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(21.7.31) ロドリゴ巡礼日誌 その14

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キリスト暦2009年7月2日

 ジャポンを発ってからはや2週間が経とうとしていました。巡礼の道にもなれ、またジットと称する巡礼宿の泊まり方も分かり、またどの程度の町や村であれば食料品店があるかも分かってきておりました。

 毎日朝6時半頃に出発し、毎日30kmから25km歩くことを日課にして、ただただ歩き続けていたのでございます。
前日のD2号線にこり、今日は巡礼道を歩くつもりでしたが、たちまちのうちに道が分からなくなり、やむなくセレ川に沿ったD41号線という国道を歩くことにしたのでございます。
しかし幸いなことにこのD41号線は交通量が非常に少なくD2号線とはまったく違って、とても歩きやすい道路でございました。

 特に周りの景色が素晴らしく、セレ川が削り取った断崖が100m程度の高さで延々と両岸に聳え立っていたのでございます。
ここは上高地といってもいいけど、周りが断崖絶壁だからちょっとしたグランドキャニオンだな」互いにうなずきあったものでした。

 家は昔ながらの農家と、都市住民の別荘地が点在し、セレ川に沿ってキャンプ場やカヌーの訓練所があり、一大避暑地の趣がありました。そうした意味では、上高地とグランドキャニオンと軽井沢をたして3で割ったような場所だったのでございます。

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  こうしてこの平坦な道を気持ちよく歩いていたのですが、他に問題が起こらなくなると再びムッシュ タムと食事のことで、ささいな精神的葛藤が始まってしまいました。

 この日はフランス国に来て初めて雨が降り、それもところによったら豪雨というような降り方でしたが、昼食時間になったので食事をしようと提案した時でございます。

私はパンしかない」とムッシュ タムが言い出しました。
パンがあれば十分ではないですか
いや、パンしかない

 ムッシュ タムが言いたいことはこうでした。
りんご、バナナ、野菜、それにコーヒーがなく、パンだけでは食事とはいえない

 ムッシュ タムは普段は申し分ない紳士ですが、食糧が不足してくると精神的に不安定になるようで、この状況にひどい焦燥感に駆られているようでした。

 幸いにしばらく行くと小さな村がありここに食料品店があったので果物やハムを仕入れることができたのでございます。
ムッシュ タムはとても満足したようでしたが、たまたま雨が本降りになったこともあり、雨宿りをかねて廃屋の農家の納屋で食事をしようと私が提案した時でございます。

 ムッシュ タム「フランス国まで来て、農家の廃屋の軒先でパンなどかじるのはいやだ」と申すのでございます。
十分な食糧が入手できたのだから(これは非常用として)、こんどは落ち着いてレストランで食事をしたいと言うのでざいました。

 私のようにパンとバターと水さえあれば十分な者から見れば、わざわざレストランで食事をする理由は理解できないのですが、ムッシュ タムにとっては食事は文化ですので廃屋などとんでもないということのようでした。
仕方なくここから約5km先にあるホテルで食事をすることにいたしました。

 それから1時間余り雨のD41号線を私は時速4kmで口もきかずに歩き、ムッシュ タムは時速3kmでこれもかってに歩いていたのでございます。
まったく、何処で何食べても、食事なんかどうでもいいじゃないか・・・・・・」

 しかしようやくたどり着いたホテルも食事時間が決まっており、我らが着いた時間には食事は終わっておりました。
やむなくムッシュ タムは買い込んだ非常食をこのホテルの前で食べることになったのですが、非常食がまたなくなるとアフリカの難民のように悩んでおりました。

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 それでもそこから1時間余りで宿泊地カブレレという小さな村に到着したのでございます。この村のインフォーメーションでジットの場所を聞き、私はいつものように洗濯とシャワーを浴びた後、この街の一軒の食料品店で夕食の食材を購入してジットで夕食を済ませたのでございます。

 一方ムッシュ タムはいつものように村を歩き回り、インフォーメーションのパンフレットをじっくり読み、食料品店でりんごやバナナやハムといった非常食を購入し、かつレストランでゆったりと食事をしてジットにもどって参りました。

 ムッシュ タムはレストランで食事ができたことから、精神的に安定感を取り戻したようで、「サラダたっぷりの食事を○○€でして来た」とひどく上機嫌になっておりました。

 こうして十分な非常食がなくなるたびに落ち込んでしまうムッシュ タムと、パンが少しでもあれば平気な私との食事に対する認識相違はどうしても埋めることができないのでございました。

  これがサンチャゴ巡礼フランス道の14日目の報告でございます。

写真を掲載いたします。
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(21.7.30) ロドリゴ巡礼日誌  その13

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キリスト暦2009年7月1日

 ムッシュ タムがすっかり疲れてしまい、巡礼道の山道をやめて国道の短縮路を通ることにしたのは前回のブログに記載いたしました。
しかしこの国道を通るのも大変だったのでございます。

 フィジャックから西に伸びる国道はD2といいますが、これはジャポンの表現では国道2号線にあたります。幹線道路で交通量が多く、しかも片側一車線で歩道はなく、50cm~1mの草地が歩道の代わりになっておりました。
こうした幹線道路は歩行者が歩いていることはめったになく、運転手はそのつもりで思いっきりスピードを出して運転していたのでございます。

 我ら2人は前から自動車が来るたびに草地(少し路面より高くなっておりました)に飛び上がり、自動車が通り過ぎると再び道路を歩くことを繰り返したのでございます。

ムッシュ タム、国道を歩くのも限界がありますよ。これでは命と引き換えのようなものです。死んではサン・ジェン・ピエル・ポーにつけません
うぅーん、こんなにひどいとは思わなかった

 この国道歩きはちょうどジャポンの例では首都高速の壁の縁を歩いているような状態でしたので、余りのすさまじさに耐えかねたのでした。
その後は国道を歩くとしても、交通量が非常に少ない場合だけにして、再び巡礼の道に戻ったのでございます。

 そして山の道を上り下りしたのですが、天気は快晴で太陽が照り返していたため、ムッシュ タムはへとへとにくたびれてしまいました。
ようやく山を下り、20km余り歩いてセレ川ロット川の支流で、周りは侵食されて絶壁になっておりました)に出た小さな村のところで、ムッシュ タムはダウンしてしまいました。
ロドリゴ、今日はここに泊まろう

 そこにはセレ川の縁に面して要塞修道院を兼ねたような建物が立っており、その一角がジット(巡礼宿になっていたのでございます。

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 マダムがこのジットを管理しており、「ここには食料品店はなく、また食事はジットで出せないが隣の家で食事をさせてくれる」と教えてくれました。
隣の家といってもこの要塞の一部で、どうやらレストランのようでしたが、ジャポンの感覚では住宅地によくある自宅の一部を開放して、趣味で食事を作る家によく似ておりました。

 見ると小さな看板があり、食事は6時からと書いてありましたのでその時間に出かけてみると、若いマダムが一人暇そうにベンチに腰掛けておりました。
テーブルや椅子には鳥の糞がこびりついており、どうみてもここ数週間、この場所で食事をした人がいるとは思われませんでした。

 若干怯んだのですが、ここしか食事ができる場所がないので注文すると「出来上がるのは7時半ごろになるので、その時間に来るように」言われました。
ほぼ1時間半ほど、この要塞か修道院か判別がつかない場所の散歩をしてからいってみたのですが、食事の用意をなかなかしてくれないのです。

マダム、私たちは食事をしたいのですがまだでしょうか」恐る恐るエゲレス語で聞いたものでございます。
ムッシュ、もう少しです」何か要領をえないのですが、用意はしているようでした。

 こうして何回か「食事をしてほしい」と懇願してようやく食事が出てきたのは8時で、食べ終わったのは9時でした。注文してから食事が終わるまでなんと3時間もかかったのでございます。
何か、時計が止まっているんじゃないか」さすがにムッシュ タムも驚いているようでした。

 救いは食事がまずまずだったのと、このマダムがとても若く、魅力的な目をしていたことでございます。我ら二人は神に仕える身ではございますが、「洗濯する女のふくらはぎの白さを見て、神通力を失った久米の仙人」と同じように、美しいマダムの所業はすべて許すことにしていたのでございます。

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 それにしてもこのセレ川流域は不思議な場所でございました。かつては貧しい農家と修道院だけがあった地帯に思えましたが、現在は裕福なパリの市民がリゾート地として農家を購入し、別荘に作りかえて住んでいるようでした。
ジャポンのイメージでは場所は上高地、雰囲気は軽井沢というような所でございました。
フランスにもこんな場所があるんだ」互いにつぶやいたものでございます。

 これがサンチャゴ巡礼フランス道の13日目の報告でございます。

写真を掲載します。
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(21.7.29) 麻生首相の舌禍と民主党政権の行方

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 私がサンチャゴ巡礼フランス道の旅をしている間に、政権の行方はほぼ決まってしまったようだ。自民党の退潮は避けられず、民主党政権の誕生がカウントダウンになった。

 このような状況下でも麻生首相の舌禍はおさまる事を知らず、25日の日本青年会議所での挨拶で「元気な高齢者をいかに使うか、この人たちは皆さんと違って働くことしか才能がないと思ってください」と言ってしまった。

 麻生首相の本音は「高齢者にも働いてもらって、活力ある長寿社会を作ろう」ということで、日本では長寿者が働かなければ社会が持たないことは確実なのだから、まったく正しい認識なのだが、その表現は小学生並だ。

 このため首相の街頭演説を自民党首脳はできるだけさせないように配慮し始めた。
同じく25日には自民党宮城県連の政経セミナーでの講演をしているが、ここは仙台市長選の真っ盛りだったのに、自民党候補を擁立していないため応援演説もできない(そのために仙台に行かせたようだ)。
麻生には何もしゃべらすな。しゃべるたびに自民党は議席が減

 26日は日曜日で民主党の鳩山代表は東奔西走していたのに、麻生首相は行くところがなく、仕方なく集中豪雨被害の出ている山口県防府市に視察に行くことにしていた。
しかし山口県知事から「2次災害も懸念されるので視察を取りやめて欲しい」とやんわりと断られ視察にまで出られなくなってしまった。

 応援演説も駄目、視察も駄目で麻生首相は完全に干されている。
自民党の党首が「何もしないのがベスト」と思われているのだから、選挙前から自民党の大敗は確実だ。

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 一方民主党の鼻息はますます荒くなってきた。選挙に向けてのマニフェストが公表されたが、目玉は子供手当ての創設と、公務員人件費の削減だという。

 子供手当ては一人当たり月額2万6000円の子供手当てを創出する代わりに、扶養控除、配偶者控除を見直すという。
従来は老人福祉に政策の重点が置かれていたが、それを子供福祉に重点を移そうというもので、このまま行けば日本は老人ばかりの社会になってしまうので、出生率の向上を図ろうということのようだ。

 麻生首相は子供を増やすことを諦め、老人を働かせようと提案しているが、どうやら鳩山代表は子供を増やすことは可能と考えているようだ。

 公務員人件費の削減は、昨年までは3年間で2割以上削減するといっていたが、今回のマニフェストでは期限を切ることを止めた
天下り反対との整合性を取ったものだが、天下りを中止させれば公務員は定年まで勤めることになるのだから、削減は容易ではないだろう(実際は天下りは公務員定員の隠れ蓑で、定員が削られるとその分天下り先の人員が増えていた。公務員だって生活がかかっているので、おいそれと馘首されるわけにはいかない)。

 日米同盟については前小沢代表の国連主義をすっかり取り下げ、日米同盟重視に移っている。日米地位協定の抜本的な改定をするには、そもそも日米安保条約そのものを見直さなくてはならないのだから、そこまで踏み込む腹はないだろう。
野党だから気安く日米同盟反対を唱えていたが、政権をとったら世界に味方がアメリカだけで、日本が他に頼るべき国がないことが身にしむはずだ。

 インド洋の給油にも反対していたが、こちらも反対を取りやめている。
麻生首相に「そういうのをブレというのだ」と皮肉られているが、日米関係が最重要な関係なのはアメリカでなく日本なのだから、政権をとれば現実路線になるのはどこも同じだ。

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こうした現実路線転換を民主党の岡田幹事長は「鳩山首相とオバマ大統領との信頼関係を築くのが重要だから」と説明したが、「鳩山首相」という言葉には驚いた。
すでに政権移譲がおこなわれたような表現だが、各政党もマスコミも世論も、アメリカを含めた外国も民主党政権の誕生を確実なものとして対応を検討し始めたことだけは確かだ。

 民主党は外交問題で現実路線をとり始めた。後は財源問題でどこまで現実路線が取れるかが課題になる。
国民福祉の向上には金がかかる。増税か国債の増発か、はたまたその両者か。
日本の将来は民主党の現実路線の成否にかかってきたようだ。

 

 

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(21.7.28) ちはら台走友会の飯豊山登山

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  ちはら台走友会では毎年、春と夏に登山をすることになっているが、今年の夏は東北の名山、2105mの飯豊山(いいでさん)だった。福島県、山形県、新潟県にまたがる飯豊山系のなかの主峰の一つで、古くから信仰の山として崇められてきた。

 深田久弥によれば「文禄4年、時の領主蒲生氏郷が信仰して、登山路を開き、社殿を修め、それ以後この山が大いに栄えた」そうだから、今から約400年前に信仰登山が始まったことになる。

 従来ちはら台走友会では槍ヶ岳剣岳のようなアルペン的な登山を好んでおこなって来たが、今回は女性的で秀麗なこの山に登山をすることにした。
その理由は「もう、きつい山は止めて、楽しい登山をしようじゃないか」という意見が多かったからである。
走友会のメンバーは走ることは長けていても、必ずしも全員が登山好きというわけではない。

 走友会の登山のパターンは決まっていて、金曜の夜に出発して日曜の夜遅く帰宅する、2泊3日(うち車中一泊)の登山なのだが、これはメンバーのほとんどが現役で仕事を持っている為の配慮である。

 走友会は酒豪が多く、車中では大いに盛り上がり、特に2年前の槍ヶ岳登山の時は眠ることができなかったが、最近は私が酒を飲まず早寝であることを配慮してくれる。
今回はチャーターしたマイクロバスの一番前に席を設けてくれた。ありがたいことだが、車中では熟睡というわけにはいかない。

