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(21.6.30) 単独行  登山NO 23

1997年 51才 

笠が岳周辺(焼岳,笠が岳,双六)  夏休み 1週間 


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 笠が岳2897m
は登ったことがない山だ。特に穂高からみる笠が岳は美しい。今回は焼岳2455m経由で笠が岳に登ることとした。上高地の梓川沿いボクデンの湯まで行き,そこから焼岳に登って,鎌田川沿いに降りた。焼岳では硫黄の臭いがしただけで、雨模様のため山頂の様子は分からなかった。

 鎌田川新平湯温泉で川の側にあった露天風呂に入った。地元の人たちや観光客が大勢いた。

Image0_3  笠が岳に新平湯温泉から入るルートはあまり人が入らず,地図でも廃道扱いだったが,地元の人が整備しているらしく,笹は刈られていた。ただし大変急峻な坂道でほとんどあごが上がってしまい、頂上につく頃はクタクタになっていた。

 笠が岳の頂上には多くの登山客がいたが,私が新平湯温泉側から登ってきたのを知ると驚いて「ルートは大丈夫でしょうか」と聞いてきた。
どうもこのルートは入る人が極端に少ないルートのようだった。

 笠が岳から双六岳2860mまでは天井の優雅なルートで気持ちよく歩けた。双六から雲の平に抜けようとしたが風雨が激しく,キャンプ場で停滞させられた。

 テントは風に飛ばされそうになり、水がテントの下を流れていた。何か嵐の舟の中にいるような気分だった。
こうした嵐が2日間続いたのですっかり気持ちがなえてしまい、裏銀座のコースは今後の課題として下山した。

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(21.6.29) 登山復活  登山NO 22

1995年 49才 

後立山縦走(蝶が岳,常念岳,大天井岳,槍ヶ岳,双六,三俣蓮華,野口五郎,烏帽子岳)  夏休み 1週間強 

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 長い間登山をしていないと急に登山がとてもしたくなるものらしい。
このところ走ることばかりだったが、夏休みを利用して蝶が岳2677mから後立山連峰の縦走を一人ですることにした。
いつものようにテント暮らしだったので、歩けるところまで歩いてはテントを張っていた。

 この時は徹底的に歩くことにしていたのでバスは使用せず、穂高の駅から歩いて蝶が岳のふもとにキャンプを張り,そこから蝶が岳に登った。昔友達と来たコースだったので懐かしかった。

 この年はなぜか身体が良く動いた。蝶が岳からは槍ヶ岳3180mを経由して双六岳2860mに行き、そこから後立山連峰に入った。このコースは昔、タムさんが単独行で走破したコースだったので、私も一度歩いてみたかった。
三俣蓮華岳2841m、鷲羽岳2924mと越えて行くうちに、何か世俗のことがまったく気にならなくなり、だんだんと仙人みたいな感じになってきた。

 時間的には十分余裕があったので,烏帽子よりさらに足を伸ばす予定だったが,食料が乏しく,腹がひどくへるようになったため(山小屋でひどく高いかんずめを買ってむさぼるように食べた)断念して烏帽子から降りた。

 さすがに1週間程度歩き回ると飢餓状態に近づいてくるようだ。
 下の高瀬温泉の旅館に泊まった。さらに大町行きのバス停まで10k程度歩いて下った。この年は本当に良く歩いたといえる。


(2) 槍ヶ岳 北鎌尾根 タムさんと 8月14日~17日

Image1  北鎌尾根は昔冬季に、加藤文太郎が遭難した場所だ。普通のコースではなく登山道がないため、初めてガイドつきで登山することになった。
ガイドは日本山岳会でもかなり名前の通った人だったが、残念なことに翌年K2で遭難してしまった。

 ルートは全く踏みあとがないというわけではなく注意深く行けば行ける場所だった。イメージはジャンダルムと言うところだ。
これならガイドがなくても行けそうだな」タムさんと確認しあった。

 ルートは湯俣温泉から水俣川を遡り、途中から北鎌のコルに登るルートだった。

 それほど難しいとの印象はなかったが、ルートは自分で見つけなければならず、また最後の槍の頂上への登りはロープがないとかなり危うい場所だった。
頂上につくと、一般ルートで登ってきた登山客から尊敬の目で見られたことを覚えている。

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(21.6.28) マラニック   登山NO 21

1994年 48歳

富士登山競争 7月

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 私は46才頃からマラソンレースに出るようになり、一方登山をすることが少なくなった。前年はまったく登山をしていない。

 その代わりマラニックと称される登山とマラソンを兼ねたような競技に良く出るようになった。富士登山競争もその一つである。

 富士登山競争はふもとの富士吉田市の市長庁舎前から,浅間神社をぬけてまっすぐに昇る富士吉田コースを4時間半で走破しなければならない大変きつい競技だ。

 5合目までは曲がりなりにも走れるが、ポイントは馬返しまでの約10kをしっかりと走って上位につくようにするのがコツで、それより高くなるととても走ることができなくなる。
しかしこのときは残念なことに馬返しの手前で歩き出してしまった。

 5合目からは急斜面が続く。大変腹がへり途中で登山客から食べ物を恵んでもらったが、その時は一種のガス欠状態になっていた。

 8合目にチェックポイントがあり、ここを4時間以内に通過しなければならないのだが、制限時間の4時間6分程度オーバーしたため、失格となってしまった。

 今思えばもう少しがんばっていればよかったのにと思うが後の祭りだ。富士登山競争にはその後2回エントリーしたが、いづれも会社の業務の都合でキャンセルしてしまった。
何事もその時というものがあるのだから、こうした競技は再びの時などないものと思って、全力を尽くすのが必要なようだ。

 帰りはブルドーザ道といわれる砂礫の道をすべるようにして5合目までおり、そこからバスで帰宅した

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(21.6.27) タムさんとの登山  登山NO 20

1992年 46才 

日光 女峰山  Tさんと 春先

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 前年,日光の女峰山2483mで会社の同僚が遭難した。当時人事部長だったAさんから救助隊として出て欲しいと頼まれ,タムさんと出かけた。
遭難した同僚は一人で登山をして、道を見失い女峰山の岩陰でビバークしていたのだと言う。

Image3  女峰山には地元の山岳救助隊が組織されていたが、会社の山岳部も当然捜索に加わるものと期待されていた。しかし実際は会社には山岳部がなく(正確に言うと遊びレベルのものはあったが、ベテランとは言いがたかった)山登りの超ベテランと思われていた二人に白羽の矢があたったのである。
初冬であり、冬山の経験が必要と人事部長が判断したようだ。

 しかし幸い私たちが着いたときには地元の救助隊によって同僚は救出されており、実際は捜索に参加することはなかった。

 翌年(1992年)の春先、女峰山とはどんなところなのかタムさんと確認のため登ってみた。なぜ遭難事故が発生したか知りたかったからである。

Image0_2  頂上近辺には雪が残っていたが、登った印象は非常にたおやかな山でどうして遭難するか信じられないような山だった。
とても遭難しそうにないね」二人で不思議がったものだ。

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(21.6.26) 息子との登山  登山NO 19

1991年 45才
 
八ヶ岳 息子 春休み


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 雪のある八ヶ岳に息子が行きたいというので,編み笠から赤岳に登ることとした。息子は高校1年生になるところだった。
八ヶ岳はもっとも登りやすい山で、3月だったのでまだ山には雪が残っていたが、麓にはまったく雪はなかった。

Image01_2   息子はことのほか八ヶ岳が好きで、何かと八ヶ岳に行きたがった。初めての本格的な山登りが北八ヶ岳だったせいもあるかもしれない。

 八ヶ岳と言う命名は深田久弥によると「多数を現したもの」で必ずしも八つの峰があるわけでないそうだ。
また「八ヶ岳のいいところは、その高山地帯についで、層の厚い森林地帯があり、その下が豊かな裾野となって四方に展開している」ことだそうだ。

