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(22.5.7) ケヤキ剪定問題 佐々木さんの提言 その3

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(剪定をされていないケヤキは青々と葉を茂らせている

 私が最も不思議に思っていることは、誰が見ても不必要と思われる剪定作業をなぜ毎年繰り返して、わざわざ樹勢をそぐようなことをするかということです。

昨日の佐々木さんの提言2は以下のような内容でした。

① 木の性質を把握して適切な場所に植える。特にケヤキは巨木になるので場所が限定される。
② 間違って巨木を植えると剪定問題が発生するが、行政も公園設計者も育った後の状態を無視して計画を進める傾向にある。
③ 日本では公園は都市公園法で設置が義務付けられており、そこにコストを削った公園を大量生産してきた。
④ その場合も時間軸の概念が喪失していて、コスト的に見合う樹木が適当に植えられてしまった。
⑤ 公園や道路の樹木の植栽は公共事業の一環として実施されているため、無意味でもやめることがない。

以下佐々木さんの最終稿です


 こうして好き放題に批判していると、「あんた、公園行政の誰かに恨みでもあるのか」と思われそうですが、そうではありません。
むしろ、個々人は緑を愛するよい人が非常に多いのです。
ところが、彼らの複合体であるシステム全体がこうした時間概念を無視した公園を際限なく生産する装置となっており、個々人がいかに好人物でもシステム全体を変更しない限り、できることには限界があります。

原点に戻りましょう。そもそも、街路樹は本当に必要でしょうか? 
僕は(高木を無理やり使うのであれば)街路樹は不要と考えます。
どうしてもあのスペースに植えるなら、低木にするか、つる植物をうまく活用すべきです。高木を植えたいんなら、それ相応の土地を用意しましょう。

街路樹を一掃すれば、
①イニシャルコスト(伐採の)がかかるが、管理コストはゼロになる
②落ち葉が落ちるというクレームがなくなる
③同様に、木が育ってうちのベランダにかかるんですというクレームも消えてなくなる
④同様に、街路樹の剪定が拙くてみっともない、というクレームがなくなる

2255_036  (筒切りされて傷つきはじめたケヤキ

 千葉市はどうだったでしょうか? 
緑豊かな地所をもちながら、わざわざそれを切りつくし、大金を投じてまた木を植えて、今度はそれが気に入らないと言って文句を言う。
困ったのは行政のみではありません。市民全員です。
庭(=公園、街路樹、緑地、森)は、冷蔵庫ではありません。お金を出したら際限なくいいものが手に入るのではなく、市民が「良き旦那」として
見る目と、潤沢な資産をもつ必要があります。
もし、資産がないのであれば、自らの手で作り、手入れするほかありません。

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こうした傷口から菌が入ってくる

 結局のところ、街路樹から始まる景観全体の問題は、意思決定する人が誰かという点に帰着します。
かつては、藩主や領主のリーダーシップがそれであり、もっと狭い範囲では共同体の規範(月1回、共有地の草を刈るというような)が景観をある質で維持してきた本質的なシステムでした。

 従って、よい景観を取りたければ、藩主はいませんが、「こういう景観がいい」という意思決定者に個々人の市民がなるよりほかありません

 その一方で、ほかの行政サービスを削ってまで、公園行政なりに予算を回す価値があるかどうか、を検討すべきです。
美観を損ねる街路樹を大金払って維持するくらいなら、ないほうがましです。さらに、削らなくてもいい緑を削る予算を削れば済む話です。

 街路樹の問題は、まるで古典的な夫婦で「家のことはあたし(妻=行政)がやっとくから、あんた(夫=国民)はとにかく稼いできてね」という時代の終焉を示唆しています。なにも考えず、仕事に明け暮れていられた男性にとって幸福な時代の終焉でもあります。

 自分の住む場所にとって、何が大切か自分で考え、人任せにしていなかったら、気がつくと街路樹がサボテンだったという状態は回避できます。

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(
街路樹にはこうした低木が相応しいという。主としてもみじが植えられている

・いい街路樹をご所望なら、スペースに見合った木と予算を確保するべきです
・予算がないわけですから、現状を維持するか、街路樹を全廃するか、中間をとるか、といった仕分けをすべきです。
市民は行政・政治にそれを求めるべきです。
・どんな街路樹が欲しいのか、そもそも要るのか、市民一人一人が自分のこととして考えるべきです


以上が佐々木さんの提言のすべてです

佐々木さんの提言は以下のように要約されます。

① 大きな樹木(ケヤキもその一種)は街路樹にはなじまないので、計画の当初からはずす必要がある。
② 公共工事の一環として際限なく拡大する公園の見直しが必要でこのままでは無意味な公園がいつまでも作られ続ける。
③ すでに街路樹として植えてしまった後は、市民が自分の問題としてどのような管理をすべきか考えて、行政任せにしないということが必要。

 市民が自分の問題として街路樹に向かい合うシステム作りがどうやら最も重要なことだと私は理解しました。

 

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コメント

とてもわかりやすいお話を読ませていただきました。ありがとうございます。

爽やかに、気持ち良く伸びる木の枝とみどり豊かなみどりの葉!
縁あって移り住んだ住民の皆さんの家とともに、並木のある光景も財産のひとつであり、家族のような共に生活し生きていく「いのち」であるから、生き生きとしている姿は、こちらも元気をもらいます。
反対に元気のない木を見ると、こちらも気分が落ち込んでいきます。
並木全体が元気のない死んでいくような姿では、ほんとうに活気のない街の姿になりますね。

毎日、目の前にある並木と向かい合って生活される方にも明暗のある方もいるでしょうし、この四季の道の自然とみどりをこよなく愛して移り住んだ人もいます。

毎日悩まれている方のご苦労もあるでしょうが、いのちのある樹木がそこにもう入るのですから、街全体で人も樹木も健やかに暮らしていきたいですね。
そのために考える専門機関が街に出来たら、本当にイイですネ~賛成です!

投稿: あずき | 2010年5月10日 (月) 08時55分

腕のよい植木屋さんは、木の表情を見ながら自分のイメージとすり合わせていくことができます。
施主さんの希望、木の調子、自分の腕、季節、さまざまな要因が絡み合った複雑な方程式です。
人間は、どういう手を加えれば、双方にとって都合のよい結果になるか考えねばなりません。

木が健やかな街は、住みたくなる街です。
盛岡や丸亀、萩といった城跡のある街はお城にみごとな木があります。
下手っぴな剪定は、分かる人にしか分からないと思って繰り返されるのでしょう。
けれども、確実にその街の印象を悪くしています。実にもったいないです。

僕の長々としたコメントを、エレガントに剪定していただきありがとうございます。
さすが山崎さん。今度からはもっと推敲します・・・

投稿: ささき | 2010年5月 7日 (金) 22時40分

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