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 今回の登山は弥平四郎口から三国岳を経由して切合小屋で一泊し、翌朝飯豊山に登山をして、飯豊鉱泉のある川入口へ下山する計画になっていた。全員で15名の参加である。

 夜の11時に出発して、順調にいけば弥平四郎口に朝の6時ごろには到着する予定だったが、朝の5時ごろから運転手さんが盛んに地図を確認し始めた(なぜかナビゲータを動かすことをしなかった)。
そして運転席の横に座っている私に聞いたのだ。
このルートでいいはずですよね

 急に眠気が覚めてしまい、私は運転手さんが持っていた地図と首っ引きになってしまった。
弥平四郎口はどう行けばいいんだ」すっかりナビゲータにさせられてしまった。
それでも1時間程度遅れて弥平四郎口に到着できた時は実にほっとし、運転手さんとともに到着を喜んだものだ。

 飯豊山への登山道は何本かあるが、後でこの弥平四郎口からの登山路が最も容易であることを知った。他の登山道は相当に厳しく、特に帰りに通った川入口からの登山道は道が雨水で大きくえぐられ、大小の段差の連続で「ここから登るのはさぞきつかろう」と誰もが思うような登山道だった。

 登山のリーダーOさんはベテランの登山家だが、全員が十分な登山経験があるわけでない。Oさんから事前に持ち物の連絡がされており、「できる限り荷物は軽くすること」という注意がされていたが、酒豪仲間は「酒は必需品」となっている。
一人でウィスキーや焼酎を何本も持参している人がいた。
私はいつものように軽装に徹していて、寝袋を含めても7KG程度でいたって軽かったが、多くの男性が10kgを越えていた。

 実は登山において最も重要な技術は、この荷重をどこまで減らせるかにかかっている。必要最低限の持ち物にするのだが、これは経験がものを言う。
特に登山暦の少ない人は、いざという場合を想定してあれやこれや詰め込み、その結果重い荷物を持つことになって登山を楽しめない。

 私はいつものように、雨具で防寒衣を兼用し、水は途中の水場で確保できるので1Lとし、食糧は3食分だが小食なので多くなく、羽毛の寝袋も最も軽いものにした。
全体で7KG程度なので、いたって軽快だがこれで十分なのである。

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 飯豊山系は過去に一度登山仲間のタムさんと縦走したことがある。そのときは3泊4日かかったが、千葉から登山口に到着するまでまる1日かかったからである。
この山はアクセスに時間がかかり、今回のようにマイクロバスをチャーターしないと、とても効率よい登山はできない。

 しかし飯豊山は相変わらず草花が美しかった。険しい山ではないが奥深さを感じさせる山だ。
途中で足をくじいた人もいて全員が登頂したわけではなかったが、十分山行を楽しめた。
最近は登山といえばちはら台走友会の登山だが、仲間達のおかげで登山を継続できることは嬉しい限りだ。

 今回の写真は飯豊山の花が中心です。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/21726?authkey=Gv1sRgCNa2upeJrbCgXA#

 

 

 

 

 

 

 

 

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(21.7.27) ロドリゴ巡礼日誌 その12

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キリスト暦2009年6月30日

 中央高地を約1週間かけて横断した後は、川の道になっておりました。川の名前はロット川といいましたが、そのロット川に沿って町や村が建設されていたのでございます。

 この町や村には当然教会があり、巡礼者はその教会を一つ一つ訪ねながら巡礼の旅を続けるのでした。
しかしこの川の道は実は大変な道だったのでございます。

 中央高地の場合はほぼ一直線に西南西に道が続いておりましたが、川の道は川の蛇行にあわせて右や左に蛇行し、しかも巡礼道は川に沿うのではなく、教会から教会へ山越えをさせられるのでございます。

 ジャポンでもそうですが、古道は昔より山の道で、それは川沿いに道を作ると大雨で道が寸断され、また橋を作る技術がつたなかったため橋をつくれないか、あるいは作ってもしばしば橋が流されてしまったためでございます。
それに比べますと山の尾根道は崩壊することが少なく、上り下りの苦労を別にすれば実に安全な道だったのでございます。

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 しかしムッシュ タムにとってこの山道の連続は身体に対する負荷が相当なものになっているようでした。特に中央高地を降りてから気温が急激にあがったことや、ほぼ2週間にわたって晴天が続いたことが体力の消耗に拍車をかけているようでした。

ロドリゴ、何とか山道を歩かない方法はないものだろうか
国道を行けばいいけれど、巡礼道を外れますよ

 国道は川に沿って走っておりますので、距離は若干長くなりましたが平坦で、歩く負荷は山道の比ではありませんでした。我ら2人は毎日30km歩くことにしていたのですが、ムッシュ タムの疲労は山道に耐えられなくなっているようでした。

 こうして我ら2人はムッシュ タムの提案を入れて山道を避け国道を歩むようにしたのですが、この道の欠点は距離が長くなることでした。ムッシュ タムはそれにも耐えられないようでした。
ロドリゴ、何とか距離を短縮できないだろうか
ムッシュ タムの提案はA→B→C→Dと教会をたどるところをA→Dとたどって距離の短縮を図ろうというものでした。

いくらなんでも神様がお許しくださらないのではないでしょうか
いや、ロドリゴ。神のご意思は私がサン・ジェン・ピエル・ポーまで行き着くことなのだ。もし行けなかったりしたら神がどんなに嘆きかなしまれることだろう。だから途中の手段は問わないのだ。歩いていることには変りがないのだからね

 ムッシュ タムは総研の主任研究員だっただけあって、理屈付けがとても上手でございました。私はいささか後ろめたさがありましたが、ムッシュ タムを何とかサン・ジェン・ピエル・ポーまでたどり着かせるのが私の役目でも有りましたので、短縮路をとることに同意したのでございます。
主よ、主は短縮路を許すほど融通無碍なのでございましょうか

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 こうして30kmの距離を25kmに短縮しながら、この地方では非常に大きな町、フィジャックに到着したのでございます。
フィジャックロット川に沿って建設された町でしたが、ここは観光地らしく川を渡る橋のたもとでジャポネの一行に会いました。

 このジャポネの一行は10名程度でしたが男は2名で後は中年以上の女性の集団でございました。
このジャポネの一行は私たちが巡礼の旅をしていることに大いに驚き、記念写真を所望されたりしてなにかちょっとした有名人になったような気分でございました。

 これがサンチャゴ巡礼フランス道の12日目の報告でございます。

写真を掲載します。
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(21.7.26) ロドリゴ巡礼日誌 その11

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キリスト暦2009年6月29日

 この巡礼の旅で私が最も悩んだのは物価高でございました。しばらく前まで170円前後だったユーロが130円前後まで円高になりましたので、「これなら安く旅行ができそうだ」と喜び勇んでいたのですが、大変な間違いだと気がつきました。

 たとえばジャポンでまったく同じ製品が売られている缶入りコカコーラ1.1€~2.0€(140円~260円もするのでございます。
ジャポンでは自動販売機で120円、私が好んで買い物をするジャスコでは80円前後で売られているコカコーラが、でござます。

 実は物価高公的価格鉄道運賃、地下鉄運賃等は政府によって低く抑えられているようでした)を除く、消費財一般に及んでおり、ちょっとしたパンを買っても4€(500円前後)とられ、また単三の乾電池2本が6€(約800円)するのには目を剥いてしまいました。
ジャスコで買えば10本は買えるじゃないか

 こうした物価高の要因はいくつかありそうで、ここ南フランスの田舎ではそもそも商店がほとんどないのでございます。少し大きな村では食料品店がありますが、そこ1軒だけということが多く、まったく競争のない地域独占商店なのでございました。
購入者も主として巡礼の旅をしている旅行者で一見客ですから、ジャポンでもよくある観光地の高価格になっておりました。

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 私は当初、この高価格は田舎だけだと思っておりましたが、その後パリで数日間過ごして高価格は田舎だけでなく、それほどひどくはないものの、やはり高価格であることを知りました。
たとえばパリで世界各地共通のマクドナルドのビッグマックのセットが6~7€(780円~910円)しておりました。

 何を購入してもジャポンの感覚では1€=100円程度の価値しかなく、決して130円の価値はなかったのでございます。
この原因は日本政府の低金利政策で円が安く抑えられているからで、異国の地に来て初めて財務省と日銀の円安誘導策を身をもって体験させられてしまった訳でございます。

 またジャポンによくあるスーパーやコンビニや量販店を見かけることは非常に少なく、何かジャポンで流通革命が起こる以前の古きよき時代のジャポンそっくりでございました。

 そのためフランスの田舎において、円安と観光地価格と流通革命前夜のトリプルパンチを食らって四苦八苦したわけでございます。
ロドリゴジャポンの枢機卿舛添師から僅かな年金をいただいている身なので、ひとしおこの高物価が響いたのでございます。

 しかしムッシュ タムは神の僕(しもべ)としてはまれに蓄財の才があり、資金的に余裕がありましたので、好んでレストランで食事をしておりました。
「私はフランスのレストランがどのようなものか知りたいのだ」が口癖で、心からフランス国の食事を楽しんでいる風でございました。

 一方私ロドリゴは元々小食なせいもありますが、かかる高物価を想定していなかったため金銭的な面でも切迫してまいりました。
そのため途中からムッシュ タムのレストラン通いには付き合わず、もっぱら食料品店で買い入れたパンにバターと若干の果物とコカコーラで自炊をしていたのでございます。

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 ムッシュ タムはレストランから帰って来ると、嬉しそうにレストランでの食事のメニューを私に話し、何かとても幸せな雰囲気でしたが、食事嫌いの私にとってはかなりわずらわしいことでございました。

 こうして食事を文化としてとらえるムッシュ タムと燃料補給に過ぎないと思っている私とのあいだの食事に対する対応がひどく離れてきたのでございます。

 これがサンチャゴ巡礼フランス道の11日目の報告でございます。

写真を掲載いたします。
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(21.7.25) ロドリゴ巡礼日誌 その10

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キリスト暦2009年6月28日


 コンクという村をご存知でしょうか。世界遺産に登録されている聖地の一つで、ここのサント・フォア教会は3世紀の末、迫害に屈せず斬首されて殉教した聖少女フォアに捧げられた教会だそうでございます。

 この教会がル・ピュイの巡礼道の中で特に聖地の一つになったのは11~12世紀のことで、現在残っているロマネスク様式の教会の神々しさと扉の上部に彫られた「最後の審判」の彫刻(タンパンと言います)を一目拝もうと、巡礼者が必ず訪れるようになったからでございます。

 この村は谷の急斜面に建設された人口300人程度の村ですが、サント・フォア教会ロマネスク様式の傑作といわれており、南フランス観光の一つの目玉になっているらしく、我ら二人がこの村に到着した時にも多くの観光客がバスを連ねてやってきておりました。

 その中に何とジャポンからの観光ツアー客もおり、このツアーは「世界遺産をスケッチして回るツアー」だそうでございます。
40歳ぐらいの男性ツアーガイドに話をうかがったのですが、「イヤー、ジャポンは金持ちだ。何やかや言われても、こうして集団でスケッチ旅行ができるんだから・・・・。おかげでこっちは商売になるんですがね」といたって正直な感想を述べておりました。

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 我ら2人はこのコンクで宿泊することにし、インフォーメーションで公共ジットを紹介してもらいましたが、あとでドイツ人ピーターに聞くと「ここの教会ジットはとても評判がよく、巡礼者は教会ジットに泊まりたがる」のだそうでした。
そういえば公共ジットは我ら二人しか宿泊者がおらず、このジットを管理していたマダムがとても暇そうなのが印象的でございました。

 私が感心したのは11~12世紀、コンクの修道僧がこの地を聖都にするため聖女フォアの聖遺物を懸命に集め、それを巡礼者に開放していたことでございます。
今風の言葉で言えば営業努力を惜しまなかったということで、おかげで巡礼者が必ず訪れ、それに応じて寄進も多く集まるようになり、現在に残るサント・フォア教会が建設される基になりました。
教会の入口の門の上に飾られたタンパンと称する「最後の晩餐」を描いた彫刻はこの時代の最高傑作のひとつといわれております。

 私はいつものようにジットに着くとすぐ、着ていた衣類を洗濯し、シャワーを浴びて休んでいたのですが、ムッシュ タムはこれもいつものようにコンクの村を歩き回っておりました。

 ムッシュ タムは私と同じ金融機関に勤めていたのですが、この金融機関の総合研究所の主任研究員を長く努めていたことから、新規なものに対する好奇心が強く、ありとあらゆる資料集めに奔走するのでございました。
フランス国の夏は夜は10時ごろまで明るいのですが、その間ムッシュ タムは村を歩き回り、写真を撮り、レストランでたっぷり食事をしておりました。

 一方私ロドリゴは、肉体的鍛錬を日課としていた関係で体のケヤを第一に考え、シャワーで汚れを落とした後は、もっぱらストレッチをおこなって明日に備え、7時ごろには寝て体力の温存を図るのが常なのでございました。

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 こうした生活習慣の差は、普段はまったく問題がないのでございますが、一緒に巡礼の旅を続けますと、どうしても体力差となって現れるのでございます。
私はますます快調に歩けるようになり、一方ムッシュ タムには疲労が蓄積されて、歩みがだんだんと遅くなっていくのでございました。
昼間1~2時間昼寝をすれば、いくらでも歩ける」休むこともなく歩き続ける私に対し、これがムッシュ タムの口癖になっていったのでございます。

 これがサンチャゴ巡礼フランス道の10日目の報告でございます。

写真を掲載します。
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(21.7.24) ロドリゴ巡礼日誌 その9

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  キリスト暦2009年6月27日

 フランス国においては町や村が競争で「もっとも美しい町、村」を競っているようでございました。セバスチャンの話では毎年コンテストがあり、エントリーした町や村を審査員が巡回して審査を行い、「今年はこの町(村)が一番だ」というように決定するようでした。

 そうした町や村は住民がこぞって窓や庭を花で飾り、また街並みの保存をおこなうので、確かにとても美しい景観が演出されるのでございます。
セント・コム・ドルト(このように発音していいのか分かりません)もそうした町のひとつで、街中に入ったときムッシュ タムと二人で感嘆の声をあげたものでございます。
確かに美しい町だ・・・・・・・・・・

 ジャポンでもこのようなコンテストをおこなえば、地方の町や村が活性化することは間違いないのですが、ジャポネの性格からどこか一つの町や村が「ジャポンで最も美しい町」などと認定されると、周りの町からねたまれることは間違いなさそうです。
何であの町が一番なんだ。町長の働きかけが悪いんじゃねえか

