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(21.10.3) 鞆の浦(とものうら)の潮の流れは速い

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 いや驚いた。あまりに早い時代の流れについてである。
民主党政権ができて利用価値の無い公共事業を中止すると言っていたら、今度は裁判所が景観を重視しない公共工事は中止すべきだと言い出した。

 広島県福山市の鞆の浦(とものうら)に建設しようとしていた橋と埋め立て工事を「歴史・文化的景観が失われる」と広島地裁が工事差し止めの判決を言い渡した裁判のことである。
裁判所のほうが民主党政権の先に行ってしまった。
鞆の浦の潮の流れは速い。

 鞆の浦と言う場所は万葉の昔から和歌に詠まれているが、ここが瀬戸内海の潮の変わり目の場所だからである。当時の船は瀬戸内海の潮流に乗って鞆の浦まで来て、そこで潮が変わるのを待った。
たとえば大阪から九州に行く場合、紀伊水道からの上げ潮に乗って鞆の浦まで行き、そこで豊後水道への引き潮に乗って九州に向かった。

 大友旅人の歌にも歌われている。
わがもこが 見し鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人ぞなき
私のいとしい妻が往時には見た鞆の浦のむろの木は、長く命を保っているのに、この木を見た妻はもういない、悲しいことだ

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(画像はWikipediaより)

 しかし江戸時代まで海上交通の要衝だったこの場所も、時代の流れに取り残され1961年には1万3千人いた人口が、2009年には5千人約3分の1に減ってしまった。過疎の街になり、残されたのはほとんどが老人ばかりだ。

 街の道路は狭く、常に街の真ん中で渋滞が発生し、下水道も整備が遅れていたという。
このため渋滞を緩和する方法としてバイパス道路を建設することにしたが、問題はそれをどこに作るかということになった。
1983年のことで、今から約26年前である

 日本列島改造論を田中首相が唱えていたのはその10年前だが、80年代は日本があげてバブルに浮かれていた建設ラッシュの時代だ。
当時は景観などと言うものに対する配慮はまったく無く、かえって古いものをどんどん壊すことが近代化だと思われていた時代だ。

 計画は鞆の浦を埋め立て、海をまたいで橋をかける案になっていた。
海を跨いだ近代的な橋」当時の近代のイメージにぴったりだ。日本橋の上にかけられた首都高と同じだと思えばいい。

 一方、鞆の浦には江戸時代の港の特徴と言われる、階段状になった船着場の雁木(がんぎ)、常夜燈、波止、船の修理をしたたで場船番所が残っていた。古きよき時代の日本の原風景とも言える。

 その原風景を道路の拡張工事で約2割のたで場が壊されることになっていた。
古い江戸時代を取り壊して、鞆の浦を近代的な美しい街にしよう」当時はそう考えられていたはずだ。

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 それから26年経ち、時代が大きく急旋回した
日本のバブルの崩壊以降、公共工事はほとんどの物が無駄で、業者と献金を受ける政治家にとってだけ重要なものだと言うことが分かってしまった。
しかし自民党政権はそのシステムを改めることを躊躇したため、国民からそっぽを向かれ、無駄な公共工事を止めると公約した民主党政権に変わった。

 時代の意識が変わったと言ってもいいだろう。
古いものは壊すものではなく、守り育てるものであり、江戸時代の景観こそが財産と人々が思うようになったからだ。
海を埋め立てるなんてとんでもない。バイパスは海の上でなく山の中を通そう

 私はかつて旧中山道妻籠宿が、江戸時代の面影のまま残されていたことに感動したが、鞆の浦江戸時代の港がそのまま残されていることに人々が感動するようになった。
スタジオジブリ宮崎駿さんはこの港町で、「崖の上のポニョ」の構想を練ったそうだ。

 今回の裁判ほど画期的なものは無い。政治家と業者とコンサルタント会社と役所が結託して、不必要な橋や埋め立て工事をすることを差し止めた。
そしてそれが景観を守る瀬戸内法に抵触するとの判断がすばらしい。
裁判所は常に時代に遅れるものだと思っていたが、その考えを改めることにした。

 これでようやく日本も無駄に物を作る時代から、古いものを大切にする新しい時代に入ってきたようだ。
この時代をどのように呼べばいいのか知らないが、時代が確実に変わって来ていることだけは確かだ

 

 

 

 

 

 

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