« (22.1.17) おゆみ野南小学校のマラソン教室 | トップページ | (22.1.19) おゆみ野の森の餅つき大会 »

(22.1.18) GDP神話の崩壊と「幸福度」の確立

2024_049

 GDPと生活の豊かさの間にはかなりのギャップがあることを私たちは経験的に知っている。
たとえば高度成長期といわれた1960年代より1980年代まで、経済成長率は10%前後で推移していたが、その時代がそれ以前の時代と比べても、また今と比べても特に幸せだったとの記憶がない。

 確かに就職は楽で給与は毎年上がっていたが、一方で朝から晩まで働いていたし、大気はよごれ騒音はすさまじく、なぜこれほどまでに働かなくてはならないかと自問したものだ。
遊びと言えばゴルフと決まっており、長期の休暇はほとんどとることができなかった。

 男性サラリーマンが海外旅行するのはほとんどが仕事関係で、女性社員がグアムに行って来た話を楽しげにしているのを聞いていただけだ。

2024_045

 GDPは一言でいって物の豊かさの指標だが、物が豊かになることだけが幸せと言うわけにはいかない。
物はあふれてしまえばおき場所に困り、金も時間的余裕がなければ使い道がない。

 GDPが極端に低い未開社会が必ずしも貧しいと思われず、一方日本にような豊かな社会のほうが不満が渦巻いている。
GDPがなんであれ、人の幸せとは関係ないようだ。

 日本は21世紀に入り、経済成長という意味ではほとんど停滞をする社会になっている。人間の成長と同じで時期が来れば経済成長は止まる。それでもGDP信仰は昔のままだ。
無理やり経済成長を図ろうと、赤字国債を増発し飛行機が飛ばない飛行場を作ったり、不必要な胆沢(いざわ)ダムを建設して政治資金をピンはねしている。

注)正確に言うと日本は1990年のバブル崩壊以降停滞期に入った。1990年代はリチャード・クー氏の言う「良い財政赤字」で無理やり経済規模を維持し、21世紀以降は低金利政策で円安誘導を行い輸出産業の振興で1~2%程度の経済成長を達成してきた。
前者で日本の財政規律は失われ、後者で浜矩子氏の言う「世界的バブルの引き金」になった。


2024_043

 経済政策はいまだにGDPを基準に策定されるが、実はGDPには技術的な欠点と本質的な欠点がある。

 技術的な欠点とは金に換算されない労働はGDPから外れると言うことで、家庭内の主婦(主夫)労働はお金のやり取りがないので含まれない。
またボランティアも同様で、私が行っている四季の道の清掃や小学生のマラソン教室は計測外だ。

 しかし実際は主婦労働もボランティアも重要な社会活動で、特に後者は成熟した社会ならばこその構成要素で、ボランティア活動が豊かな社会は安定したすみよい社会と言える。

 一方本質的な欠点は中国やアメリカに見られる欠点で、金儲けさえできれば(GDPさえ増加すれば)何をしてもかまわないと言う態度で、特に環境に対する配慮が皆無になることである。

 川には汚水を流しっぱなしにし、二酸化炭素の放出はすき放題だし、ゴミは山野にうずたかく放置される。
弱い動植物は死に絶えてしまうが、そんなことはお構いなしに利益の極大化GDPの極大化)だけに励み、恥じることがない。

 この環境経済学的には外部経済という)に対する無視は、そこに住んでいる人々にとって健康被害の元凶になるのだが、医療費が増加してかえってGDPは拡大したりする。
よかった。みんなが病気になってくれた」政策担当者は大喜びだ。

 だからGDPは強欲の指標だが、生活の真の豊かさ、幸福度の指標ではない
フランスではサルコジ大統領が音頭をとって、GDPに変わる幸福度を測る指標を作成しようとしている。
構成要素としては、物の豊かさの他に、① 医療サービス水準、② 休暇の日数、③ 平均期待寿命、④ 環境保全基準などを総合的に加えて、「幸福指数」を作成し、それを政策目標にしようとの提案だ。

 これは経済成長なき社会先進国はほとんどそうなっている)が無理やり経済成長をはかろうとするより、建設的な提案だ。
日本にはまだ十分な個人預金があるが、これを無駄な公共工事で使い切ってしまうより、国民の「幸福度向上」のために使用するほうがどんなに有効か計り知れない。

 豊かになった社会ではそれ以上物を増やしても何の意味もないのだから、「幸福指数」のような新たな政策目標を設定して、その向上を図るようにするのが政治と言うものだ。

 

 

 

 

 

 

 

|

« (22.1.17) おゆみ野南小学校のマラソン教室 | トップページ | (22.1.19) おゆみ野の森の餅つき大会 »

評論 日本の政治・経済」カテゴリの記事

コメント

GDPを豊かさの指標にするのは間違っていますよね。
日本は、もう「GDP成長」に拘る必要はないと思います。

GDP信仰と市場原理主義
http://surouninja.seesaa.net/article/141002907.html

投稿: スロウ忍 | 2010年2月13日 (土) 14時25分

アダム・スミスなどの古典経済学では土地を自然資本として、経済指標の一つに認めていたと聞きました。いつから、人は自然の経済価値を見失ったのでしょうか。環境を守る活動が経済活動としての適正な評価を受け、その対価が認められ、その対価で生活できる社会が実現することを切望します。

(山崎)古典経済学で言う土地とは農地です。一般的な意味での山河を意味する自然ではありません。そこから価値を生み出さないと思われていたため、自然は経済学の対象になっていなかったと思います。

投稿: TADA | 2010年1月18日 (月) 22時25分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« (22.1.17) おゆみ野南小学校のマラソン教室 | トップページ | (22.1.19) おゆみ野の森の餅つき大会 »