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 この日泊まったところはエスティング(発音はかなり怪しいです)という町でしたが、このときはセバスチャンと別れた後で、たまたま町に入る橋を渡ったところで、ドイツ人ピーターに会いました。
ようやく中央高地を降り、川の道に入った頃で、この町もロット川の川沿いに建設されておりました。

 ピーターはすでにかなり前に到着し、教会ジットに宿泊を決めていたので「よければ私が泊まっているジットに宿泊しないか」と誘ってくれました。大きな町になりますとジットの場所を探すのが大変で、かなりうろうろしますので喜んでピーターの誘いに乗ったのです。

 教会ジットは前にも記しましたように、巡礼宿の最も古い形態を残しており、宿泊料は寄進者の懐具合に応じて自由であり、我々はピーターに教えてもらって20€寄進することにしました。これは個人ジット約3分の2程度の価格に相当いたします。

 そのかわり教会ジットでは巡礼者は食事の後片付けとミサへの参加が義務付けられているようでした。
こうしたしきたりを最初は知らなかったのですが、夕食が済んだ後、この教会の執事のような方がスケジュールの説明をしたのでございます。

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 私の前には若いとても声の美しいマダムが座っていたのですが、このマダムが親切に執事のフランス語を私にエゲレス語に通訳してくれたのでございます。

 私はマダムの言葉に従い食事の後片付けを行い、さらに「後、5分でミサが始まります」というマダムの言葉で祈祷室に集まりました。その部屋には20名程度の人々が集まっておりましたが、ムッシュ タムにはマダムの言葉を通訳しなかったので、そのまま街の散策に出かけてしまったようでした。

 フランス語とエゲレス語で書かれた祈祷書が渡され、牧師の奥様と見られる人が第一節を読むと、他の信者が第2節を読むというようにミサは始まったのですが、途中で全員で賛美歌を歌い、また奥様が祈祷書を読むという形式でございました。

 私はフランスの言葉を解さないため、どこが読まれているのか分からず、ただ祈祷書を持ってアーメンだけを言っていましたところ、このマダムが指で読まれている箇所を指し示してくださいました。

 マダムは私が当惑しているとその都度、その箇所を指で教えてくださるので、私としては精一杯努力し、このフランス語をエゲレス語の読み方で懸命に読み、賛美歌はアーメンだけを大きな声をだし、その場の雰囲気が壊れないようひたすら神に祈っていたのでございます。

 最後に黙祷の儀式があり、終わった人から適当にこの祈祷室から出て行くのですが、私は出るタイミングが分からず人数が真ん中あたりで祈祷所を出ることにいたしました。
黙祷ではなく人数を数えていたわけでございます。

 時間にして約30分ぐらいでしたが、ジャポンの生活のしきたりにすっかりひたってしまい、ミサより座禅が得意のわが身には、このミサの時間は何か永遠に続く煉獄の時間のように思えたものでございます。

 その結果、街の散策から帰って来たムッシュ タムに「教会ジットはミサへの参加が大変だから、今後は避けた方が良い」などと神の僕(しもべ)とは思われない言葉を吐いてしまいました。

 これがサンチャゴ巡礼フランス道の9日目の報告でございます。

写真を掲載します。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/lwRYmJ?authkey=Gv1sRgCOWSyeWl3dbkNQ#

 

 

 

 

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(21.7.23) [六通神社が再建された」 および「A君のお父さんからの手紙」

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 六通神社が倒壊したのは2007年9月の台風によってだから、それから早2年が経過したことになる。
六通神社がいつ創建されたのかは正確には不明だそうだが、江戸時代の新田開発に携わった農民が、それを記念して創建したというのが言い伝えになっている。

 倒壊する前の六通神社は鬱蒼とした樹木が茂り、とても静かな雰囲気のいい神社だった。それだけに社殿が倒れてきた木の下敷きになって倒壊し、周りの大木も切り払われた時、とてもさびしい気持ちがしたものだ。

 あれから2年、嬉しいことに六通神社が再建された。千葉日報によると「約40世帯の氏子と住民が協力、約6千万円をかけて再建した」のだそうだ。昨年11月に着工して、この7月19日に落成式を行なった。
私は落成式を見に行ったが、氏子で知り合いのSさんがとても嬉しそうにしていたのが印象的だ。

 参道も整備され、狛犬も社殿を守っており、昔の面影が復活した。いつかまた鬱蒼とした森になり、静かな趣のある神社になってくれるだろう。
おゆみ野の住民の一人として喜びたいと思う。


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(別件) 息子さんが暴行に会われたお父さんからの最後の手紙

20.6.14にお子さんが暴行に会われたお父さんから継続的にこのブログでお父さんの気持ちを報告していただいておりましたが、本件をもって最終にいたしたいとのメールをいただきました。
最終稿をそのまま掲載いたします


 山崎さん、お帰りなさい。フランスからの無事の帰還、何よりです。巡礼日記を楽しみに拝読しています。巡礼者としての日々の心象スケッチを時に微笑み、時にはらはらと心配しながら読み進んでいます。残りの旅程のスケッチを楽しみにしています。

 さて本日は、息子の治療が経過観察を終えたことをお知らせします。この5月には、事件で破折し接合した下顎前歯の1本がたこ焼きを食していた最中に欠け、接合のやり直しを行うトラブルがありました。

 それでも、6月15日の診察で経過観察終了の判断が下りました。今後は、加療部分に不具合が生じた場合のみに病院に行くことになります。
また、この経過も踏まえ本事件に係わるほとんどの処置に区切りをつけました。
山崎さんはじめ、多くの方々のご支援により区切りを迎えることができました。実に多くの方々に出会い、支えていただいた1年でした。山崎さんのブログをお借りして心より、お礼申し上げます。ありがとうございました。

 誠に勝手ながら、私の報告も今回で区切りといたします。息子の事件を通じて私自身が背負ってしまった違和感、それは簡単に消えるものではありません。

同様の事件が無くならない以上、被害者家族としての不満、不安に黙する気持にはなれません。被害者とその家族は、なぜこんな傷を受けねばならなかったのか。その怒りと、加害者もまた自分の姿であり得たこと。怒りだけでは同じ被害は無くならない事への苛立ち。加害者を思いやる気持ち。実に多様で複雑でやっかいなものを背負ってしまったことに気付きました。

 同じような被害に遭われた方々の想いの傍らに居たい。この地域が同じ過ちを繰り返さないための取り組みを続けます。
但し、「Aの父親」として山崎さんのブログをお借りする事は、一先ず終わりといたします。何らかの形で、私も気持を整理する必要があると感じました。

 最後に、重ねて山崎さんから賜ったご支援に心よりお礼申し上げ、筆を置きます。巡礼の旅の疲れを癒し、夏本番に備えてください。また、お会いすることを心待ちにしております。では、また。
                                                         Aの父親

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(21.7.22) ロドリゴ巡礼日誌 その8

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キリスト暦2009年6月26日

 当初、このフランスの巡礼道を歩もうとして一番心配だったのは、「はたして巡礼道が今も残っているだろうか」ということでございました。
ムッシュ タムの話ではイスパニアのサンチャゴ巡礼道貝のマークが道を指し示し、また巡礼者も多く、村人に聞けばすぐに巡礼道を指し示してくれる等まったく問題はないのでございますが、フランス道についてはそうした情報がなかったからでございます

 実際にこのサンチャゴ巡礼フランス道を歩くジャポネ年間に10名程度のようで、イスパニアの巡礼道が毎年数千人の規模なのに比較するとまったく知られていない古道といってよいようなものでございました。

 しかしこうした心配は結論から言えばまったく杞憂だったのでございます。フランス国においては、ジャポンの東海自然歩道のような遊歩道が整備されており、この巡礼の古道もそうした遊歩道として整備されておりました。

21_274  このル・ピュイから始まるサンチャゴ巡礼フランス道GR65というのですが、GRは自然遊歩道位の意味で(正確な訳ではございません)、そうした自然遊歩道がフランス国では番号順に何本も整備されておりました(後でインターネットでGR65と検索すると、この巡礼道の情報が掲載されておりました)。
道はほとんどジャポンの自然遊歩道と同じで、違うことといえば道をほぼ直線に作っているため、上り下りが大変きついことぐらいでした。


21_258  こうした自然遊歩道を歩くための雑誌(旅行案内書)はフランス国では本屋で簡単に入手できますが、残念ながらジャポンでは入手することがとても困難でございます。
しかしジャポンにおいてもサンチャゴ巡礼協会(正式名は忘れました)なるものが組織され、そこでサンチャゴ巡礼をしようとしている人を対象に、事前勉強会がおこなわれておりました。

 ムッシュ タムはとても用心深い性格なので、こうした勉強会に積極的に参加し、そこで先人が巡礼をしたときに使用した「Miam Miam Dodo(ミアム ミアム ドゥドゥ)」(「食べる食べる、泊まる泊まる」ぐらいの意味だったと思います)という旅行案内書のコピーを入手してきたのでございます。

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 そして実際に巡礼を始めますと、この旅行案内書が絶大な効果を発揮いたしました。上記に示すようにここにはGR65のルートと距離、および宿泊場所が記載されており、この案内書と実際のルートに書かれている国旗模様の印を確認してさえすれば、750kmに及ぶ巡礼道を間違いなくたどることができるのでございました。

なんだ、思ったより簡単じゃないかムッシュ タムとそう語り合ったものでございます。

 なおこうした案内書はすべてフランス国の言葉で書かれており、最初は何が何だか分からなかったのですが、絵文字もあって巡礼を重ねるに従って絵文字の意味も実体を伴って理解できるようになったものでございます。

 また旅をしてみますと、この巡礼道はジャポネが旅することが少ない道だったため、巡礼宿やこの巡礼道をボランティアでサポートしている団体の人から「ここに来たジャポネの最初だ」とよく言われたものでございます。

これがサンチャゴ巡礼フランス道の8日目の報告でございます。

写真を掲載いたします。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/nFhZrE?authkey=Gv1sRgCJnP843Ki8iFcw#


 

 

 

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(21.7.21) ロドリゴ巡礼日誌 その7

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キリスト暦2009年6月25日

 今回の巡礼中に泊まった巡礼宿で、もっとも愉快だったのはパオの巡礼宿でございます。パオとは蒙古高原に住んでおります遊牧民族のテントのことで、それがここフランス国の中央高地の高原にあったのには笑ってしまいました。
パオの中には10以上のベットが円形状に並べられておりました。

 そこは10数軒の集落で、この巡礼宿は自宅を一部改修し食堂とシャワーとトイレを併設し、寝室についてはパオというとてもユニークなジット(巡礼宿)だったのでございます。
家の周りにはとても美しい花が咲き誇り、まったく申し分がなかったのですが、唯一の欠点はハエが異常に多かったことでございます。

 夕食は外のベランダでしたのでございますが、夕食のパンがハエでごま塩のようになってしまったのには閉口いたしました。

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 一般に巡礼者が好んで宿泊する宿は、大きな町か村の巡礼宿で、そこには店があって食糧を入手しやすいためなのでございます。
そのためこうした10軒程度の小さな集落を飛ばしていくのですが、このときは距離と時間の関係からこのジットに泊まることにいたしました。

 ここはかなり年配の夫婦が経営していたのですが、信じられないことに10才前後少女シェパードが住んでおりました。
この少女と老夫婦の関係は分かりませんが、ここ中央高地では人と会うことがほとんどなく、会っても老人と相場が決まっておりましたので、この少女の存在には驚いてしまいました。

 このような寒村では少女には見たところシェパード以外の友達はいそうもなく、この犬が唯一の友達のようでした。
周りは一面の牧草地でまさに蒙古高原のようなところでしたが、少女は自転車で一周1km程度の周回路を髪をなびかせて走り、その後をシェパード追いかけておりました。
なにかアルプスの少女ハイジのような光景でした。

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 このジットにはムッシュ タム、セバスチャン、私の3名の他に、途中からよく一緒になったドイツ人 ピーターが宿泊しておりました。
ピーターはドイツ人らしい大柄な体躯と、とても親切な気持ち持った巡礼者で、年齢は55歳程度、はるばるドイツの南部の街からイスパニアのサンチャゴまで2ヶ月に渡る巡礼の旅をしている途中でございました。

 ピーターはドイツの自動車メーカーアウディに勤務していたようですが、そこを辞めて(自主的に退職したのか馘首されたのかは分かりません)、自由な時間が取れたので2ヶ月の巡礼の旅をしているのだと言っておりました。
ドイツ語の他にエゲレス語、フランス語を自由に話し、言葉上の問題はまったくないようでございました。

 ピーターに限らず今回巡礼の旅をしている間に会った人の中には、会社を辞めるか辞めさせられ、自由な時間ができたのでその間巡礼をしている人が多いのには驚かされました。
最初に巡礼道の矢印の意味を教えてくれたフランセ ステファン、その後シャンブルというジットより高級な宿泊施設で会ったフランセの集団もそうした人々でした。

 なにかここ巡礼道にも不況の影がさしているようでしたが、ジャポネのように無職であることを後ろめたく思っているような気持ちはまったくなく、かえって自由な時間が取れたことを喜んでいる風情でございました。

 これがサンチャゴ巡礼フランス道の7日目の報告でございます。

写真を掲載します。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/NByZDB?authkey=Gv1sRgCI7a3aSFooHgNA#

 

 

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(21.7.20) トムラウシは魔性の山

Image0_3     (一番奥のとんがった山がトムラウシ山

*現在ロドリゴ巡礼日誌を掲載中ですが、本件を先に掲載します

 大雪山系で、私と同年齢の60歳代の人を中心とする10名に及ぶ大量遭難死亡事故については、驚きと共にそうしたことがあって不思議がないという気持ちを強くした。

 実は私自身も今回遭難者9名を出したトムラウシ山(他の1名の遭難者は美瑛岳で同様の経験をしているからである。
私が同僚のタムさんと大雪山系の縦走をしたのは2000年の夏だから気象条件的にはまったく同じ頃といえる。

 今回8名の遭難者を出したパーティーとはちょうど反対のルートをたどって美瑛岳からトムラウシ山の稜線南沼キャンプ指定地でキャンプを張った。
南沼はとても水のきれいな直径70~80m程度の沼で、二人で沼に入って身体を洗ったり泳いだものである。