 現在の八ヶ岳は登山客であふれており、交通の便もすこぶるいいのだが、深田久弥が始めて登山をした戦前は「赤岳鉱泉と本沢温泉をのぞけば、山には小屋など一つもなかった。5月中旬であったが登山者には一人も出会わなかった。もちろん山麓のバスもなかった」のだという。

 今回の登山では、天候が良く雪の上にテントを張ったが寒くはなかった。赤岳のキレットは相変わらず厳しい登りになった。
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(21.6.25) 息子との登山 登山NO18

1990年 44才

北アルプス(西穂高から奥穂高縦走) 夏 息子と


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この年は息子とよく登山をした。息子は中学3年生だった。
オヤジ、穂高に行こう」と言う。
穂高の中で一番厳しいルートの一つと言われるジャンダルムに行くことにした。

 実はこのルートは新婚当時にかみさんと登ったことがある。
あまりに険しいルートだったため、自分のことに集中し、かみさんが岩場で滑り落ちそうになったとき言ったものだ。
自分の命は自分で守れ
以来、かみさんからの信頼感はゼロになってしまった。

Image0  息子とは久しぶりにそのルートをたどることにした。西穂高2908mへは上高地側からのぼり、そこから稜線伝いに奥穂高3190mへの縦走をした。
このコースは稜線の両側が鋭く落ち込んでいて,晴れて下が見えるときなどは恐怖感で足が震えるような場所だ。

 息子とは快適に登ったが,さすがに難所のジャンダルムロバの耳の近くでは足がすくんだ。

 翌日は北穂高まで足を伸ばす予定だったが,奥穂高からの下りが余りに急峻なので意気消沈して,涸沢から降りることにした。涸沢からはパノラマコースをたどって上高地に降り、梓川で目いっぱい水浴びをして帰った。。


谷川連峰(七つ小屋山) 息子と 冬

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 息子が冬山に行きたいというので,前に会社の同僚と行った、谷川連峰の裏山、七つ小屋山1674mに登った。土樽から登るのだが、取り付きは前よりも雪が深く難渋した。
冬の谷川連峰は雪が深い。

 テントは山の稜線のやや平らなところに張ったが、このときは風が強く,夜半にテントが飛ばされそうになった。仕方なくテントをたたんでテントに包まって寝た。
その場所はあまり広い場所とはいえず、少し動き回ると谷底に落ちてしまうような場所だったので、緊張感は相当なものだった。

Image2  私は気が気ではなかったが,息子は良く寝ているように見えた。
なんと、精神力が強いのだろう」感心した。
しかし後で聞くと,恐怖感で息子も眠れなかったという。
翌日も風が強く、登頂をあきらめ、そのまま下山した。

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(21.6.24) タムさんとの登山  登山NO17

1989年 43才

五竜岳から鹿島槍方面  タムさん   時期不明

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この写真は鹿島槍ではなく谷川岳の写真です) 

 この年から家族登山はしなくなった。息子は中学2年生でバレー部員だったので、夏休みは式根島が実家だったバレーの先生の民宿に行くことになった。

 山登りはもっぱらタムさんとすることになり、この頃八方尾根から唐松岳2696m五竜岳2814m経由で鹿島槍2889mに登っている。このときは写真を撮らなかったので、時期がいつだったのかは分からない。

 私はこの頃から山岳写真を撮る情熱がうせてしまい、山に写真機を持って行かなくなった。タムさんが持って行ったときは記録が残るのだが、そうでない場合は頭の記憶しか残っていない。
今思えばとても残念なことをしてしまったと思う。

 鹿島槍には前の支店の同僚と遠見尾根コースで登ったことがあったが、五竜岳と鹿島槍ヶ岳の間にある八峰キレットには今回も往生した。
岩と岩の切れ目にはしごがかかっているのだが、下を見ると奈落のそこまで通じていて何とも怖いのだ。

 タムさんはそうした場所はあまり得意でなく、がへっぴり腰で渡っていた姿を今でも覚えている。。

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(21.6.23) 家族との登山、その他 登山NO16

1988年 42歳

北アルプス(双六から槍) 家族 夏休み

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 一転してこの年はよく山登りをしたが、山友達のタムさんに誘われたことが大きい。
5月の連休に燕岳2763mから常念岳2857mに登って雪盲になったが、初めての経験だったので驚いた。

 まったく目が開けられなくなり痛くてたまらない。雪盲とは雪の反射であまりに太陽光線が強いため目がやけどをするのだが、数日は目が開かない。
仕方なしに私はテントの中で2日間寝て、ようやく目が開くようになった。そのかんタムさんは一人で周りの山を歩いていた。

Image1_2  この年の夏は、最後の家族登山をした。娘が中学3年、息子が中学1年だったが、娘が家族の旅行を嫌がるようになったからである。
中学3年生にもなって、親と旅行するような家庭なんてないわ

 息子とはその後も何回か登山をしたが,かみさんとと娘は登山をしなくなった。
 槍ヶ岳3180mには鎌田川を遡り,双六岳2860mから登ることにした。双六岳の頂上で登山客のお兄さんが,後立山連峰裏銀座の山並みの説明をしてくれた。
息子は楽しそうだったが,娘は相変わらず不機嫌だった。家族登山は転機を迎えていたといえる。

 槍の頂上は相変わらず怖かったが,このときは以前と違って、梯子がつけられていた。帰りは槍沢に下りた。身体を梓川の支流で洗ったが,非常に冷たかったのを覚えている。

北アルプス(乗鞍岳,小蓮華岳,白馬岳,唐松岳)
タムさん 9月15日~17日 

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 この頃はタムさんとよく登山をしていた。この時は白馬岳2933mの北側から唐松岳2696mを通って黒部峡谷に抜けるルートを選択した。
 当時タムさんは体力の絶頂期にあったらしく,常に通常の時間の半分ぐらいの時間設定をしていた。

 このコースでわれわれと同じコースをとっている女性グループ(2人)がいた。他に登山客はなく、途中から一緒になって降りることになった。唐松岳から黒部渓谷沿いに降りたが,日が暮れてきた。
私は途中の無人小屋で泊まることを主張したが,タムさんはあくまでも降りるといって聞かなかった。

 タムさんは普段はとても慎重な人なのだが、山に入ると人格が一変して危険を顧みないところがあった。私は反対に山に入ると実に慎重になるのだから、山は不思議な場所だ。

 日は完全に暮れて懐中電灯等の装備もなかったため,前を歩いていた女性がしばしば谷川に足を滑らせた。
このまま行くと遭難間違いなしと言う状況だったので、タムさんに強く勧めてビバークすることにした。

 登山道沿いにマグロのようになって寝たが、幸いその日は天気だった。実に星がきれいだったが、もし雨だったらかなりひどい状態になったはずだ。
ビバークではほとんど眠れることができなかったものの、翌日は元気に下の祖母谷温泉まで降りることができた。

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(21.6.22) 息子との登山 登山NO15

1987年 41才

雲取山 冬 息子と

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 1986年、1987年
とあまり登山はしていない。この時期はたまたまシステム開発の只中にあり、毎日10時にならないと会社を出ることがなかったため、四六時中疲れていたのだと思う。

 しかし1987年に一度、息子と雲取山に登っている。雲取山は東京の最高峰で約2000m深田久弥日本百名山にも収録されている。

 深田久弥は言う。
三多摩が東京に編入されて以来、この大都市はその一隅に2000mの高峰を持つ名誉を獲得した。・・・東京都に原生林に覆われた雲取山があることは誇っていいだろう

Image1  このときは息子が雲取山に行きたいというので付き合った。息子は12才小学校6年生だった。
おやじ、山に行かないか

 残雪はあったが深くはなく、冬だったので非常に寒く,霜柱が立っていた。息子はこの頃登山を大変好んでしていた。身体にまったく脂肪がついておらず、坂道を飛ぶように降りていったので、私はついて行くのに一苦労したものだ。

