として歌われているので、私も好きな歌の一つだが、本音を言えば意味がよく分からずに歌っている。
作詞者は明治・大正・昭和と活躍した詩人の与謝野鉄幹で、この時代の人はずいぶん難しい歌詞を作るものだ。
私は四季の道の清掃をしながらよくこの鉄幹の歌を口ずさむみ、清掃活動のテーマソングにしているので、いくらなんでも意味も分からずに歌うのはまずいと思うようになってきた。
どういう意味なのだろうか、調べて見る気になった。
歌詞は全体で16番まであるのだそうだが、私が口ずさむのはそのうちの最初のいくつかだ。
Wikipediaで調べてみたら、1番から4番までは以下の通りだそうだ。
1.妻を めとらば 才たけて みめ美わしく情けある
友をえらばば書を読みて 六分の侠気 四分の熱
2.恋の命をたずぬれば 名を惜しむかな男ゆえ
友のなさけをたずぬれば 義のあるところ火をも踏む
3.汲めや美酒うたひめに 乙女の知らぬ意気地あり
簿記の筆とる若者に まことの男君を見る
4.あゝわれダンテ(コレッジ)の奇才なく バイロン・ハイネの熱なきも
石を抱きて野にうたう 芭蕉のさびをよろこばず
この中で1番、2番、4番が主として歌われ、3番は歌われることが少ない。私自身は1番と4番しか歌わない。
1番は意味が分かりやすい。
「妻をめとるならば 知性があって 美しく 優しい心根の女性がいい。
友達としては、学問に対する熱意があって 義侠心と情熱が6対4位の割合で有った人がいい」
注)鉄幹の妻、晶子は間違いなく知性的で情熱的な人だったが、みめ麗しいかどうかは見ている人の主観に左右されそうだ。
2番は分かるようで分かりづらい歌詞だ。本当はよく分からないのだが、強引に現代訳すれば、以下のようになるだろう。
「恋愛と言うものはどういうものかといえば、男の名が廃るような道に外れた恋愛をしてはいけない。
友人としての生き方は、信義を旨として そのためには火の中までくぐってもいい」
注)与謝野鉄幹と晶子は道ならぬ恋をしていたので、この歌詞と実際は異なる。
3番を無視して4番に移るが、この歌詞は読み方によって正反対になる。
「私はダンテのような際立った才能もなく バイロン、ハイネのような情熱もないが (中国戦国時代の楚国の詩人の屈原が世をはかなんで懐に石を抱いて入水自殺をした古事にならい)私も懐に石を抱きながら(せめて屈原の精神をみならって)歌を歌おう。
そして芭蕉翁のいう深くかすかな趣に浸りたいものだ」
注1)よろこばずの「ず」については、打消しの「ず」ではなく、意志をあらわす「むず」が中世以降「うず」にかわって、最後に「ず」だけになった用法。
この意味にとると「芭蕉のさびを喜ぼう」と言う意味になる
注2)一方最後の「芭蕉のさびをよこばず」を否定の「ず」と素直にとると「芭蕉の言うさびなんて下らないから無視する」と言うことになる。
そうなると全体の訳は「私も懐に石を抱きながら歌をうたおう。しかし私は近代的な知性を愛するので、芭蕉の言うような古臭いさびなんて立場はとらない」と言うことになる。
注3)歌詞の中にはダンテではなくコレッジというものが有るが、この場合はイギリスの浪漫派詩人のクールリッジのこと。発音はコレッジとなるのだそうだ。
私はとりあえず上記のような意味で理解したが、この歌の歌詞について深い知識のある方がおられて、「こうした意味なんだ」なんて教えてくださるとありがたいものだ。
なお、「人を恋うる歌」のメロディーを知らない方は、以下のYou Tubeをクリックすると聞くことができます。
http://www.youtube.com/watch?v=f4ox-_b5ONI
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コメント
やあ、懐かしいですねぇ。大学のコンパで、よく歌ったものです。
私は芭蕉の云々は、てっきり否定形だとばかり思っていました。
不勉強でした。
もっとも「無視する」ではなく、まだ敢えてその立場を取らないといった意味に解釈していました。
投稿: yokuya | 2010年6月 4日 (金) 07時11分