 その日は快晴でこうして沼で泳ぐことができたのに、翌日の早朝から天候は大荒れになってしまった。横殴りの雨がテントに吹きつけ、雨で視界がさえぎられわれわれ二人は風の音がするたびにテントを押さえなければならなかったほどだ。

 とても歩けるような状態でなく、今回の遭難者の話しにあるような、気温10度程度、風速20m以上、体感温度マイナス5度以下という状況だった。
こりゃ、動くのは無理だ。ここで天候の回復を待とう

 私たちは動くことを断念し、ここに逗留することにしたのだが翌日も暴風雨は収まらず、2日間テントの中で寝ていた。さすがに3日目になるとあせってきた。
これ以上いても、天候は回復しない。思い切って動こう

 暴風雨のなかでテントをたたみ、タムさんは時間の関係でトムラウシ山からトムラウシ温泉に下山し、私は大雪山系の主峰旭岳にむかって縦走を開始した。
ちょうど今回遭難した8名と反対方向に動き始めたことになる。

 このとき私は大変不思議な経験をしている。暴風雨が荒れ狂っていたのはトムラウシ周辺だけであり、トムラウシを離れるに従って信じられないほど風雨が収まったのである。
トムラウシ山を見上げるとそこだけが雲がかかり、雲が恐ろしいスピードで流れていた。
なんだ、荒れていたのはトムラウシだけか・・・・
今回遭難者が泊まっていたヒサゴ沼分岐あたりまで来ると、風はかなり弱まっていたのを覚えている。

Image01_2    今回の集団登山の遭難者18名(うち8名死亡)はトムラウシから2時間程度の距離にあるヒサゴ沼避難小屋からトムラウシに向かって出発したのだが、客観的には無謀だったとしかいいようがない。
ヒサゴ沼周辺の気象条件より、トムラウシ山周辺の気象条件は比較にならないほど厳しく、嵐に向かって進んで行ったようなものだ。

 アイヌ語で「花の多い山」という意味のトムラウシは、一方で魔性の山といってよく、一旦荒れ始めると手がつけられない。
私たちはまったく動くことができず停滞し、2日間寝ていたため体力的には温存されていたが、私はトムラウシの下降路のロックガーデンでは岩にへばりつきながら歩いていた。
そうしないと身体が飛ばされそうだったからだが、持っていたマットがリュックから外れて1秒程度の間に30m程度飛ばされたのには驚いた。

 しかしトムラウシ山を離れるに従って風も雨も穏やかになる。今回の遭難者は私とは反対にその魔性の山が牙を剥いているトムラウシに向かって行動したのだから遭難するのは当然だ。

 実際はヒサゴ沼からの避難路は化雲岳から天人峡温泉に降りるルートか、トムラウシ山を経由してトムラウシ温泉に降りるルートしかない。どちらも同じくらいの時間がかかるが、今回のパーティーはおそらくトムラウシ温泉に宿の手配がしてあったために無理をしたのだと思う。

 トムラウシ山魔性の山だ。普段はとてもおとなしいが一旦牙を剥くと手がつけられない。それもトムラウシに近づけば近づくほど牙を剥く。
そうしたことを今回のツアーを企画したガイドが知らなかったか、知っていても計画上無理をしたのか分からないが、いずれにしてもトムラウシ山を侮ったことだけは確かだ。

 

 

 

 

 

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(21.1.19) ロドリゴ巡礼日誌 その6

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キリスト暦2009年6月24日

 巡礼の旅を上手に達成する方法に、荷物をできるだけ軽くすることがございます。長期間、しかも山中を歩くことが多いのですから、登山と同様に軽装備であればあるほど楽なのは言うまでもございません。
もちろんそうしたことはムッシュ タムも私も十分心得ているのですが、実際仕度をしてみるとまったく異なった結果になったのは驚きでございました。

 私ロドリゴは過去に何度も長長距離の修行をおこなってまいりました。特にトランスエゾという蝦夷地1100km2週間かけて走り通す修行では、荷物を背中に背負って走るのでございますが、当初持っていた取り切りカメラ3個、トレーナー、懐中電灯、そして最後はパンツを含むすべての下着を捨てて、走ったものでした。
走るために邪魔になるものすべてを捨てたのでございます。

 こうした経験から今回必要な装備を最低限に絞り、昼の食糧と水を含めても5kg程度の重さしか有りませんでした。

 一方ムッシュ タムは日常的に登山をおこなっているのですが、年齢が71歳と無理が聞かない年齢になっておりかつ歩く速度が遅いことから、いつ遭難してもおかしくないと恐れているようでした。
このためビバーク用装備一式と非常食、水2日分、および昼間の食事を用意し、装備は約10kg程度になっておりました。

 ムッシュ タムは加齢により衰えた体力でさらに多くの荷物を背負ったため、坂道にさしかかるごとに私との差は軽装備の自動車と荷物をたっぷり積んだトラックの状態になってしまいました。

 当初は私はより遅く、ムッシュ タムはより早く歩くようにして何とか速度をあわしていたのですが、そうした努力も日がたつにつれてどうにもならない差に開いていったのでございます。

 さすがに私はムッシュ タムに「非常用の水、500mlは不要ですよ」といってみましたが、ムッシュ タムは昔、子供と乗鞍の登山をしたとき水をすべて飲まれてしまい、死ぬような苦しみをした経験談を話し、「だから水はどうしても必要なのだ」と決して捨てようとはしませんでした。

 もちろんムッシュ タムも巡礼の数日の経験からビバーク用装備は必要ないと悟り、トレーナーや羽毛の上着やマット等は捨てていましたが、最後まで遭難用の食糧と水は捨てようとしませんでした。
ムッシュ タムにとって食糧は命と同じ重みがあるようでした。

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 こうして私とムッシュ タムの歩く速度は加速度的に開いていったのですが、フランス青年セバスチャンがいる間はさして問題は有りませんでした。
セバスチャンはこの旅を約1週間かけておこなっており、キャンプ道具一式を背負いキャンプをしながら旅をしていましたので、荷重が15kg以上あり、歩く速度がムッシュ タムとほとんど同じだったからでございます。

 私が先行して待っていると、ムッシュ タムセバスチャンが追いつくという具合で、そうした旅を4日間繰り返したのでございます。

 セバスチャン26歳の青年で、システム関係の仕事をしているようでしたが、彼のエゲレス語は中学1年並であり、一方私のエゲレス語も決して褒められたレベルではありませんので、とうとう具体的な仕事の内容を理解することはできませんでした。

 またこれは巡礼の旅をしている間中感じたのですが、フランセはとてもジャポネにフレンドリーであり、押し付けがましいことがなく、セバスチャンなどははにかみながら話したりして、なにかジャポネとそっくりな風情でございました。
フランセはジャポネとそっくりだな」とムッシュ タムと話したものでございます。

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 こうして歩く速力に相違はありましたが、我ら3名はそれぞれの楽しみを持ちながら、この中央高地の旅をしていたのでございます。

 これがサンチャゴ巡礼フランス道の6日目の報告でございます。

写真を掲載します。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/wfWntK?authkey=Gv1sRgCP2ypdaamb2kqgE#

 

 

 

 

 


 

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(21.7.18) ロドリゴ巡礼日誌 その5

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キリスト暦2009年6月23日

 フランス国の巡礼の道を歩いてみてつくづく感じたのは、フランス国とはとても不思議な国だと言う印象でございます。
特別に印象深かったのは、この国の国土がとてつもなく広く、そして人が少ないことでございました。

 フランス国本土の面積はジャポンの約1.4倍、人口は約半分ですので、これだけ見ると人口密度はジャポンの約3分の1になりますが、フランス国は国土の大半が平野と高原であるのに対し、ジャポンでは国土の70%が森林に覆われていることにあります。

 このため実質的な人口密度はジャポンの10分の1程度になり、さらに人々が北部のパリ周辺と地中海沿岸の避暑地に集中して住んでいるため、フランス国の真ん中はがらがらに空いているのでございます。

 特に今回我ら二人が歩いている中央高地はフランス国でも極度に人口の少ない地域でございました。
たまたま巡礼道2日目から同行することになったフランス青年セバスチャンによりますと「パリのフランセにとっても、ここ中央高地は異郷の地」なのだそうでございます。

 ここ中央高地にもだいたい5kmおき位に村落はあるのですが、たいがいが10軒内外の集落で、自給自足の生活をしていると見えて店がほとんどないのです。
店がある村落はかなり大きな人口1000人程度はいると思われる村落に限られ、それも朝と夕方の数時間しか店が開かず、当然土曜・日曜はお休みになりますので旅をしながら物を買うことが極端に難しいのでございました。
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 我ら2人は当初ジャポンのイメージでコンビニがいたるところにあると思っておりましたが、大変な間違いでございました。
このことがムッシュ タムを異常に神経質にさせてしまったのでございます。
買えるときに買いだめをし、食べれる時に食べなければ餓死しそうだ・・・・・・・

 実はムッシュ タムはジャポンでは朝食を1時間かけて食する食通で、常にサラダと果物とジュースを欠かさず、また日常的にお米を中心とした食事を腹いっぱい取っておりました。
三度の食事は絶対で、コーヒーブレイクも必要としておりました。

 しかしこの地においてはそうした条件を満たすのがはなはな難しかったのでございます。
ジットでの朝食はコーヒーとフランスパンにバターをつけて食べるだけであり、夕食はそれに肉類がつく程度で、とてもムッシュ タムの食欲を満足させるようなものではございませんでした。

 このためたまたま商店が空いていると、バナナとりんごとハム、それにパン類をたっぷり買い込み、またところどころにある巡礼者を対象にしたレストランがあると必ず立ち寄り、サラダを中心とする食事を美味しそうに食べていたのでございます。

 一方私ロドリゴは何年にもわたる修行の過程で、身体を動かしている間はほとんど食べ物を食べない訓練をしておりました。そのため常に小食であり、商店においてもパンを少しだけ入手すれば十分で、はっきり言えば行動中は食べることが負担だったのでございます。

 このムッシュ タムの大食と私の小食が他の場所であればまったく問題がないのですが、ここフランス国の中央高地では大きな問題になってしまいました。
ムッシュ タムは数少ないレストランを見つけるたびに地獄で仏に会ったように喜び「ロドリゴ 寄って行こう。私はフランスのレストランがどういうものか知りたいのだ」と申すのでございました。
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 当初私もムッシュ タムの要望にできるだけ答えるべく、レストランでの食事を同伴したのですが、元々小食の身に過重な食事をしてしまったため、たちまち胃腸を壊してしまいました。
その後はムッシュ タムが「レストランによろう」と言うたびに、胃が切り切りと痛んだのでございます。

 小さな町にはさすがにレストランがあるのですが、私はそれを無視して通り過ぎようとし、一方ムッシュ タムは何とかレストランに立ち寄ろうと、互いに精神的葛藤を繰り返すのでございました。

 妥協点はムッシュ タムがサラダを中心とする食事を食べている間、私はコーヒーだけを飲むことなのですが、フランス国では事前にサラダの用意はしておらず、注文が有って初めて食材を切り刻んだりするため、1時間程度はかかるのでございました。

 こうして「こんな食事をする時間があったら先に進んだほうがいいのではないか」と思う食事嫌いの私と、「食べなければ動けなくなるのだから、時間を無視してもサラダを食べる」と強い決心をしているムッシュ タムとの精神的せめぎあいがその後も続いたのでございます。

 これがサンチャゴ巡礼フランス道の5日目の報告でございます。

写真を掲載します。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/FZqmGL?authkey=Gv1sRgCKXG5cugs5Nd#

 

 

 

 

 

 

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(21.7.17)  文学入門 高田宏 「森のことば 木のことば」

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現在ロドリゴ巡礼日誌を掲載中ですが、15日に読書会がありましたのでその記事を掲載いたします) 

 今回の読書会のテーマ本は、この読書会の主催者河村義人さんが選んだ高田宏氏の「森のことば 木のことば」という本だった。
私はいつものように高田宏氏もこの本も知らなかったが、1978年に「言葉の海へ」と言う作品で大仏次郎賞および亀井勝一郎賞を受賞し、その後文筆業に専念するようになった人だと言う。

 河村さんの説明によると河村さんと高田氏は文学的感性がとても似ており、好きな文学者がほとんど重なっていることから、今回高田宏氏の本を取り上げたのだと言う。

 しかし読み始めの当初はかなり読みずらい本だった。

 その理由は第1章木のことば」で作者が作成した詩が出てくるのだが、なぜそのような詩が読まれるかの背景が分からなかったからである。
木のことば」と題されたこの詩は氏が勤めていた女子大の学長を退任する時に学生達に贈った詩と反歌だが、氏の木や森に対する思い入れや思想を知らないものにとっては、単なる甘いメランコリックな詩にすぎない。
つまらない詩を贈る人だ」というのが私の第一印象だった。

 第2章の「生存運」は、木や草は生存競争をして最後に残っていくのではなく「生存運」があって残っていくのだ、という主張だが「生存競争」という概念よりも一般化するとはとても思われない主張で、「まあ、そういう見方もあってもいいのじゃないかな」程度の感度だった。

 第3章森の歌」では友人の合唱指導者のコンサートのために合唱曲を作ったのだが、そのための長詩が掲載されている。これもどう読んでも人に感動を与えるような詩ではない。

 第4章八ヶ岳山麓の森で」でようやく氏の生活スタイルが分かるのだが、この八ヶ岳山荘で歌った四季の俳句14句をソネ形式(集めると一つの詩になる形式)で掲載しているが、掲載して人に読ませるような詩とはとても思われなかった。

 ここまで読んで「この本を読むのは時間の無駄ではないか」と思ったが、私はテーマ本は必ず最後まで読むことにしているので、読み続けることにした。

 実はこの本は第8章大きな木に会う」あたりから作者の真骨頂が現れる。
恵那山の中腹、標高約1300mの傾斜地で巨大なヒノキが見つかり、それを発見者の案内で見に行くという話である。この木は後に林野庁の「森の巨人たち・巨木100選」に氏が命名した「神坂大檜みさかおおひ)」として登録されたという。
氏の巨木に対する愛情と情念がようやく読者に伝わってくる文章だ。