 奥多摩は意外と山が深く、一泊しないと雲取山にたどりつけない。雲取山荘に泊まったが、布団がやけに冷たく身体がなかなか温まらなかったことを覚えている。

 このあとで息子は中学1年生の時一人で雲取山に登っている。当時は息子が植村直己のような登山家になってくれたらと思っていたものだ。

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(21.6.21) 家族との登山 登山NO14

1985年 39才 

白馬岳登山 家族 夏

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 この年は家族で白馬鑓から杓子岳を経由して白馬岳2933mに登った。娘が12才で小学校6年、息子が10才で小学校4年生だった。

 白馬鑓には鑓温泉があって,日本でもっとも高所にある温泉だった。登山の最中に温泉に入れるのは最高の幸せで、私は黄昏の山容を見ながらいつまでも湯に使っていたものだ。
湯量は豊富で男湯と女湯があった。
この日は鑓温泉小屋で泊まった。

 翌日は白馬鑓を経由して杓子岳の横を通り,白馬岳に登った。白馬岳の右側は大きく断崖になっていることをそのとき初めて知った。

 深田久弥によれば、白馬岳は「代馬岳(しろうまたけ)」が始原で、その後「代馬岳が白馬岳(しろうまたけ)」に変り、最後はほとんどの人が「白馬岳(はくばたけ)」と発音するようになったのだという。

 白馬山荘に一泊して、帰りは大雪渓を降りた。降りる技術として棒でささえてすべる技術があったが、我々はそうせず、私は片足を上げるスタイルで座って滑りながら降りた。かみさんも娘もそうして下りたが、息子はバランスをとるのがうまく立ったままで器用に両足で滑っていた。

 登山客が驚いて目を見張っていたのを思い出す。大雪渓は登るのにはきついが、片足スキーの要領で下りるとあっという間に雪渓を滑り落ちてしまった。

Image1_2  家族の登山の中では、もっとも楽しめた登山といえる。温泉と高山植物と雪渓を満喫できた登山になった

 

 

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(21.6.20) タムさんとの登山 NO13

1983年 37才

南アルプス聖岳 タムさんと 5月の連休
 

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 私の登山仲間の中で、もっとも多く同伴をしたのはタムさんである。タムさんは私より10才程度年配だったが、40歳代で独力で登山を始めたものの、まだ険しい山行を一人でするのを躊躇していた。

山崎さん、連休に一緒に登ろう」誘われた。
計画はほとんどがタムさんがたて、私はそれについていくことが多かった。
私は当時も今もどの山に登ろうと言うような目的はなく、ただ山に入ることだけが楽しみだったので、どこでも良かったのである。

 それに、当時の体力は自分では特に意識しなかったが驚異的なものがあり、どこに行っても平気だったことも確かで、どこに誘われてもOKをしていた。

山崎さん、今回は南アルプスに連休に登ろう。山頂は雪に覆われているが、北アルプスよりは雪がすくないはずだよ
どこでもいいですよ、ついて行きましょう

Image1  タムさんの作ったルートは、静岡県の奥大井鉄道の終点からバスに乗り、畑薙第一ダムから歩き始め、大井川のつり橋を渡って茶臼岳の登山道を登るルートだった。
茶臼小屋で一泊し、翌日は上河内岳2803mの横を通って聖岳3011mに取り付き、降りてから聖平小屋で2泊目をした。
帰りは聖沢の横の稜線を降りた。

 麓にはまったく雪は残っていなかったが、稜線伝いになるとかなり残雪があり、朝方と夕方は凍っているのだが太陽が昇ると急に雪がやわらかくなって歩きづらいことこの上ない。

 突然、足が雪の中にづぼっと入ってしまうと、その後は懸命なラッセルになってひどく体力を消耗した。
今当時の写真を見ると、聖平から、聖岳の稜線伝いにほぼ直登したのが分かる。

Image2_2  とても天候には恵まれたが、その分雪がやわらかく歩くのには苦労した。5月のアルプスは残雪が多く、また油断すると吹雪にも見舞われるのだが、このときはそうしたことがなく顔が真っ黒になった。

 その後もタムさんとは随分色々な山を登った。
そしてタムさんは私よりはるかに山にのめり込み、5大陸の最高峰エベレスト、マッキンリー、アコンカゴア、モンブラン、キリマンジャロ)をすべて踏破しようとしたが、結果的には3大陸の踏破マッキンリー、モンブラン、キリマンジャロ)に終わったが大したものだ。。

 

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(21.6.19) 家族との登山他 NO12

1983年 37才 

(1) 奥秩父(西沢渓谷の沢登り) Tさん 5月 

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 Tさん
沢登りをしたいという。奥秩父の西沢渓谷は日本有数の沢で、日本一美しいなめ滝が続いていると評判だったので、一緒に行くこととした。
沢への入口は一般道から「危険立入禁止」の立て札がある場所を入り込むのだが、通常の登山者は入山できない。沢登の装備をして、ロッククライミングの基礎はマスターしていないといけない。

 なめの美しい川原が続き,登れそうもない箇所にはトラバースの標識があった。無理して直登しなくてもいいようになっている。

 にもかかわらず私は無理をして滝の側壁を飛んで、滝つぼに落ちてしまった。
このときは直登していたのではなく、滝の縁の3mくらいの場所をへつっていたのだが、急にへつりが途切れたため、1m位前にある崖に飛び移ろうとしたのだ。

 滝つぼに落ちたのは初めての経験だったが,一旦は深くもぐってしまうため、脱げた帽子が水面に浮かんで水中から見ると月のように見えたのを覚えている。
あぁ、お月様が見えている」何とも不思議な感覚だった。

 さすがにそれ以降は無理をせず、天気が良く水も十分有るので,気持ちのいい沢登ができた。甲信武岳の肩小屋で泊まって,破風山経由で降りた。

(2)八ヶ岳(三つ頭,権現岳,赤岳) 8月 家族 

Image0  家族で八ヶ岳に登った。娘が10才小学校4年、息子が8才小学校2年だった。

前回は北八ヶ岳だったので,今回は南八ヶ岳に登ることとした。編み笠ルートではなく,三つ頭ルートで登った。あいにくと雨模様の天気だった。

 権現岳2715mの山頂は岩場になっていて,雨にぬれて滑りやすかった。娘は身体が柔らかいためなんということなく登ったが,息子は岩場で足をすべらせておびえてしまった。

 登山では岩場ではおびえることが一番駄目で、身体が硬直して動けなくなってしまう。こうした場所は気持ちを強くして登らせる必要があるため、「おびえるんじゃない」と大声で怒鳴ってしまった。

 息子はこのときのことを良く覚えていて「子どもを恐怖のどん底に落とすなんてひどい親だ」とあとで何回も言われたものだ。

 赤岳2899mからは真教寺尾根経由で美の森に下りたが,このルートは岩肌が侵食されているため急峻な鎖場が続いていた。私はこの時も子供たちがおびえないように叱咤激励しながら降りたが、本音は自分でも恐ろしいくらいだった。

 やや無謀なルート選定だったが、子ども達に鎖を使用した下降方法を手ほどきしたところ、信じられないような器用さでマスターしてしまった。子どもはほとんど動物に近いと感心したものだ。

 美しの森には会社が契約した山小屋があり、そこに一泊して東京に戻った。

 

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(21.6.18) 文学入門 村上春樹「蛍」

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 河村義人
さんが主催する読書会が昨日(16日)おこなわれた。今回の課題図書は村上春樹氏の「」である。この本を選んだのはビレッジ姉さんで「村上春樹は感性で読むと、すっきりと入ってくる」と言っていた。

 私自身は村上春樹氏の乾いた文体と、「この世は矛盾だらけで、何一つ意味も無く、ただ現象だけが流れる」といったニヒリスティックな態度に驚いたが、なにしろ短編を数冊読んだだけで、村上氏の全体像を批評する立場に無い。

 その点河村義人さんは多くの書物に通暁しており、とくに村上氏の代表作「ノルウェイの森」も当然読んでいたが、河村さんによると「ノルウェイの森」は短編小説「」を長編小説にしたものだと言う。