 第9章縄文杉の下で」はとてもいい。縄文杉を見るのは2~3時間ちょっと見るのではなく根元で一夜明かしながら見るのが一番で、案内者と酒を酌み交わしながら縄文杉の下で一夜をすごす話だ。
案内者は縄文杉にひかれて屋久島に移り住んだ山尾三省さんという人で、屋久杉を歌った「聖老人」という詩集がある。これを作者が一部引用しているが、屋久杉に対する愛情が素直に分かる、実にいい詩だ。

 第10章木の音・森の音」で記載された「大きな木にはふつうの木にない神性が宿る」という感性は確かに日本人一般に太古より残っている感性といえる。私自身も神社仏閣に残っている大木を見上げると、確かにこの木は他の木と異なった何かがあるに違いないと思うことがある。
氏は「木にも森にも自然の音があり、耳を澄ませばその音がはっきりと聞こえるが人工林では聞くことができない」という。確かにそのとおりで人工林では単調な音しか聞こえない。
私もよく登山をして一人でテント生活をしている時、森の音に耳を澄ましたものだ。

 第12章木を植えた人」は特にいい。フランス人、ジャン・ジオノが書いた「木を植えた人」の紹介がされているがプロバンスの荒れ果てた高地を一人で植林し続けたブフィエという人の話だ。
私自身最近この地方の山岳地帯を巡礼の旅で歩いているので知っているが、山頂はすべて放牧地となって草原であり、森は川の傾斜地にしか残っていない。アメリカのプレーリーと同じような景色がどこまでも続いている。

 この原因は太古の昔から放牧のために森林を伐採し続けたからで、一方放牧を止めた後も草原のままに残されているからだと思う。ブフィエはこの荒れ果てた草原を自分ひとりで木の実をまいて森林に育て上げた人で、それを作者が暖かく見守ると言う話だ。

 高田なおさんの「ノアの住む国」の話もいい。最終戦争で崩壊した地球を離れてたどり着いたのがこの星で、ここもまったく木一本ない不毛の地で、どんなに努力しても植物が成長できないのだという。

 老人は次々に死んでいくのですが、そのときに老人の死体に地球からたまたま子供が持って来たどんぐりの木の実を握らせて埋葬します。
するとどんぐりはその老人を栄養分として初めて成長し始め、木になり、それを見たほかの老人達も埋葬される時に木の実を必ず手に握って埋葬してくれと言います。

 こうしてこの不毛の地が緑豊かな豊穣の地に変わっていくという話です。

 それ以外にも別子銅山の山を蘇らせた話も掲載されていて、このような営みをする人に対する共感が良く伝わってくる。
さらにアメリカで簡素な暮らしの中で心を養う精神文化の伝統を築いたヘンリー・デビッド・ソローの紹介があり、こうした森や木を愛した人の生活の紹介は実に的確と言える。
その中で紹介されているソローの詩や、若山牧水の短歌、タゴールの詩もいい。

 私は考え込んでしまった。第三者の評価、詩の紹介をこれだけ適切におこなう高田宏氏が、なぜ自分の詩や俳句になると盲目になり、愚にもつかない作品を最初の数章を使用してわざわざ紹介するのだろうか。

 しかしまあ、一冊の本には良いところもそうでないところもあるのが普通だ。
その中で良質な面を受け入れればいいのだから、この本は第8章から読み始めて、氏の木と森に対する優れた感性を学ぶのがいいと私は思う。

重要)なお、高田宏氏の「木の言葉 森の言葉」について、レポーターの河村義人さんが詳細なレポートを作成しており、とても参考になるので、以下のURLをクリックして参照されることを薦めます
http://yamazakijirou1.cocolog-nifty.com/shiryou/2009/07/21717-b71a.html

 

 

 

 

 

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(21.7.16) ロドリゴ巡礼日誌 その4

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キリスト暦2009年6月22日

 巡礼者の行動パターンは一日約25km~30km歩いたあと巡礼宿に泊まり、また早朝に出発することを繰り返すのですが、この巡礼宿は大きく分けて3種類あることが分かりました。

 巡礼宿はフランス国の言葉でGite(ジット)ともうし、教会付属のジット、個人経営のジット、公共ジットの3種類がございました。

 教会付属のジットはもっとも古くからあった形式のようで、かつて巡礼者はこうした教会に寝泊りしながら巡礼を続けていたものと思われます。
共同の寝室と共同のシャワー、トイレがあるのはどのジットでも同じですが、教会ジットの最大の特色は宿泊料は個人の献金に任せられていたことでございます。

 貧しいものは教会の慈悲で宿泊させてもらい、富める者はその資産におうじて献金をすれば良いことになっておりました。
しかしこうした教会の慈悲に報いるために巡礼者は教会のミサに出席することと、食事の後片付けが必須になっておりました。

21_126_2    個人経営のジットは巡礼者が多くなるにつれて、教会ジットで泊まれなくなった人を収容したのが始まりのようですが、個人の住宅を一部改造して巡礼宿にしたもののようです。
朝食と夕食を用意するところが多く、ジャポンの木賃宿といった雰囲気でございました。

 公共ジットはジャポンのおけるユースホステルのような制度で、フランス国が国民の福利厚生の一環として整備しているらしく、最近建てられた公共ジットはとても清潔な感じでしたが、ここでは食事は提供されず、自炊の設備が完備しておりました。

 宿泊料は個人ジットも公共ジット11€(ユーロ)~14€(1500円~1800円)程度で、これに個人ジットで朝食と夕食を依頼しますと15€程度が加わり、全部で25€~30€(3000円~4000円)になりました。
一方教会ジットではわれわれは20€献金(朝食と夕食を食べさせていただいた場合)しましたが、これは途中で友達になったドイツ人、ピーターから教えていただいた相場でございます。
しかしいづれも料金はジャポンを旅する場合に比較してかなり安価に旅ができるシステムが整っておりました。

 巡礼者は自分の好みに合わせてこうしたジットを選択して旅を続けるのですが、我ら二人の個人的な好みから言うと、公共ジットが最もしっくり来たのですが、その理由はおいおい説明することにいたします。

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我らが出発したル・ピュイルートは、最初中央高地と呼ばれる1000m程度の高地を約200km程度歩むことになっておりました。
フランス国はほぼ平坦な平野が続いているのですが、ここ南フランスの中央高地のみ高原地帯になっておりました。

 道はほぼ直線にル・ピュイからサン・ジェン・ピエル・ポーに向かって西南西に向かって伸びており、よほどの山道でなければ迂回をしないタフな道になっておりました。

 これは古道の作り方一般の法則らしく、かつて私ロドリゴ旧中仙道や山口の萩往還道を修行のために走っておりましたときにも感じた道路の作り方でございます。
古代においては私有権というような面倒なものがなかったことと、直線に道を通すのがもっとも簡単な建設方式だったせいと思われます。
しかしこの道を実際歩いて見ますと、この直線道の上り下りには近代人は音を上げてしまうのが普通です。

 我ら2人も山の上り下りに遭遇するたびに、思わずため息をつき、「さあ、もう一度がんばろう」と声を掛け合ったものでございます。
一見平坦に見える高原地帯も実に多くの上り下りがあり、ジャポンのちょっとした山岳登山のような雰囲気でございました。

 しかし当初は精神的な高揚もあり、こうした坂道をなんなくこなしていたのですが、時間が経つにつれ疲労がたまっていったのはいたし方ないことでございます。
ムッシュ タムが「1週間もすれば身体が慣れてくるはずだ」と申しており、「それまでは・・・・」とひたすら草原の道を歩み続けたものの、老齢の身に疲労感が襲い始めておりました。

 これがサンチャゴ巡礼フランス道の4日目の報告でございます。

4日目の写真を掲載いたします。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/jDbVaC?authkey=Gv1sRgCLKNjrLwmrPKNQ#

 

 

 

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(21.7.15) ロドリゴ巡礼日誌 その3

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キリスト暦2009年6月21日

 ここル・ピュイサンチャゴ巡礼の出発地の一つになったのは10世紀のことだと聞きましたので、ほぼ1000年の歴史があることになります。
その理由は世界遺産にもなっているノートル・ダム・ル・ピュイ大聖堂が神々しくも存在し、この大聖堂の中には「黒いマリア像」が祭られていることから、マリア信仰の中心地となったからでもあります。

 私ロドリゴは神に仕える身ながら「黒いマリア像」についてまったく知識はありませんでしたが、ここ南フランスを中心に黒いマリア像は多数存在し、おそらくこれは先住民のケルト人の土着信仰と融合したためでないかと言われております。

 正統派のキリスト教では黒は不吉な色で、白が神聖な色ですので確かにそうとでも考えなければとても納得できそうにありません。

 我ら二人はこのル・ピュイ大聖堂において祝福を受け、巡礼手帳を交付していただいて巡礼に出発することにしておりました。
巡礼手帳とは確かに巡礼をおこなったことを証明する大変重要な手帳で、宿泊した巡礼宿、教会でその地特有の判を押していただき、同時に日付を記載していただくものでございます。

 早朝、ル・ピュイ大聖堂に参りましたが時間が早かったのかまだ巡礼者は集まっておりませんでした。一番前の席に座って待っていたところ、しばらくして神父様が現れ、朝のミサが始まったのでございます。
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 そのときにはかなり多数の巡礼者が集まっておりましたが、神父様がフランス国の言葉で祝福の言葉を話され、また賛美歌を歌われました。巡礼者もそれに合わせて、和しまた賛美歌を歌うのですが、そのたびに立ったり座ったりしなければなりません。

 ムッシュ タムも私もこうしたフランス国におけるミサの儀式は初めてであり、言葉が分からぬ我らにとって神父様の言葉は鳥のさえずりであり、賛美歌は川のせせらぎでしたので、ただひたすら我ら二人が理解できる主を称える「アーメン」だけ声を出し、後はただ口をパクパクさせていただけでございました。

 困ったのは一番前の席に座っていた関係で立ったり座ったりするタイミングが分からず、回りをキョロキョロ見渡さなくてはならなかったことでございます。
あとからムッシュ タムに「ロドリゴは勇気がある。よく先頭の席に座れるものだ」と言われましたが、そもそもフランス国におけるミサがどのようなものか知らず、先頭の席にいればそれがよく分かると思ったからで、よもや自身も参加することになろうとは知らなかったからでございます。

 ミサではパンの儀式もおこなわれイエス・キリストの肉体の象徴と言われるパン(実際は薄いおせんべいのようなもの)を割って、われら巡礼者に一人一人神父様が祝福をしてくださいました。
しかし私はこのパンの破片をどのように扱ってよいか分からず、ポケットにしまったところ、巡礼者から「おぉー」という驚きの声があがってしまいました。

 神父様は静かに私に近寄り、身振りで「それは口にいれて食べるものです」と教えてくださりましたので、深く神に謝しながら食しました。
神に仕える身ながら、ながらくジャポネに住んでいたため、こうした儀式をすべて忘れてしまった自身を恥じたものでございます。

 こうしてル・ピュイの街を出発することにしたのですが、地図を確認しながら歩いていたにもかかわらず、さっそく道を間違ってしまいました。
後から大きな声がして青年が手招きしています。
この青年はステファンというフランス人でとても親切な人でしたが、巡礼道の歩き方を教えてくださいました。

 青年によると「巡礼道には目印があって、白と赤の国旗模様がル・ピュイからの巡礼道の印で、道を曲がる場合はその下に白い印で方向を示している」と英語で教えてくれました。
見ると確かに白と赤の国旗模様が電信柱や家の壁や柱にかかれておりました。
しかもこの国旗模様は100mおきぐらいについていましたので、確かにこれさえ見失わなければ確実に巡礼道をたどれることが分かりました。

ロドリゴ、これなら道を間違うことはなさそうだなムッシュ タムが嬉しそうに言ったものでございます。

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 巡礼道は牧草地の間をほぼ直線にたどっており、我々二人はこうした道を一日30kmの距離を歩くことにしておりました。
初日はこの牧草地帯が実に生き生きした印象でしたが、実はこうした景色が際限なく続き、日を重ねるにしたがって「またこれかよ」とうんざりするほど続いていたのでございます。

 これがサンチャゴ巡礼フランス道の3日目の報告でございます。

写真を掲載いたします。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/GuCEmD?authkey=Gv1sRgCMW_9IyDzv7X5QE#

 

 

 

 

 

 

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(21.7.14) ロドリゴ巡礼日誌 その2

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キリスト暦2009年6月20日

 ドーベルマンにはお尻を食われそうになったし、すでに4時を過ぎていましたので空港に隣接しているはずのTGVの乗り場に行くことにいたしました。しかしいくら探してもTGVの乗り場はなくSNCFという看板しかないのでございます。
なぜ、TGVの乗り場がなくSNCFなんだ」途方にくれてしまいました。

 フランス国のパリまではどうにかたどり着いたものの、これから巡礼のスタート地点ル・ピュイまでまだ約600km行かなくてははなりません。
そのためにはTGVに乗る必要があるのですが、どこを探してもTGVが見当たらないのです。

 途方にくれて探し回っていたら、たまたまジャポネと思われる一行がいましたので聞いてみました。異国の地でジャポネに会うと神に仏でございます。
その人はフランスに何回も来ているドクトルだそうで、その人によると「フランス国では特にTGVとTGV以外との区別はなく、切符はすべてSNCF(フランス国有鉄道)の窓口で一括して取り扱い、特にTGV専用の窓口はない」とのことでした。

 私はフランス国もジャポンと同様に新幹線窓口があり、また新幹線の改札口が有り、線路も別系列とばかり思っていましたので、これは驚きでした。
どうやらフランス国ではTGVは高速で走る車両程度の感覚で、ジャポンにおける別系列の高速列車という意味はないようでした。

 ドクトル一行はすべての手配をジャポネで済ませているらしく、朝一番のTGVで南のリゾート地、アビィニヨンモンペリエに行くといっておりました。
朝一番のエール・フランスでついて、これからTGVですよ

 しかしドクトルのおかげでTGVの切符の購入の仕方が分かったので、リヨン経由ル・ピュイまでの切符をSNCFの窓口に並んで入手することにしました。
ムッシュ タムが、「老人割引があるはずだから確認してくれ」と言いますので確認してみましたが、当日券ではそのようなものはないとのことでした。

 チケットが入手でき、これで私は完璧にル・ピュイまで行き着くと安心したのですが、今思えばここに信じがたい悪魔の罠が潜んでいたのでございす。
私どもは順調にリヨンまで行き、ここでル・ピュイまでの電車に乗り換える予定で、一旦リヨン駅で降り、2時間余り時間に余裕があったのでリヨンの街を散策したのです。
リヨンの街は18世紀の面影を残す大変美しい街でとても満足いたしました。

 そして乗り換え時間に来た列車に乗って、落ち着いて調べものをしていたら、ムッシュ タムが「ロドリゴ、乗客が全員降りちゃった」というのでございます。
見渡すと残っているのは我ら二人で、一体どうして全員降りてしまったのか理由が皆目分かりませんでした。
この駅はどこで、なんで全員降りたのだ」パニックになってしまいました。

 フランス国の言葉はまったく理解できないため人に聞くこともできず、駅中を走り回ってようやく駅員の制服を着ている人を見つけ出し、チケットを見せ、ただただ「ル・ピュイ、ル・ピュイ」と叫んでしまいました。
駅員はフランス国の言葉を理解できない二人に、ホーム番号と時間を記載して、手振りでそこに行けと指示するのです。

 我ら二人は理由が分からないままにそのホームに行き、来た電車になぜこの電車に乗るのか分からないままに乗り込んだのです。
ロドリゴ、一体どうなっているんだ
さあ、まったく分からないのです」何とも不安な気持ちでした。

 冷静になって地図をながめてようやく理解したことは、実はリヨンとついた駅はいくつかあり、ジャポンでも千葉、本千葉、西千葉、東千葉の駅があるのと同じで、このうち乗換駅は街の中心のリヨン駅ではなかったようなのです。

 我らはそれを知らず街の中心のリヨン駅で降り、その後来た電車に乗りこれでル・ピュイまで直通でいけるとすっかり思っておりました。

 乗客が全員降りたリヨン○○駅実際の乗換駅だったのですが、しばらく自分達の置かれている立場がまったく理解できませんでした。
理由が分かった後「何も知らない我々をこのような手段でだますとは、悪魔の仕業に違いない」とムッシュ タムと語り合ったものでございます。

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 こうしてリヨン○○駅を約2時間遅れで出発し、さらに途中のサンテチエンヌという駅でも2時間待たされ(この街は非常に美しい街でした)、ル・ピュイに到着したのは予定の4時間遅れになっておりました。

 フランス国の最初はドーベルマンに追い立てられ、今日は乗換駅を間違え、この先どうなるのだろうかと暗澹たる思いに駆られたものでございます。
ロドリゴ 巡礼の旅は大丈夫だろうか
ムッシュ タムの不安は私の不安でもありました。

 その日は街のインツーリストを訪ね、巡礼宿を依頼しまったく複雑怪奇な中世の道路地図を渡されてその巡礼宿についたのは6時ごろになっておりました。
しかし朝の4時ごろから悪戦苦闘したものの、こうして巡礼の出発地点ル・ピュイまでたどり着いたことを深く神に感謝して、ようやく安息の眠りについたのです。

 これがサンチャゴ巡礼フランス道の二日目の報告です。

二日目の写真を掲載します
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/jWEpcB?authkey=Gv1sRgCO3uxL2nqqewnQE#

  

 

 


 

 

 

 

 

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(21.7.13) ロドリゴ巡礼日誌 その1

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キリスト暦2009年6月19日

 神の僕(しもべ)、ムッシュ タムと私ロドリゴサンチャゴ巡礼フランス道750kmの巡礼の旅に旅立ったのは、キリスト暦6月19日のことでございました。

 巡礼道はフランスの南部の片田舎の町ル・ピュイから、我が母国イスパニアと国境を接するフランスの町サン・ジェン・ピエル・ポーまでの750kmに渡る巡礼道で、ここを過ぎるとイスパニアのサンチャゴ巡礼道につながっているのでございます。

 ムッシュ タムは過去において、イスパニアのサンチャゴ巡礼道を走破した経験があり、今回は何としてもフランス道を走破して、ル・ピュイからの約1500km余りを歩き通したことにしたいと申しておりました。

 私ロドリゴはそうした経験も無く、また修行の身でもあり、ジャポンを離れることに大いに躊躇がありましたが、すべて神の御心と得心して参加することにしたのでございます。

 ジャポンからフランス国パリまではオロシャ国アエロフロート機を利用したのでございますが、このアエロフロート機は世界各地に路線を持っているメガ・キャリアであるにもかかわらず、料金がとても安いと評判の会社でございます。

 安さの理由は、過去においてオロシャ国自慢のツポレフとかイリューシンとかいった機種がしばしば地獄の炎に包まれて墜落したからで、現在はボーイングとかエアバスとかいった最新の機種に代わっており、それほど危険ではないのですが、過去の評判は如何ともしがたいというのが実情でございます。

 しかし我ら二人はジャポンの枢機卿舛添師からの僅かな年金と、おゆみ野の得心の信者からの寄進により神への勤めをしている身のため、喜んでこのアエロフロート往復約10万円のチケットを入手して、旅立ちをしたのでございます。

 このアエロフロート・モスクワ経由便は乗継を含め約16時間かかりましたが、乗ることの無いエア・フランスの直通便だと約13時間だそうでございます。

 我ら二人は若さからは程遠く、ムッシュ タム71歳、私は62歳でこのような長旅は身体にかかる負荷が大きく、喉がカラカラになってしまったのですが、神の御心をた称えんが為と思えば、そうした苦痛もむしろ喜びになったのでございます。

 しかしこの安価なエアロフロート便を使用すると、実は二つの大きな問題があり、これを乗り越えなければなりません。
一つはモスクワのシュレメチェボ空港の意図的に遅いトランジットのチェックと、もう一つはパリのシャルル・ドゴール空港への到着が夜半になり、当日の宿の確保ができないことであります。

 モスクワのシュレメチェボ空港は悪魔でも寄り付かないと言う監獄のような空港で、かつてはオロシャ国に侵入を図ろうとする西側のスパイを、KGBという秘密警察が摘発する場所だったのでございます。

 そのため、入国審査は厳密を極め、明かりは監獄を模して徹底的に薄暗く、かつ入国審査を2~3箇所程度に絞って、足の先から帽子までチェックを怠らないと言う時間を無視した審査をおこなっておりました。

 私どもはオロシャ国に入国するわけでもなく、たんなる通過客なのですが、そのトランジットの客に対しても同様の荷物検査をおこなうので、しばしば乗継時間が過ぎてしまうのではないかとイライラするのでございます。

 しかし今回は神のご加護により、日本人の担当者が「パリへ乗り継ぎの方はこちらのゲートでチェックします」と言ってあっさりとパスポートとチケットのチェックだけで通してくれました。
モスクワにジャポンの入国担当者がいることも信じられなければ、またトランスファーが他の空港並に簡単だったのは驚きですが、これはどうやら特別の措置のようでした。

 こうしてモスクワに約3時間止まったあと、機体が悪魔のような唸り声をあげて横揺れするアエロフロート機で、成田の約3倍はあると思われる近代的なシャルル・ドゴール空港に到着したのでございます。

 シャルル・ドゴール空港には現地時間の午後10時頃到着したのですが、フランス国における宿はなく、いつものように空港の片隅で夜を過ごすことにいたしました。

 明かりがほとんどないロビーの一角の、数人の先客がいる場所で寝ることにしたのですが、そこはこの空港をねぐらにしている浮浪者のたまり場だったようで、時間が経過するにつれて、カートに荷物をいっぱい積み上げた浮浪者が集まり始め、なにやら時間を無視して議論をしているのでございます。

 私もムッシュ タムもフランス国の言葉を解さないため詳細は分かりませんが、「フランス国枢機卿サルコジ師の浮浪者に対する扱いが余りに冷たく、必ずや地獄の業火に焼かれるであろう」というような話ではないかとかってに想像していたのであります。

 しかしこの場所は夜が深まるにつれて騒々しくなったので、より明るく明らかに旅行者と思われる人々が休んでいる場所にネグラを移し、インフォーメーションの閉じられた扉の前で寝ていたのでございます。

 あれは朝の4時ごろでございました。気がつくと大男といかにも意地悪そうな女とドーベルマンが私たち2名の前に立ち、航空警備員の服装をちらつかせて「ここで寝るのはあいならん。すぐに立ち退きなさい」などと、悪魔でさえいえない言葉で追いたてをするのでございます。

 われら二人は「神の御意思によってサンチャゴ巡礼をする身なのだからこのような理不尽な取り扱いをされるいわれはない」と思いましたが、獰猛なドーベルマンが今にも我ら二人のお尻を食いちぎりそうだったので、致し方なく悪魔の要求に屈してしまいました。

主よ、悪魔に屈した我ら二人の弱き心を許したまえ
こうして、サンチャゴ巡礼フランス道の一日目が過ぎたのでした。

旅の写真は以下のURLをクリックしてください。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/cbCoyG?authkey=Gv1sRgCKWc-rW3_oOHCw#


 

 

 

 

 

 

 

 

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(21.7.12) よく読まれる記事の紹介 NO2 竹中平蔵氏とリチャード・クー氏の論争

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私が記載したこの記事が多くの読者の目に止まったのは、ある著名な経済関係のブロガーの目に止まり、そのブログに転載されたからである。

 最近は嬉しいことに、私の記事が参照されることが多くなった。ちょうど学者の論文がその引用数で評価されるように、このブロガーの世界ではどれだけ記事が転載されるかにかかっている。
ますます多くのブロガーが転載してくれると、書いている方も気持ちが高ぶってくるものだ。

(21.2.24) 竹中平蔵氏とリチャード・クー氏の論争 構造改革か財政出動か 

 元経済財政担当相の竹中平蔵氏と野村総合研究所主席研究員リチャード・クー氏との間で実に興味深い論争が毎日新聞闘論(21.2.1)紙面上で行なわれた。

 それは一言で言って「日本の失われた10年は失敗だったのか、成功だったのか」という議論である。

 勿論一般的な評価は「失敗だった」と言うことで、竹中平蔵氏はその急先鋒である。
財政拡大は需要落ち込みに対する一時的な時間つなぎの手段なのに、・・・不況脱出に不可欠な銀行の不良債権処理や経済構造改革を進めず、・・・・公共事業中心に時間稼ぎだけをやっていたため、財政にとんでもない借金だけが残った」と散々だ。

 それに対しリチャード・クー氏は「90年代のバブル崩壊後、不動産価格はピーク時から9割近く下がった。・・・(それなのに)90年以降GDPは縮小していない。それを可能にしたのが大規模な公共投資だ」と擁護する。

何もしなかったらもっと悲惨な結果になったのだから平均して1%程度の成長をしたのだから上出来ではないか」と言っているわけだ。

 当初はクー氏の論説はほとんど無視された。クー氏は典型的なケインズ主義者だが、ケインズ経済学はすでに過去の経済学とみなされていたからだ。
竹中氏の言う「構造改革こそが規制ばかり多い日本の経済構造を打ち破り、グローバリゼーションの波に打ち勝てる唯一の方法」と思われていた。
アメリカへならえ」と言うことだ。

 しかし、ここに来て状況が一変してしまった。日本・アメリカ・西欧がこぞって低金利政策をとり、政策金利がほぼ0%近くまでなったのに、まったく経済が好転しないので、各国は一斉に財政出動に動き出した。
ほれ見ろ、金融政策を諦めて財政出動に政策転換したじゃないか。オバマ政権は72兆円規模だ。これは90年代の日本と同じじゃないか(日本は失われた10年間に約140兆円の財政出動をした」とクー氏は言う。

企業も家庭も紐を締めて金を使わないなら、あとは政府がその需給ギャップを埋める必要がある。恐慌時にはケインズ政策が有効だ
さらにクー氏は鼻息があがって「戦争なしで恐慌を回避したのは日本だけの快挙だ」とも言う。

日本は世界に先駆けて恐慌を経験したが、それを財政出動で乗り切った。この経験を今世界が真似ている。日本の経験は世界の模範だ。だから失われた10年は成功経験なのだ」と言う評価なのだ。

 考え込んでしまった。つい最近までマネタリスト構造改革派竹中氏の天下だったが、リーマン・ブラザーズの倒産以降すっかり世界が変わってしまった。
今はケインジアンリチャード・クー氏の天下だ。

 クー氏によれば需給ギャップに相当する金額だけ財政出動が必要と言う。現在の日本の需給ギャップは約20兆円だと政府が発表しており、一方これに対する麻生政権が予定している財政出動は約12兆円なのだからまだ8兆円も足らない。
しかも放っておくと、この需給ギャップはますます拡大していく。

 だからとクー氏は言う。「赤字国債を発行してすぐさま10兆円規模の(内容は問わない)公共投資をすべきだ

 一方劣勢の竹中氏は「基本は構造改革だが、止む終えず財政出動をするならば、将来の日本のためになる羽田空港拡張のような投資にすべき」と条件闘争に変更した。

 今回の経験で分かったことは、経済理論もそのときの状況によって正しかったり正しくなかったりすると言うことのようだ。
私など最近まで「経済理論は正しいか正しくないかのどちらかだ」と思っていたが、浅はかだった。

 経済が不況になり需給ギャップが現れてくるとケインズ経済学の時代になり、反対に経済が加熱している時はマネタリストの時代になると言うことのようだ。

 経済政策論議はそのときの経済状況によって左右されると言うことが分かっただけでもいい経験をしたと思っている。

 

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(21.7.11) よく読まれる記事の紹介 NO1 ピクシーは日本が好きなのだ

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 私の記事の中で、この「ピクシーは日本が好きなのだ(20.4.25)」ほど読まれた記事はない。この理由は名古屋グランパスのファンが、ファンの掲示板で紹介してくれるからで、「ピクシーの面白い記事を見つけたよ」と掲示板にURLを貼り付けてくれるからだと思う。

 すでに掲載してから1年以上立つのだが、今年もグランパスは上位をうかがっており、昨年3位に終わった雪辱を晴らそうとしている。
私自身はアントラーズのファンだが、何とかストイコビッチ監督の下で、Jリーグを制覇してもらいたいものだと思っている。

(20.4.25)ピクシーは日本が好きなのだ

 ピクシーことドラガン・ストイコビッチ名古屋グランパスエイト監督は、日本が本当に好きなようだ。
かつてJリーグ発足当初の1994年から2001年までの7年間名古屋グランパスエイトで選手生活を送ったが、それは彼が29歳から36歳のまだ油が乗っていた最後の時代にあたる。
私は見るスポーツとしてはサッカーが最も好きで、自身は鹿島アントラーズのファンだが、チームを越えてストイコビッチは好きな選手だった。