 以下に河村さんの批評をダイジェストに掲載するが、河村さんとしては村上春樹の作品に物足りなさを感じているのだと言う。
その最大の理由は、単に村上春樹は「反芻する小説家」で「」から「ノルウェイの森」での間に、「何ら精神的な向上がなく、単に短編を長編にしただけだ」ということのようだ。

 もっとも以下に掲載する河村さんの批評は、河村さんの性格を反映してそうした批判があまり表面に出ていないが、口頭説明ではそうだった。

反芻する小説家
河村 義人

 小説家は、比較的しつこいタイプの人間だと思う。粘着質と言ってもいい。どういうふうにしつこいかと言えば、ひとつの体験なりイメージにこだわりがち、ということだ。

村上春樹の場合、財団法人和敬塾での塾生活、高校時代の親友の死、その彼女との奇妙な恋愛関係などがそれに相当する。短篇小説「」の中でそれらは初めて描かれ、長編小説『ノルウェイの森』の中でそれらは反復されることになる。なぜ村上は自らの体験を反芻し、自らの小説の中で変奏してみせたのか。

 「反芻」のしくみ
はじめに体験ありき、で、村上自身に類似した体験もしくは小説とそっくりの体験があったことは疑う余地がない。
寮の「同居人」とか「」(「僕」の親友)とか「彼女」(「彼」の恋人)といった登場人物にはモデルが存在し、彼らと過ごした日々は少なくとも村上にとっては重要だった。

それが前提で、「」の自殺を含む「あの体験は一体何だったのか」という問いが常に目の前に立ちふさがり、自らの体験の意味を知りたいという熾烈な衝動が、作者の村上をしてまず「」を書かしめた、と思われる。

そして、その結果に村上は満足しなかった。実際「」の描写はスケッチ程度のもので、体験の意味を充分に把握したものではなかった。そこで、村上は次に同じ体験をもとに『ノルウェイの森』を書いた。そこでは「同居人」は「突撃隊」に、「」は「キズキ」に、「彼女」は「直子」にそれぞれ書き換えられ、よりいっそう個性なり具体性を帯びてくる。
 

 「反芻」の目的

 小説家のそのような体験なりイメージの反芻の仕方は、小説を書いた自らの経験に照らして、よく理解できる。小説家は、その体験なりイメージを自らの小説の中で完全な形で再現したいのである。

さらに言えば、その中にある《意味》や《》というものをあますところなく表現したい、と常に希求しているものだ。また、欲を言えば、それらの反復は単なる変奏であってはならず、できればバージョン・アップもしくはグレイド・アップであるべきで、志の高い小説家であればあるほど現状に満足せず、常に高みを目指しているものである。

 象徴としての「螢」、村上の死生観

 表題が示す通り、「」ではホタルという虫が重要な小道具として使われている。そのホタルの来歴は、「」の「同居人」が「近くのホテルが客寄せに放した」うちの一匹を捕え、「」にくれたものだ。

その「近くのホテル」はどうやらフォーシーズンホテル椿山荘らしく、そうとわかると妙に納得が行く。山県有朋の私邸の跡地に建てられたそのホテルでは、初夏にはホタルの放虫が恒例となっているからだ。

その一匹の弱ったホタルが象徴しているものは、精神失調を来して京都の「療養所」に入所した「彼女」の存在と見てほぼ間違いあるまい。それにしても、そのかそけき光の何と頼りないことか。

 作中では、「僕」の高校時代の親友である「」の死が主調低音のようになっている。あたかもそれは中上における兄の死と同様に村上にとって「一番はじめの出来事」であったかの感がある。親友の死が「僕」にもたらしたものは、「死とは生の対極としてではなく、その一部として存在している。」という死生観だが、同一の表現が『ノルウェイの森』の中にも見える。

このことは、村上の死生観がよほど揺るぎないものである証のようでもあるし、単に小説家としての怠慢であるようにも見える。別々の作品で同一表現の死生観を示すことについては、全く逆の見方ができるのである。
 
 とんでもない結論

 突飛なことを言えば、自らの体験を反芻する小説家は、体験の完成形である「人生回顧」に向けてせっせとそのシミュレーションを書いているようなものだ。

死ぬ時に体験の全ての意味が明かされるのであれば、何もあれこれ穿鑿する必要はなさそうなものだが、小説家という種族の場合はそうは行かない。シミュレーションの当否がどうあれ、死ぬまで体験の意味(=真実)を模索せずにはいられないのである。(了)

(注)河村義人さんの批評の全文は以下のURLをクリックすると読むことができます。
http://yamazakijirou1.cocolog-nifty.com/shiryou/2009/06/21618-0266.html

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(21.6.17)ちはら台走友会の24時間走 夢の島チャリティマラソン

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 この13日(土)13時から14日(日)13時にかけて、夢の島24時間走ちはら台走友会のメンバーの一員として参加した。
夢の島は昔はゴミ処分場で、蚊やハエが飛び交っていた場所だが、現在は陸上競技場や公園が整備されたとても美しい場所になっている。

 ちはら台走友会のメンバーは8人で、このメンバーでリレー方式で24時間走る競技で(人数については各チームまちまち)、1周1266m周回路(陸上競技場の周り)を何回走ったかによって順位が決まる。

21614_039  24時間走以外に12時間走6時間走4時間走の種目があり、またそれがリレー個人に分かれおり、全部で3500名の参加者と言うから、この種の競技としては大イベントだ(通常は1000名以下のこじんまりとした大会が多い)。高校生や大学生はシリアスに走っていたが、一方仮装ランナーも多く、何かお祭りのような雰囲気もある。

 私は昨年臨海副都心舟の科学館の周辺で行なわれた24時間走個人走として出ていたので競技そのものには慣れていたが、リレー個人走は随分違うものだと言うことがよく分かった。

 個人走の場合は自分のペースでただひたすら走ればよく、疲れてくれば適当に歩いたり休んだりできるが、リレーの場合はそういうわけには行かない。
一緒に参加していた走友会のY会長が「1kmのダッシュを何回も繰り返すようなものだ」と言っていたがその通りで、目いっぱい走らされてしまう。

 しかし年を取ると速く走るのは至難の業なのだ。
年配のランナーは自分の経験として理解しているが、年齢を重ねるにしたがって筋肉、分けても速筋が衰えてきて速く走ることができない。
いきおい遅筋を使って走るのだが、いわゆるすり足で歩幅も短くペタペタ走りになる。これだと長時間走れるが、スピードとは無縁だ。

 それでも今回はペタペタ走りで、目いっぱいの走りをした。
なにしろリレーだからチームに迷惑をかけるわけにいかないし、それにメンバーにゴールド姉さんがいて、私はいつもゴールド姉さんといいとこ勝負なのだ。
ゴールド姉さんがいるときは、ライバル意識が燃えて手抜きができない。

 今回は最初こそイーブンだったが、時間が経つにしたがってゴールド姉さんに差をつけられた。
うぅーん、また負けたか」年甲斐もなく悔しがる。

 ちはら台走友会の成績は(速報では合計246周走り、約311kmで順位は132チーム中25位だったようだ。
この競技はフルマラソンの距離をダッシュで24時間かけて走ったようなもんだな」とY会長が述懐していた。
実際そんな感じで、特に高校生や大学生の若者のチームは100mダッシュのような走り方をしていた。

21614_030  休憩はテントを張ってその場所で適当に休む。リレーの場合は自分が走っていない時間帯は休めるが、眠り込むと言うことは無い。
Y会長と私は24時間走のような眠らない競技には慣れていたが、他のメンバーは始めての経験で「走友会に入ったおかげで、思わぬ経験ができた」と感激していた。
やはりこうした競技は一人で走るよりもチームで走る方がはるかに楽しい。気分も高揚してくるし、時間の経過も個人走の場合より早く感ずる。

 もっとも私は最後の6時間ぐらいはフラフラになってしまい、かろうじて足を出している状況だったが、それでも終了した時は感激したものだ。

大会の雰囲気が分かる写真を添付します。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/21614?authkey=Gv1sRgCLuctYrL65_svgE#