 ストイコビッチ1990年25歳で、W杯イタリア大会ユーゴスラビアのエースとしてチームをベスト8にまで引っ張り上げているし、1998年33歳W杯フランス大会にも出場しベスト16になっている。
どう見てもヨーロッパの超一流選手7年間もの間、ヨーロッパや南米のレベルから見ると数段劣る日本でプレーをし続けたのは不思議だ。

 しかし私には日本に留まったストイコビッチの気持ちが痛いほどよく分かる。それは彼がセルビア人だったからである。
日本人はセルビア人だからといって特別な感情を持たないし、一般に白人に対しては尊敬の念を抱くが、ヨーロッパでは違う。

 ヨーロッパではセルビア人は一種独特の見方をされる。オーストリアの皇太子を暗殺して第一次世界大戦の引き金を引いたのはセルビア人だし、何よりも1991年から始まったユーゴ内戦では、独立を目指すボスニア・ヘルツェゴビナの住民を虐殺した悪魔の国とヨーロッパではみなされた。

 実際ストイコビッチ自身もレンタル移籍先のイタリアのヴェローナではチームメイトから「悪魔のセルビア人」「ドラカン・ミロシェビッチ」と罵倒されていたという。

 誇り高いストイコビッチがヨーロッパのクラブに愛想を尽かし、日本に渡ってきたのは1994年29歳の時だが、その後彼はヨーロッパのクラブに戻ろうとはしなかった。
日本人のストイコビッチに対する表裏のない声援に彼は初めて安住の地を見出したからだ。
日本はいい。ここは俺の第二の故郷だ

 それに対しヨーロッパでの彼への憎しみが我慢ならなかったはずである。
なぜセルビア人だけが非難される。どっちもどっちじゃないか。
俺は二度とヨーロッパではプレーしない
」彼はそう誓ったはずだ。

 覚えておられるだろうか。1999年NATO軍がユーゴスラビアの空爆を始めた時、彼はユニホームのアンダーシャツに「NATOは空爆を中止せよ」と英語で書いて、グランドを一周した。
ストイコビッチの熱い血潮が騒いだ一場面だった。

 2001年36歳で引退を決意し引退試合として、ユーゴ対日本の試合が日本で行なわれ、彼はユーゴのエースとして出場した。この試合はユーゴでも放映されたそうだ。
その時の模様を現地にいた旅行者がレポートしていたが、日本人がユーゴスラビアの旗を振り、ストイコビッチに「ピクシー、ピクシー」と惜しみない賞賛をするのを見て、セルビア人は皆泣いていたという
そしてその旅行者が日本人だと知ると、そこにいた人全員が彼を抱きしめたそうだ。
俺達のことを認めてくれるのは日本人だけだ

 日本には優秀なセルビア人が来てくれる。オシム前代表監督もそうだが、オシム氏1990年イタリアW杯ユーゴ代表監督だ。
その時のエースストイコビッチだったことは前に述べた。

 嬉しいことにストイコビッチは再び来日し、名古屋グランパスエイトの監督を務めている。昨年まで名古屋は低迷していたが、今年は快進撃だ。ストイコビッチの監督としての力量がたしかなものであれば、岡代表監督の次はストイコビッチの呼び声が高くなるだろう。

 ストイコビッチは思っているはずだ。
セルビアか日本の代表監督になってヨーロッパを見返してやる
日本を第二の故郷としているストイコビッチが日本をW杯ベスト8まで引き上げてくれたらと私は切に願っている。

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(21.7.10) 剣岳登山 走友会  登山NO 33

2008年 62才

剣岳 ちはら台走友会  7月25日~27日


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 今年のちはら台走友会の登山は剣岳だった。25日(金曜日)の夜に出発して、27日(日曜日)の夜に帰ってくる計画だ。
貸切のバスを利用した車中一泊山小屋(剣山荘)一泊の予定である。走友会のメンバーは現役のサラリーマンが多いため、通常は2泊3日のコースをこうして時間を稼ぐ。

 当初は剣岳の一般コースとしてはかなり難関な草月尾根コースを予定していたが、根雪が多くアイゼンやピッケルが必要と分かったため、よりポピュラーな室堂経由のコースに変更された。

 これだと初日6時間かかるコースが4時間程度に短縮される。夜行バスではほとんど眠れないため時間短縮は大歓迎だ。
やれやれ、今回は山小屋で前日の睡眠不足を解消できそうだ

 今回は16名の参加だった。現役のランナーは元気がよく剣岳走破に意欲を燃やしていたが、日頃練習不足のランナーは気持ちがナーバスだ。
一服剣か前剣まで行けばそこで引返してもいい」ぶつぶつ言っている

 一服剣前剣剣岳の前山で、この二つの前山を越すと本体の剣岳に到着できる。
剣岳に登るにはカニのタテバイという難所を登り、帰りはカニのヨコバイというこれも目もくらむような難所を下降しなければならない。
登りと下りのルートが分けられているのは、そうしないと登坂者と下降者が難所でぶつかって動きが取れなくなるからだ。
ここは一般の登山道としては桁はずれに難関なルートと言える。

 本音としては前剣で引き返そうとしていた人が数人いたのだが、誰も自分がやめるとはとは言い出さない。真っ先にやめるなどと言えば後で走友会のメンバーから酒の肴にされてしまう。
みんな、ここまで来たのだからがんばろう登山隊長M氏の言葉にしぶしぶ従った。

 M氏はベテランの登山者だから、危なそうなメンバーと登山暦が多いメンバーと組み合わせて登坂させることにした。
私はSさんのサポートをすることになったが、Sさんは文学をこよなく愛す女性だが、マラソンの練習回数はすくない。

走友会の人たちははやいでしょ。だから私が遅れると悪いと思って、やはりリタイアしたほうがいいかなと思ってしまうの
山登りでは人のペースは気にしないでいいんですよ。自分のペースを守ることが一番大事です

 これが登山の鉄則だ。人のペースを気にするとあせって転んだりしてかえって問題が起こる。

 Sさんは登山暦が浅いため、岩登りのコツを知らない。岩にへばりつき、手で無理やりに身体を持ち上げようとして疲労困憊している。
鎖を持った手を伸ばし、身体を岩から離すのです。そうすると足場のスタンスが見えて、体を足でしっかりと支えることが出来ますよ

 当初は蛙が岩にしがみつくような格好で登坂していたが、岩から身体を離すことを覚えてからは実に快調な登山が出来るようになった。
カニのヨコバイといってもそれほどたいしたことなかったわ
高度恐怖症のスピードランナーAさんが「あんな怖いところはなかった」と述懐していたのと大変な違いだ。

 Sさんが走友会のメーリングリストに登山の感想を記載していた。

恐る恐る(カニのタテバイに)取り付いてみたら・・・腕の力が足りなくて足手まといになりそう・・・
けれどみんなの声に励まされ、山崎さんに助っ人としてついてもらうに至り、決心がつきました。

ちゃんと登ってくる!!』
前になり後になりしてアドバイスしてもらい、時には尻まで押し上げてもらい、さほど恐怖心を感じることなく登って降りれたのでした。
ほんとにホントに山崎さん始め皆さんのおかげです。

 頼りになる幹事のOさん、冷静な登山隊長のMさん、そしてそれぞれに魅力的なみなさん、ありがとうございました。
帰り道、折々に振り返って目にするあの山に、本当に登ったというのが不思議でした

 またTさんは実に愉快な人だ。当初私に「登山なんて何が面白いのかわからない。苦しいだけでくだらない」と言っていたのに剣岳に登坂したとたんに人間が変わった。

 帰りはグループの先頭に立ってリードし、これから登る登山者に会うたびに剣岳登坂の講釈をし始めた。
剣の頂上は実にいいですよ。そう、あなた一人で登るのですか。そうですか。カニのヨコバイはかなり厳しいですが、まあ、元気で行ってきなさい
会う人毎に講釈するものだから、登山隊長から「人が詰まっているから進みましょう」と言われてしまった。

 天候は初日、二日目の午前中と良かったのだが、二日目の午後から土砂ぶりの雨になってしまった。雷まで鳴り出すし、生きた心地がしない。
登山隊長のM氏は「ここで、俺の人生も終わりか」と覚悟していたと言う。

 びしょぬれになってようやく室堂のバスターターミナルに着いたが、この午後から翌日にかけて北陸地方は大雨になり、いたるところで洪水が発生していた。。
ほんの1日違いで剣岳の快適な登山が出来たのだからちはら台走友会立山の神の加護を受けていたわけだ。

 それにしても走友会の登山は例年ハイレベルだ。メンバーの一人が言っていた。
来年はもう少し楽な山に登りましょうよ


今回の剣岳登坂の記録写真を掲載します。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/20725?authkey=OcvXiC03ORg

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(21.7.9) ちはら台走友会の登山  登山NO 32

2007年 61歳
 

燕~槍ヶ岳 7月末の2日間 ちはら台走友会

197089_2   

 最近はもっぱらちはら台走友会の登山に参加することが唯一の登山になってしまった。

 ちはら台走友会は年に2回、春と夏に登山をおこなうが、今回の夏の登山は燕岳(つばくろだけ)2762mから槍ヶ岳3180mへの、いわゆる表銀座コースだった。メンバーは15名である。7月の末に実施された。
 このコースは登山者にはおなじみのコースで、日本アルプス登山の入門コースとして名高い。
 途中に大天井岳2922mの巻き道や、東鎌尾根の槍ヶ岳直下のような、初心者にとって緊張する険しい場所もあるが、概して穏やかな稜線歩きができる人気スポットである。

2泊3日でこのコースを歩く」と登山の責任者から聞いたときは、「走友会の行事としては遠足みたいなものだ」と思ったが、よく聞くと「車中一泊、山中は西岳ヒュッテの1泊」だったので驚いた。
 このコースの通常の登山日数は2泊3日であり、最近のように年配者が多いと、3泊4日のコースなることもある。

 念のため、山岳マップでコースタイムを調べたら、初日が9時間半、2日目が12時間だった。これは食事時間や休息時間を含めない時間だから、1時間程度の食事時間を加えて、それぞれ10時間半13時間がコースタイムと言うことになる。
うぅーん、走友会らしいハードなスケジュールだ」感心した。
 後で聞いた話だが、西岳ヒュッテの管理人から「本当に大丈夫ですか」と念を押されたと言う。

 夜行バスは、夜中の8時に千葉を出発して、登山口の中房温泉に朝の5時ごろ到着する計画になっており、通常であればなんら問題がないのだが、日頃の走友会を知っている私には不安感がよぎった。
夜、寝かせてもらえないのではないかしら

 不安は100%的中してしまった。いつもの盛大な宴会が始まり、続いてしりとり歌合戦が始まって、てんやわんやの大騒ぎになってしまった。
 大いに酒を飲み、大いに歌うのが走友会の元気印の源だ。

 宴会は一応12時には終わったのだが、熟睡したのは酒盛りと歌合戦を楽しんだ人たちで、私はほとんど眠ることができなかった。
これは、徹夜の強行登山になるけれど、『甲州夢街道シルクロード215Km、36時間レース』の練習と割り切ろう」覚悟を決めた。

 天気予報では、天候は下り坂で、2日目の後半は雨の予想だったが、実際はまずまずの天気で、雨もほとんど降らなかった。
 さすがに、初日の後半は寝不足で頭が朦朧としてきたが、幸いにも西岳ヒュッテで熟睡できたため、2日目は実に快適な登山を楽しめた。
 最近の山小屋の設備は年配者に配慮してよく整備されており、布団も新しく、食事は街のレストラン並だ。

 走友会のメンバーは、相変わらずの酒豪ぞろいで、やれ宿に到着した、槍を登坂した等理由をつけてはビールを飲んでいたが、実は体力も相当なものだ。
 特にK氏などは、遅れそうな人の荷物を持ってあげて、さらに岩場を走るようにして登坂するのだから驚きだ。岩は走るためにあると思っているらしい。
イエティーでないかしら」率直な感想である。

 K氏以外でも、槍からの下りはマラニックだと走り出した会長のY氏や、マラニックの愛好家O氏がいる。
 私のように登山経験40年の者でも「ちはら台走友会のマラニック登山」は驚きだ。普通の人が見たら、化け物ぞろいではないかと思うのではないだろうか。

 この年になってまた一つ新しい経験をしてしまった。

 今回はコースの途中で撮った写真を掲載します。 
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/197

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(21.7.8) 青森の山  登山NO 31

2006年 60才

八甲田・岩木山  10月23日~30日 

2006_10290035  

 この年の8月に定年退職した。暇になったので一度行きたかった青森の山に登ることにした。やや時期が遅かったが、津軽にあこがれたのだ。

 八甲田山新田次郎の小説でも名高い青森第五連隊が遭難したところだ。
行ってみて初めて知ったのは、遭難現場はかなり青森市側で、八甲田の連山がそびえている場所ではないことだった。
こんな場所で遭難したのか」意外な感じがした。

 酸が湯(すがゆ)温泉のキャンプ場でテントを張ったが誰もいなく、また風雨が非常にきつかった。10月の終わりになると青森は初冬の厳しさで、夜半は寒くて寝付けない。

 翌日、大岳を目指したが、風はますます強まり、歩くこともできなくなったので途中から引き返した。稜線を吹き抜ける八甲田の風は冷たく強い。真冬ならきっとあおられると、とても耐えられないだろう。
これなら遭難してもおかしくない」納得した。

 八甲田に登ることができなかったので、岩木山は登って見ることにした。弘前市からバスで岩木山神社のテント場まで行き、そこででキャンプをしたが、ここも誰一人いなかった。青森はこの時期になると登山客でテントを張る人は皆無になるらしい。
夜中にヨタカが「ぎゃー」と鳴いた時は、飛び起きてしまった。
実に恐ろしげな鳴き声だった。

 岩木山にはかなり頂上近くまで道路が通じているが、いつものようにふもとから登るルートを取った。途中から沢筋になり、頂上付近は雪が降ったあとがあった。寒かったのですぐに下山したが、10月下旬の青森の山にはもう冬山だということがよく分かった。