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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(21.6.16) 熊谷新市長おめでとう 千葉市長選挙結果

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 14日
に行なわれた千葉市市長選挙において、熊谷俊人氏が当選した。
投票率は43.5%で、前回の市長選の投票率より6.30%高かった。
今回は鶴岡前市長が収賄罪で警視庁に逮捕された後だけに、投票率も上向いたのだろう。

 ただ私のイメージではもう少し投票率が高くなってもよさそうに思ったが、現状の地方選挙に対する関心は、この投票率程度であることも事実だ。
私自身もつい最近までは、地方政治について「住民税を払っておけばいいのだろう」という感度だったから、あまり大きなことは言えない。

 鶴岡前市長は住民の意識がその程度だったことをいいことに、箱物行政を押しすすめ、総務省の調査で夕張市の次に財政状況が悪い地方公共団体と発表されてしまった。
特に千葉都市モノレールの建設では約400億円徳政令を実施して県と折半して支えなければならなくなっていたほどで、ほとんど採算を度外視した建設と言える。

(注)これについては「千葉都市モノレールを守ろう」で詳述したリンクが張ってあります)。

 これほどひどい財務状態だったが鶴岡前市長は失政と認めず、なおも箱物行政にこだわっていたが、とうとう業者との癒着がばれて逮捕されてしまった。
この鶴岡前市長を支えていたのが、今回立候補した林前副市長だから、林氏が当選したら全国の笑いものになるところだった。

 こうした危機を紙一重のところで救ってくれたのが熊谷新市長で、熊谷氏の勇断によって、千葉市の名誉は守られたことになる。
なにしろ鶴岡前市長が逮捕されたあとも、林候補の優位は絶対と思われていたので、若き熊谷氏以外に渦中の栗を拾う人はいなかった。
当初は「まあ、熊谷なら敗戦しても仕方ないとみんな思うだろう」という感度だったのは事実だ。

 しかし世の中などは何が起こるかわからない。しばらく前までは小沢前代表の政治資金問題で民主党に逆風が吹いていたが、今度は鳩山総務相の辞任問題で自民党に逆風が吹き出した。
政治は一寸先が闇なのだ。

 若き熊谷氏箱物行政から市政を転換すると表明して市民が奮い立った。さすがに市民も千葉市の財政状況の悪化は座視できないと思うようになったし、林氏が当選すれば今までとは何も変わらないことも確かだったからだ。

 しかし熊谷氏の勇気にはほとほと感心してしまった。ほとんどの人が勝てないと思っていた選挙に立候補して勝利してしまうのだから、大したものだ。
もっとも選挙の途中からは千葉日報熊谷氏優位を報じ始め、自民党の懸命な巻き返しもあったが、それも跳ね除けてしまった。

 今回熊谷氏を支持した市民ネットの福谷議員の話では「熊谷氏が当選した場合を想定して、議会内ではすでに熊谷包囲網が作られ始めていた」のだそうだ。
熊谷氏の与党の民主党市民ネット少数与党であり、自民党公明党が過半数を超える議席を握っている。

 だから熊谷新市長を選挙の時だけでなく、日常的にも市民が支えなければ議会内で孤立してしまう。
それでは選挙で約束した公約が実現ができなくなるだろう。

 私は熊谷新市長の公約である箱物行政からの脱皮を強く支持しており、千葉都市モノレールの延伸を阻止すべきだと、このブログでも何回か取り上げて来た。
だから熊谷氏を支持した一人として、熊谷新市長が孤立しないようにこのブログで継続して熊谷氏を応援していきたいと思っている。

 

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(21.6.15) 温室ガス削減交渉は亀の歩み

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 世の中で温室ガス削減交渉ほどひどい交渉は無い。正式名を気候変動枠組み条約(略してCOP)と言うのだが、その97年COP3で日本は2012年までの間に、90年対比6%の削減を義務づけられた。

しかしその間、日本の温室効果ガスは減るどころか10%程度増加したために、都合16%(6%+10%)の削減を12年までに実施しなくてはならなくなった。

こりゃ、とても駄目だ。足らないところは排出量をヨーロッパから購入しよう」と言うことになっており、購入金額は数千億レベルだ。
この交渉では主として日本だけがペナルティーを払うことになっている。

 なぜ日本だけかというと、この京都議定書には他の温室効果ガス排出国が入っていないからである
06年
現在で排出量がそれぞれ20%アメリカ中国合計40%)がさっさと抜けてしまい、残ったのはたった29%のヨーロッパと日本とロシアだけになってしまった(ロシアには実質削減義務が無い)。

 しかも近年ますます中国アメリカ(それとインド)の比率が高まっており、いくらヨーロッパ日本ががんばっても温室ガスは絶対に減らない。
だから京都議定書は単にヨーロッパが日本から金を奪うだけの協定で、温室効果ガス削減にはまった役立たなかった。

(注)この間の事情については「京都議定書は国際連盟か」に詳述した。
http://yamazakijirou.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/2057_e539.html

 そして今回、(12年以降の13年以降20年までの中期目標を設定する温室ガス削減交渉COP15がこの12月から始まる。
それに向けて麻生首相日本の中期目標を「05年対比15%減、90年対比8%減」と打ち出した。

 さすがに日本も教育効果があったと見えて、ばかばかしい目標設定はしなくなった。
国連は先進国に対し90年対比、25%~40%の削減目標を設定するよう要望している。
しかし各国は慎重で、温室効果ガス削減に熱心なEUでも90年対比20%、05年対比14%の削減だ
アメリカは90年対比0%、05年対比14%削減の方針で非常にゆるい目標設定にしている(アメリカはオバマ政権になって温室ガス削減交渉に参加する姿勢を見せている)。

 現在問題になっているのは以下の3点である。

① 基準年を90年とするか05年にするか
② 目標数字をいくらに設定するか
② 中国、インド、ブラジルと言った新興国をこの枠組みに加えられるか


 基準年を90年にすると、05年までに削減努力をしてきたEU(▲7%)に有利で、削減努力をしなかったアメリカ(+14%)と日本(+7%)が不利。05年派は過去のことは水に流して、05年から本格的に削減しようといっているわけだ。

 目標数字は国連の要請は90年対比25%~40%削減だが、とても不可能なので先進諸国のどこもまともに取り合わない。
各国もできる範囲内で実施することに目標を設定した(
京都議定書では日本はできもしない目標に同意した)。

 今回も、中国、インド、ブラジルはまったく枠組みに参加するつもりは無い。たとえアメリカが入ったとしても世界全体の50%程度の割合で再び温室効果ガス削減については、ほとんど効果がない。
温室効果ガスを減らすのが目的であればぜひともこれら新興国を取り込む必要がある。


 もし、OOP15で、京都議定書の時と同じくアメリカが逃げ、中国やインドに削減義務がないならば、日本もアメリカ、中国、インドと同様、枠組みには参加せず自主的な削減目標を掲げた方がよい。
そうしないと再び日本だけがヨーロッパにペナルティーを払うだけの京都議定書の二の舞になる。

 地球温暖化対策というものは先進国、新興国の別なく世界的規模で実施することが必要なのだが、それを中国やインドが悟るまではじっくりと構えていた方がよく、日本が世界をリードする必要などまったくないのだ。

 

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(21.6.14) ブログの書き方について

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 私はすでに2年半にわたってブログ毎日書いてきたのだが、最近ブログの書き方について少し悟ることがあった。
これは特にこれからブログを作成しようとしている人や、すでに作成しているのだが書き方が分からず悩んでいる人のために記載しているのだが、かなりの効果があるものの実際に行なうとなると注意が要る方法である。

 ブログを書いていて最も悩むのがブログネタに窮する場合で、「今日は一体何を書いたらいいんだろう」と悩む時ほどつらいことはない。
ブロガーなど別に金をもらって書いているわけではないから、「今日は書くのを止めた」と割り切ってもまったく問題はないのだが、何か精神的に落ち着かない。
書かないと読者に申し訳ない気持ちと、書くことが当たり前と思っている気持ちにさいなまれる。

 私のブログは毎日ほぼ300名前後の方が読んでくださるのだが、ここまで到着するのに2年半の努力が必要だった。
苦節、2年半だ」思えば長かった。これを再び一から始める気力は無い。

 一番困るのは書かなくなると雪崩をうったように読者がいなくなることで、それが怖いためブロガーは必死になってブログネタを探すことになる。何かブログを書くために生きているような状態だ。

 私のブログは、最初四季の道清掃活動を主体に記載していたのだが、毎日書くとするとネタ切れになってしまった。
そのため経済評論文芸評論まで書くことになったが、書く場合の準備にある重要なスタイルがあることに気付いた。

 まず大事なことは、本を読んだり、テレビを見たり、会合に出席したり、あるいは人と話をした場合、それがある一定の時間を要する場合たとえば2時間以上)は、すべてブログネタと認識することにした。
そうしないと別途ブログネタを探している時間がなくなってしまうからだ。

 以来本を読めば必ず感想文にまとめ、テレビを見ているときはメモをとり、会合ではその会合の主旨を取りまとめ、人の話でオリジナルな情報は必ず記憶するようにしている。

 
こうしておくとブログを書くのはいとも簡単で、あとは気に書きあげることができる。
これでばっちりだ。もうブログネタで悩むことは無い
私としてはすっかり悟ったつもりで、これを実行していたら思わぬ副作用があることが分かった。

 実は人間の身体には限界があり、長期の緊張感に耐えられないことに気付かなかった。毎日、新聞記者や放送記者みたいにメモを取り続けていたら、胃に炎症がおこり体調不良を起こしてしまった。
うぅーんそうか、この方法にも限界があるんだ

 どうやら結論としては何事にもメモを取っておくことは大事だが、時々休みを入れないと身体を壊すと言う、実に常識的な悟りを開いてしまったことになる。

 どうだろうか? ブロガーに参考になったろうか?

 

 

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(21.6.13) 市民の手で千葉都市モノレールを守ろう

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 みんなで千葉都市モノレールを守ろう。油断すると市当局と土建会社が共謀して再びモノレールを食い物にしてしまうからだ。
千葉都市モノレールの延伸計画のことである。
県庁前から市立青葉病院までの約2kmを延伸し、それには176億円必要だという市が試算している。

 実は千葉都市モノレールは乗客がまったく伸びない。当初計画では1日あたり16万人の乗降客を見込んだが、実際は平成7年4万5千人を越えた頃から乗客数は減少に転じてジリ貧になり、最近になってようやく4万5千人18年度)に戻ったところだ。
モノレールの懸命な営業努力でも4万5千人が限界に近い。

 最大の理由は市の人口が伸び悩んでいることもある(当初は2000年に117万人になると予測したが、実際は09年で95万人)。ただしそれ以上に当初計画は乗客数を上乗せした。
モノレールを作るためだ。何でもいいから数字をかさ上げしろ

 結果的に約3.5倍もサバを読んだ計画を作って、2560億円の巨費を投じ、結果として大赤字になってしまった。累積赤字が05年296億円に達したため、06年に懸命な再建計画を作成し、

 100億の資本金を1億に減資し、さらに
 県と市の貸出金204億を棒引きし、
 減価償却資産90億円を市に肩代わりさせた。

 約400億円の徳政令だが、こうして千葉都市モノレールを身軽にさせ、ようやく07年、08年と単年度収支で黒字化にこぎつけることができた。
よかった。これでどうにか独り立ちできた

 ところが喜んだのもつかの間、ようやく単年度収支で黒字にできた千葉都市モノレールを、無理な建設を強行して赤字企業にしようというのが、この延伸計画である。

 延伸計画を推進しようとしている市の高梨室長によると「延伸で一日平均乗客数が約8800人増え、83億円の増収を見込む」(毎日新聞)という。

 一体どのように計算したらこのような数字が出てくるのだろうか。
現在の乗客数が延伸割合で増加すると仮定すると、
45000人×2km/17km=約5300人 となる。これが常識的な数字だ。

 市の当初計画では16万人という3.5倍のサバを読んだが、さすがに今回は約1.7倍(8800÷5300)のサバに止めている。しかしサバであることには変りが無い。

 通常民間会社が設備投資をおこなう場合、3種類の予測を作成する。もっとも楽観的な予測通常の予測、そして悲観的な予測である。
民間会社では、この中の悲観的な予測であっても、なお収益を確保できるかを判断して投資を行なうが、一方公共団体の場合はもっとも楽観的な予測を前提に投資を行なう。

 これではうまく行くと思うほうがどうかしている。
せっかく19年度4億円の黒字が出たと思ったら、延伸計画が実行に移されると私の試算では約7億円の赤字企業になってしまう。

千葉都市モノレールの延伸問題参照(リンクが張ってあります

 一方高梨室長83億円の増収と言う数字は何の数字かまったく分からない。なにしろ19年度の運輸収入が30億円なのだから、どう計算しても83億なんて数字は出てこない(もしかしたら8.3億円の間違いかもしれない。これなら私が試算した増収4億の1.7倍=約7億に近い)。

 今回、はっきりと私たち市民は言うべきだ。「もっとも楽観的な数字で収益があがるとでっち上げ、挙句の果てに千葉都市モノレールを赤字会社に落とすのは止めよう

 今回の市長選挙ではこの延伸問題が一つの争点になっている。
① 延伸して都市モノレールを再び赤字にするか、それとも②単年度黒字を確保した都市モノレールを守るのか 問われている。

  この延伸問題鶴岡前市長の公約だったが、これを継承して市当局と土建会社の餌食にしては千葉都市モノレールに未来はない。
だから、千葉都市モノレールを守るため「延伸を阻止する」と私たちは表明すべきだと思う。

 

 

 

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(21.6.12) 精神性胃炎に悩まされる

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 正直に言うが、私は精神的なショックに弱い。何か大きなイベントがあったり、失敗をしたり、家族に問題が発生したりするとすっかり病弱になってしまう。

 はたから見ても病人そのものなので、散歩おじさんが「山崎さん、元気がないね。どうしたんだろう」と心配してくれた。

 原因はサンチャゴ巡礼である。この年になって巡礼の旅をすることが心に重くのしかかってくる。
異国の土地で言葉もしゃべれず、お遍路さんをして行き倒れになったらどうしよう
気持ちが段々ナーバスになってきた。

 さらに事前準備としてお遍路をしている間のブログの溜め込みをしたり、巡礼案内書を克明に読み始めたら、胃がしくしく痛み始めた
お遍路をしている間、ブログを中止しているわけにもいかないし・・・・・・・」ブツブツ。
言葉が分からないのだから、地図を頭にたたきこんで・・・・・ここにはマリアの像があって、その道を右に曲がって・・・・・・・」ブツブツ。
完全に病人になってしまった。

 静かにしていると胃の不快感が増す。しかも段々と悪くなる。
これは癌になったに違いない。どうしよう」いつもの癌ノイローゼが始まった。

 こうした時は名医かない先生に診てもらうに限る。かない先生は鎌取駅前にかない内科というクリニックを開設しているのだが、2年ほど前に同じような症状で診察を受けた。

 その時先生は私を診断するなり「癌ノイローゼ」だと一目で見抜き、なんと漢方薬の処方をした。
私は当初かない先生はヤブではないかと思ったが、漢方薬を飲んでいる間にすっかり胃の調子が良くなった。
かない先生は患者の心を読んでしまう名医だ。

 今回また胃が不調になったのはサンチャゴ巡礼が迫ってきて気持ちが重くなり、そのため胃酸過多になっているはずだが、一方で重篤な病気になっている可能性もある。
何せ、俺もすぐ63歳だ。いつ癌になってもおかしくない。私ぐらいの年齢層の人間の死亡原因はほとんどが癌だ