八甲田山の写真です。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/18102903

岩木山の写真です。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/18102902

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(21.7.7) 南アルプス南部縦走 登山NO 30

2005年 59才

南アルプス南部縦走 タムさんとその同僚二人 7月31日~8月6

Image0_3  

 今年はトランスエゾに参加しないので,登山をすることにした。タムさんに話したところ南アルプス赤石岳に31日から3泊4日程度で身障者を引率していくことになっていると聞いたので一緒にいくことにした。
タムさん六つ星の会という目に障害のある人に登山をしてもらうボランティアの会のメンバーだ。

 昔、タムさんと登山をしたコースで帰り際にタムさんが雷をおそれて飛ばすので大変きつかった思い出がある。今回は身障者がいるためかなりゆっくりした工程になった。

 初めて目の見えない人のサポートをしたが、二人一組になって前と後からサポートし、身障者は前の人の肩かザックに手を置き、前の人がコースの指示をしながら進むという方式だった。
右に大石
崖で約10m、鎖があって足場はしっかりしている」等だ。 

Image11_2  しかしこの時はタムさんは体調を壊していて,熱と腹下しに悩まされていた。強い薬でかろうじて体調を維持している状況で、無理をしてでも引率していくというような状態だった。

 私の方は時間が十分あったので、タムさんたちと赤石岳3120mで別れてから、南アルプスの南部を縦走することにした
聖岳3011mから茶臼岳2604m、光岳2591mに縦走し、光岳から寸又川に降り最後は林道を40K歩いて寸又峡温泉に泊まることにした。
このコースはやたらと長く通常の登山客は通らないルートで、光岳の小屋でルートを確認すると「夏場だったら一日に一人ぐらいは通りますよ」とのことだった。

道は分かりますか
私なら大丈夫ですが」なんとも分からない返事だった。

 実際行ってみると光岳の下りは道がはっきりとせず,しばしば獣道に紛れ込みそうになった。最後の下りの道を見失い、寸又川のどこに出たのかさっぱり分らなくなってしまった。
目印のつり橋を見つけるまで30分程度、川をうろうろしたものだ。

 ここからさらに寸又峡温泉まで約40Kを歩いたが、林道はほとんど土砂で埋まっており、一部でも残っている場所ではマムシ昼寝をしていた。
遠くから石を投げてどいてもらったが、人がほとんど通らないのでマムシものんびりしている。

 途中で土砂降りの雨にあい、気持ちがすっかりなえてきた。途中の小屋で泊まるか温泉まで下るかだいぶ迷ったが、結局温泉までおりた。
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(21.7.6) トレッキング 登山NO 29

2004年 58才
 

八ヶ岳トレッキング(野辺山100k)競争 5月16日

Image0_2  55才を過ぎた頃から登山のバリエーションが広がった。いわゆるトレッキングにはまってしまったのだ。トレッキングとは山を走る競技で、奥多摩丹沢でよく競技が開催されている。

 山道だから油断すると谷底に落ちてしまう危険性があり、特に夜半行なわれる競技が危ない。私は奥多摩で開催される長谷川恒夫カップという競技に何回か出たが、出るたびに怪我をするのには閉口した。

 崖から滑り落ちたり、木造の橋をくりぬいたりしてその都度死ぬかと思ったが幸いに生きている。
一昨年の長谷川恒夫カップでは、本当に死者が出たのだから冗談で言っているのではない。

 今回参加した野辺山100km最初の30kmがトレイルコースで、コースはほとんどが林道であり、かつ昼間だったので危険ということはないが、タフなコースだった。

 100kmマラソンの世界で、
野辺山を制すれば日本のウルトラマラソンを制するといわれていた意味が分かった。

 最高地点は八ヶ岳山麓の1900m、最低地点が900Mで標高差1000mを一気に駆け上がり、また一気にかけおりるのだから、足に対する負担は相当なものだ。
しかもこうした登りは1箇所でなく2箇所もあった。

 当日はあいにくの雨で、一日中降っていたが、長距離走の場合は寒いほうがよく、天気だとひどく消耗してしてしまう。
この日はそれほど寒くはなかったが、それでも後半になると腹がひえてきた。

 こうした競技を終えた後はそこで一泊してかえるのがベストで、無理してかえるとかなり悲惨なことになる。
この時は帰りのバスは7時半発(ゴール制限時間は7時)で、新宿に10時半についたため、さらに2時間かけて家には最終電車で帰った。

 普段は駅から約20分の道を歩いてかえるのだが、非常にくたびれていたので娘に自動車で鎌取まで迎えに来てもらった。
私は普段は絶対といっていいほど自動車に乗ることをしないので、何かおきてを破ったような気落ちになったものだ。

 

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(21.7.5) 妙義山  登山NO 28

2003年 57才
 

妙義山 4月27日~29日 

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 妙義山は一度行きたい山だった。信越線で横川まで来ると,前に急峻な山並みが続き、ロッククライミングのメッカのような場所に見えた。一度家族でこの山並みに入ろうとしたが、「危険立入禁止」の立て札をみて入山を思いとどまった経緯がある。

 今思えばいかなくて良かったような場所だった。次から次へと鎖場が続き、手がしびれてしまいそうだった。鎖はよく整備されているので,急峻な場所でも登ることはできるが、ここはやはりロッククライミングの場所だと思う。

Image11  表妙義の入口は妙義神社になっていて、大変厳かな雰囲気がある。表妙義裏妙義の谷間に国民宿舎があって、毎日汗を流せたのがうれしかった。

 裏妙義の国民宿舎のまえのテント場でキャンプを張ったが、他に誰もキャンプをする人はいなかった。国民宿舎の風呂を何回も使ったので「ああ、キャンプをしている人ね」と管理人に覚えられてしまった。

 場所によってはザイルが必要だと地図には書いてあったが、その場所には近寄らなかったので詳しいことはわからない。なにしろ朝起きて適当に山に向かい、適当に降りては風呂にはいるという生活だった。

 費用はほとんどかからず、特に上野からのアーバン快速に乗ると2200円(片道)でいける。時間も新幹線と大して違いがない。
岩登りを楽しむためには最適な場所だということが分かった。

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(21,7.4) 熊野奥駆け  登山NO 27

2002年 56才
 

熊野奥駆け  5月の連休 約2週間  タムさんと

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 5月の連休に山登りをしたいとタムさんに言ったところ,吉野熊野国立公園の熊野奥駆けをしようと言うことになった。このコースは和歌山側と吉野側に約1週間のコースがあり,和歌山側の方が厳しいという。2週間かけていくこととした。

 池袋の駅前から夜行バスに乗って新宮に出た。新宮からバスで本宮に行き,本宮の茶店に荷物を置いて本宮の見学に出かけた。この茶店には非常に美しい女性がいて、私が驚いて「雛には珍しい美人だ」といったら、タムさんが笑っていた。

 本宮で足が3つのカラス(Jリーグのマークになっている)をみた。本宮から登山口までタクシーで入ることにした。山道はせいぜい1500mの山並みがつながっているだけであり,天狗岳を除けば決して急峻ではなかったが,行程は相当長く体力勝負のようなところがある。

Image22  無人小屋が整備されており快適に寝られるのだが、私は極力テントで寝ることとした。小屋は嫌いなのだ。

 一方タムさんはどうも無人小屋が好きらしく、テントでは眠らなかった。水は下から汲んでくるのだが,ポリタンクに汲んだ日付が記載されており,なるべく新鮮な水を使用するように指導されていた。

 本宮→大森山→玉置山→笠捨山→行仙岳→涅槃岳→天狗岳→釈迦ガ岳→仏性ガ岳→明星ガ岳→弥山→行者還岳→大普賢岳→山上ガ岳→吉野,がコースだったが,最後の吉野はタムさんはいったが,私は山上ガ岳から川合温泉に降り,そこで温泉に入って,バスで近鉄吉野線の下市口にでた。
二週間も山にいるとさすがに山生活も飽きてくる。なにか下界が何とも懐かしい気分になる。

 下市口からは近鉄特急で京都に出,そこから新幹線で帰った。タムさんは吉野まで足を伸ばしている。

 コースはほとんど奈良県の中を通っていた。熊野の修験道として有名な場所で,このコースを完走すれば修験者としてそこそこの評価がされるのだという。

Image23  熊野古道は世界遺産に登録申請するようで、そうした意味では意義深い山行だった。

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(21.7.3) 北海道の山  登山NO 26

2001年 55才

知床登山(羅臼岳,硫黄山縦走) 8月6日~8日

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 すっかり北海道の山に魅せられてしまった。太古の自然が残っており、人が極端に少ないのがいい。

 この年はトランスエゾ゙500km(宗谷岬から襟裳岬まで1週間かけて走るレースに参加するため北海道に来ていたが、その前の1週間をかけて知床から釧路湿原の旅をすることにした。

 知床連山は海側から見ると大変美しいが,登ってもお花畑が目に映え、ハイマツが手付かずに残っている。
岩尾別温泉から入ったが,入口に熊に対する注意書きがあり,食料は必ずキャンプ場に設置してあるロッカーに入れるように指導してあった。
熊が登山客の食糧を狙って出没するからだ。

 羅臼岳1660mに登り、稜線上をサルシル岳1564mオッカバケ岳1450mをとおり、硫黄山1563mから降りた。硫黄山は名前のとおり活火山で硫黄が噴出していた。

 硫黄山を下山したところにカムイワッカの滝があり、ここには温泉が滝になって流れていた。さっそく裸になって温泉につかったが、温泉の滝は始めての経験だ。

 帰りに斜里岳に登りたかったが,こちらはバスの便が悪く行くことができなかった。北海道では自家用車がないといけない場所が多い。

 仕方なく斜里から釧路に1両の電車に乗って行き,ビジネスホテルに宿泊しながら釧路湿原を歩き回った。釧路湿原には釧路川が流れているが,湿原の真ん中に堤防ができており約10k程度続いていたので,ひたすら歩いた。
ときどき蝦夷シカが現れ、ここが原始の姿を残していることを知った。

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(21.7.2) タムさんと登山  登山NO 25

2000年 54才
 
大雪山系縦走および利尻岳 タムさんと 8月の夏休み 2週間 


Image1_3  

 この年初めて北海道の山に登った。タムさんにルート選定を依頼したところ、白金温泉から美瑛岳2052m、オプタテシケ2013m、トムラウシ2141m、白雲岳2230m、旭岳2290mのルートを作成してくれた。

 北海道までは大洗からフェリーで苫小牧料金は5000円で高くはないが,水戸までの電車賃4500円と,苫小牧から札幌までのバス代1000円がかかる)に出て,そこから札幌から旭川まで電車で行った。当日は旭川の駅頭で寝て翌朝早く美瑛に出、そこからバスで白金温泉に入った。

 当初は時間短縮のためタクシーで登山口まで行こうとしたが、タクシーのネイちゃんが帰りのタクシー代まで吹っかけてきたので断って歩くこととした。
ネエ、あんた達、歩くと遠いよ
いえ、いいです。最初から歩くつもりでしたから

 北海道の山は人の入山が少ないせいか非常に美しく太古のままの趣がある。
こんな美しい山容があっていいのだろうかというほどだ。

Image02  タムさんとはトムラウシまで一緒に言ったが,トムラウシの稜線で天候が崩れ2日間風雨にさらされた。たまたまテントを張った場所が風の通り道だったため、夜中中おきてテントを支えていなければならなかったほどだった。

 タムさんは時間の関係でトムラウシから下山し,私はさらに稜線伝いに大雪山の主峰旭岳まで行くことにした。

 しかし風雨が特に強かったのはトムラウシの側だけで,そこから離れるにしたがって天候は改善し、気持ちよい登山となった。

 北海道は熊が多いため、いたるところで「熊に注意」とか「残りの食べ物を捨てると熊の餌付けになるので捨ててはいけない」とかの注意書きがある。
登山者は熊よけの鈴か、ホイッスルを必ず携帯して、それを鳴らしながら歩いていた。

 途中のキャンプ場で夜半にテントの外で動物のうなり声がしたのには震え上がった。
すわ、熊だ!!!!!」

 思わずホイッスルを鳴らそうとしたが、慌てふためくとホイッスルもならないらしい。空気が漏れる音しかしなかったので、そばに置いてあった食器をたたいたら、テント場中全員が食器をたたき始め、大変なことになってしまった。

 翌日テントの外を確認すると、キタキツネが私のテントの外に出していたゴミ袋を加えて持ち去ろうとしていたようだった。
夜中だと熊とキタキツネの区別もできない。

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 大雪からおりてもまだ時間が十分あったのでさらに利尻岳に登ることとした。稚内からフェリーに乗って利尻島まで行き,キャンプ場にテントをはって登山をした。一番厳しいルートは登山禁止になっていたため、もっともポピュラーなルートで登って、次に険しいといわれているルートを下った。

 帰りは青森によって大学時代の同窓会に参加した。たまたまT君が青森の支店長になっていたのでここで同窓会をすることにした。

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(21.7.1) 息子との登山  登山NO 24

1999年 53才
 

裏銀座縦走 息子と  夏休み 1週間 


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「おやじ、 久しぶりに登山しないか
」と息子が言う。
この年,息子が大学4年生で最後の夏休みだったため,二人で裏銀座縦走をすることにした。


 双六岳2860m、野口五郎岳2839m、,北の俣岳2661m、薬師岳2926m経由で立山に出た。鎌田川よりの登山道を双六まで上り,野口五郎に向かうルートは長い間行って見たいルートの一つだった。
野口五郎は何か歌手の名前のような山だが、双六からみる山容は実に堂々としている、

 テント泊まりだったが、なるべくテント場をはずしてテントを張った。テント場はとてもうるさいのと、歩き疲れて夕刻になるとテントを張る生活に慣れていたためだ。

Image1_2  身体が汗でくさくなると、水場やチトウの水で身体を洗って汗を拭い落とした。

 北の俣岳,薬師岳のルートはうんざりするくらいの上り下りが有り、そのたびに息子と顔尾を見あわせたものだ。
またかよー

 途中から天候が崩れ,立山に出る前はひどい土砂ぶりになってしまった。
私は五色が原に着いた頃は、体温が低下して震えが来ていたほどだ。

 立山で温泉に入り一息つけてから,バスで阿弥陀が原経由で富山に下った。
息子は阿弥陀が原の景色が忘れられないらしく,「富山はひとの住むのにいい場所だ」とその後何回も言っていた。

 富山からは夜行バスで新宿に出た。

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