 悶々としていたら、さらに胃酸がでて動くこともきつくなってきた。清掃活動をした後は家で寝込んでしまう。
まずい、一刻も早くかない先生に診てもらおう

 先生は私の体を見て「なかなかのスポーツ選手ですね」と言ったが、こうした体格の人が病気で無いと今回も確信を持ったようだ。
念のために、胃カメラで見てみましょう

 今日(9日)、かない内科で胃カメラを飲んだが、20年前と違って随分楽になっていた。昔は胃カメラを飲むのは大変で、癌研で胃カメラを飲んだ時、私の前で検査を受けていた老人は看護婦が3人がかりで抑えても暴れまわっていた。
私はそれを見て震え上がり「二度と胃カメラだけは飲みたくない」と思ったものだ(私の場合はその老人ほどはひどくなかったが、気持ちの悪さは相当のものだった)。

 今回の結果は、「癌も潰瘍も無く、十二指腸への出口付近に軽い炎症がある以外は問題ない」とのことでほっとした。
いつもの精神的病だとは分かっていても先生に診てもらうまでは悶々としてしまうものだ。
当日の午後にはすっかり体調が回復した。
今までぼこぼこ出ていた胃酸がおさまったのだろう。

 しかし私の心の弱さは相変わらずだ。イベントの前には必ず体調を崩すパターンから逃れられることができない。そのときはまたかない先生のところに駆け込むことになってしまうだろう。

 


 

 

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(21.6.11) すべてが壊される

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(破壊されたおゆみ野の森の掲示板)  

 先日泉谷中学校の窓ガラスを破壊した犯人が逮捕されて、やれやれと思っていたら、今度は千葉市長選の選挙掲示板が2ヶ所、おゆみ野の森の掲示板が1ヶ所破壊された。

 いづれも8日から9日にかけての夜半と見られ、同じような破壊方法から同一人物(集団)による破壊行為と思われる。

(21.6.13追加。おゆみ野の森の看板の破壊行為を発見したのは8日の早朝だったので、選挙掲示板の破壊の1日前だったことが分かりました

 私が直接見たのはおゆみ野のりくら公園前に設置されている選挙掲示板で、ベニヤの看板を強引にはがしたという状態だった。

 昔よくあった特定の候補者に対する妨害ではなく、掲示板そのものを破壊することが目的だったことが分かる。
ここのりくら公園には夜半中学生から中学卒業生と見られる集団がたむろしており、清掃活動に行くと、毎回のように飲み干した空き缶、マクドナルドの包装紙、大量のトイレットペーパーのちぎれがあたり一面に放置されていた。

 特にトイレットペーパーのちぎれは、おゆみ野地区の他の破壊活動(公園ベンチをこのトイレットペーパーで焼く)時にも良く利用されているもので、不穏な雰囲気を感じさせる。
トイレットペーパーのあるところ犯罪あり」だ。

21610_033  今回の選挙掲示板の破壊はのりくら公園の掲示板の他に、扇田小学校近くの中の川に設置されていた掲示板の2ヶ所、その他に中の川の下流のおゆみ野の森の掲示板が破壊されていた。
(注)コメントであずきさんがさらに1ヶ所の選挙掲示板の破壊を教えてくれた。掲示板の破壊は計3ヶ所だった。

 どう見てものりくら公園から出発した一団が中の川を通って、おゆみ野の森まで行ったと見えるのだが、残念ながら確証はない。 

 選挙の掲示板の破壊は明らかに公職選挙法違反で警察も真剣に犯人探しをしていると今日(10日)の毎日新聞に載っていた。
千葉南警察泉谷中学校のガラス破壊犯人の逮捕でも分かるとおり、最近は犯罪に対し毅然とした対応をとるようになっているので、早晩犯人逮捕がされるのではなかろうか。

(注)破壊された選挙掲示板はすぐさま取り替えられ、ポスターも再び貼られて元のスタイルに戻っている。写真は元に戻された掲示板

より大きな地図で 破壊された掲示板の場所 を表示

 

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(21.6.10) 千葉市の埋蔵金問題 基金の取り崩しは条例違反

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 千葉市埋蔵金がいくらあり、それをどのように使用しているか調べているが、いま一つ明確な数字が無い。
千葉市も国と同じで、財政状況が厳しくなったため一般会計埋蔵金を繰り入れて何とか帯を結んでいるのだが、そもそも埋蔵金がいくらあって、そのうちいくらを使って、残りはいくらなのかがいま一つはっきりしないのだ。

 また埋蔵金の定義もかなりあやふやで、一般的には特別会計の積立金や運用益を言う
千葉市には市債管理基金市庁舎整備基金と言うような基金があり、前者は市債の償還のための積み立て、後者は市庁舎建替えのための積立金である。

 たとえば市債については30年で一括返済するとそのときに多額の償還金が必要になるが、とてもいっぺんに払いきれない。
そのため30年間にわたってコツコツを償還金をためていくのだが、それが市債管理基金である(ため方には国のルールがある)。

 一般家庭でもそうだが、家計が苦しくなってくるとある目的を持って蓄えていた資金を生活費に使ってしまう。
あとでもどせばいいや」という感じだ。

 しかし一旦生活費に使用してしまうととても戻せないのは家庭も市も同様で、現在この市債管理基金が枯渇し始めた
千葉市のIR資料「千葉市の財政状況」によると、20年5月段階の基金残高は全体で342億円うち市債管理基金 222億円、市庁舎整備基金 36億円)になっている。
これが、一応埋蔵金と言うことになる。

 この埋蔵金について民主党の白鳥誠一氏の「市政報告」によると、基金からの借入は「6年前から急場しのぎの策として毎年行なわれている」とのことで、21年度には市債管理基金から70億円(前年度15億円)の借入を実施するのだそうだ。
そのため全基金からの借入金は総額247億円に膨れ上がるのだという(基金の残高がそれだけ不足していることになる)。

 特に問題だと私が思ったのは5年前市債管理基金から借りうけた60億円の返済ができず、返済を先延ばしにしたと言う。

 鶴岡前市長自分勝手に基金を取り崩したり返済の引き延ばしをしていたのだが、もちろん基金の取り扱いにはルールがあり、以下のように条例で定められている。

市長は、財政上必要があると認めるときは、確実な繰り戻しの方法、期間及び利率を定めて基金に属する現金を各会計の歳計現金に振り替えて運用することができる」と定められている。

 この条例をよく読んで欲しい。特に重要なのは「確実な繰り戻しの方法」という文言で、返せるあてが無ければ借りてはいけないと言うことだ。
しかし鶴岡前市政はまったく返せるあてがないのに、基金から借金をし、実際5年前に借りた60億円の返済ができなくなった。
これは明確に条例違反と言える。

 なぜ返せるあてがなくなったかは以下の理由である。

① 景気後退により法人税収入が大幅に落ち込んでいること。
② 従来の箱物行政による市債の増発で償還金が膨れ上がり、国の早期健全化基準に抵触する恐れがでてきたこと。
③ そのため20年度予算から市債の発行の抑制をせざる得なくなったこと

 従来は予算の不足分は好き勝手に市債を増発してまかなっていたが、2年前から国の基準が厳しくなり市債増発ができなくなって、基金を返済できなくなったと言う構造だ。

 実際21年度当初予算は惨憺たるもので、220億の収支不足に対し、禁じ手の市債の増発を50億加えて400億にし(財政健全化プランでは350億に留めなければ早期健全化プランを達成できないと計算されていた)、市債管理基金から70億の借入と60億の返済繰り延べで計120億円調達して、かろうじて帯を結んでいる。

 鶴岡前市長も苦しかったろう。市債の発行は国の「早期健全化基準」に抵触しそうなので抑制せざるを得ず、一方基金の取り崩しは条例違反をしてまで取り崩し、さらに今までのは箱物行政も継続しようとしている(千葉都市モノレールの延伸や蘇我スポーツ公園の整備等)。

 これでは八方ふさがりで市長を辞職したくなるのはもっともだ(実際は収賄容疑で逮捕されたため辞職した)。

 千葉市の財政は火の車であり、現在の市長選の争点は、市の財政問題への取り組み姿勢がもっとも重要な判断基準でないかと私は思っている。

(注) 千葉市の財政が崩壊寸前にあることが分かったのは、総務省が財政健全化法(07年6月)を制定し、市町村の財務状況を同一基準で横並び比較したことが一番大きい。
総務省としては夕張市に見られるような市町村の倒産を早期に把握して、対応策をとる事を目的に制定したのだが、千葉市については思わぬ波及効果があった。

 それまで千葉市では野放図とも言える市債の発行で箱物行政を推進してきたが、この財政健全化法に基づく横並び指標で、政令指定都市の中で最悪の財務状況であることが判明したからである。

 鶴岡前市長は平成20年度から緊縮予算を組むことにしたものの、それまでの1兆円あまりの公債発行が市政に重くのしかかり、かつ景気後退局面という外部環境の悪化が重なった。

 そのため、ためていた基金を取り崩したり、過去の基金への返済を取り止めて(これは条例違反)かろうじて21年度予算を組んだというのが実態。

 箱物行政しか方法を知らない鶴岡前市長としては、どうすることもできず、市政を投げ出したというのが真実に近そうだ

 

 

 

 

  

 

 

 

 

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(21.6.9) 泉谷公園の「蛍のみちしるべ」

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 今年も泉谷公園で「蛍のみちしるべ」という行事が6日7日の夜半に行なわれた。
蛍のみちしるべ」とはこの時期に泉谷公園の「蛍の生態園」で飼育している蛍を泉谷公園の菖蒲園一帯に放出するのだが、それにあわせて生態園から泉谷公園に降りる下降路に竹のキャンドルスタンドを設置する行事である。

 かつてはここ泉谷公園でUR都市機構がバックアップして大々的な蛍祭りが開催されていたが、いつの頃か取りやめになり、代わりにこの「蛍のみちしるべ」と言う地味だが楽しい行事が行なわれている。
竹のキャンドルスタンドに火がともり、蛍が舞う幻想的な行事だ。

 地区の人たちもこの時ばかりは、7時ごろから泉谷公園の菖蒲園に集まり、子供たちは蛍を追いかけてはしゃぐ。
6日の夜に蛍を見に行った散歩おじさんから聞いた話では、300名程度の人が集まっていたという。
私は6日の夜は都合があったので、7日の夜に出かける予定でいた。

 この祭りの準備のために1週間前から竹のキャンドル作りが始まる。今年は約350個用意したのだが、竹の手当てはおゆみ野の森Nさんが用意してくれた。
Nさんはこうした行事の裏方としては欠かせない人で、大きな孟宗竹を10本程度切って運んできてくれた。

 この行事は「おゆみ野子どもまちづくりクラブ」が主体的に行なっているのだが、今回は私もキャンドル作りに参加してみた。
行ってみると顔見知りのお母さんやお父さんが多い。

2168_003  太い孟宗竹を切るのはなかなか骨の折れる作業で、子供たちは悪戦苦闘していた。
みんなで機械とのこぎりでキャンドルを約350個作ったのだが、私は最後はクタクタになったほどだ。

 今回は竹キャンドルを作る作業も手伝ったので、どのような状況か「蛍のみちしるべ」を見ようと7日の夜、泉谷公園に出かけてみた。
竹のキャンドルはクラブの子供たちが道沿いに設置してくれる。

 蛍が舞うのは7時半頃から9時ごろまでだが、私は7時半ごろには眠くなって家に帰ってしまったので、蛍が舞っている場面は見ていない。
最近は夜の8時ごろには寝てしまうので、夜の行事はことのほかつらいのだ(一番上の写真はキャンドルをカメラを動かして撮ったもので、蛍ではない。蛍と思われた方もいたのではなかろうか)。

 なお蛍の成育は泉谷公園生態園で行なっているのだが、そこの責任者の木村さんに1年前に話をきいている。とても参考になる話で以下のURLをクリックすれば読むことができる。
http://yamazakijirou.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/20619_3caf.html

 


 

 

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(21.6.8) 魔か不可思議な みずほ銀行行員の詐欺事件

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 信じられないような詐欺事件みずほ銀行で発生した。
直接の容疑は、みずほ銀行元調査役野邑(のむら)貞夫容疑者52)が架空の投資話みづほ銀行で元本保証、年利10%で米国債の秘密運用をしている)を会社経営者に持ち込み、1800万円を騙し取ったと言うものである。
その他の被害総額を合わせると約12億4千万円だそうだ。

 銀行員が「高利回りの秘密運用がある」といって会社経営者等から金を騙し取る手口はおなじみのケースで、それには驚かなかったが、今回は同行職員18名からも約4億6千万円を騙し取ったと言うのである。

 これには驚いた。一般人ではなく銀行のプロ18名もだまされたと言うのである。
会社経営者に対しては「頭取印を偽造した預り証」と「偽造の見積書」、それに見積書には組織上存在しない「資金運用部の部長名」が記載されていたと言うが、確かに外部のものにはこれが有効でも、内部のもにはまったく効果が無い。

 内部のものなら「資金運用部」という組織が無く、「資金運用部長」などいないのはすぐ分かるからだ。

 どうやら今回の詐欺話外部向け内部向けがあり、野邑容疑者内部では私設のファンドを運営していたのではないかと思われる。
私も元金融機関の職員だから分かるのだが、金融機関の職員の中には、株式の運用に自信があるが、なぜか出世競争には取り残された人がいる。

 野邑容疑者52歳調査役だから、明らかに金融機関の職員としては落ちこぼれだ。
こうした境遇の人の対応は二通りに分かれ、① 銀行の出世競争から離れれてもっぱら趣味に生きる人と、② 何とか自分の実績を金儲けと言う手段で実現しようとする人に分かれる。

 野邑容疑者の場合は明らかに後者で、株式運用のノウハウで少なくとも金融危機が発生するまでは世界のヘッジファンドと同様に、かなりの高利回りを実現していたはずだ。
そして同僚に「融派生商品に投資すれば、10%の利回りは確実なのに、俺の銀行は無能だからそうした投資機会を逃している。
私に資金を預ければ確実に10%の利回りを約束する
」と誘ったはずだ。

 そうでなければみずほ銀行の同僚18名が4億6千万円も資金を預けるわけが無い。
また、こうしたファンドを野邑容疑者00年から約8年間に渡って運営していたのだから、その間は確かに運用実績は良かったのだろう(なお金融機関の職員が他のビジネスを兼営することは内部規約で禁止されている)。

 しかし08年の金融恐慌が野邑容疑者のすべての努力を水泡に帰して私設ファンドが倒産し、明らかに詐欺容疑が成立する会社経営者に対する投資話(架空の投資案件で頭取印を偽造)で逮捕されてしまったようだ。

 野邑容疑者としてはほぞをかむ思いだろう。
確かに資金運用部はなかったが、俺が資金運用部で運用部長だったのだ。金融恐慌以前は10%の確定利回りは確かに稼いでいた。すべてはリーマン・ブラザーズの倒産のせいだ

 今回の野邑容疑者の逮捕事件で世間にはかなりの私設ファンドがありそうなことが分かった。
今後、そうしたファンドをめぐって訴訟騒ぎや悲喜劇が発生することを予感させた事件だ。

(注)なお、こうした裏ファンドで得た収益は、しばしば所得隠しが行われるので、対象者は所得税法違反の容疑がかけられるだろう。

 

 

  


 

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(21.6.7) 儒教国家北朝鮮の後継者問題

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 金正日総書記
が老いの一徹で最後の賭けに出ている。昨年の8月脳疾患で倒れた後、すっかり身体が弱った金総書記だが、それだけに後継者問題で執念を燃やし始めた。

俺の命は短い。何とかして後継者に磐石の国家を残さなければ金王朝が崩壊する
選ばれたのは3男の金正雲氏(26歳)だと各国のメディアが一斉に報じだした。

 金正雲氏は党組織指導部長で、金総書記の愛情を一身に受けていると言われ、先月行なわれた2回目の核実験のあと、正式な通達が労働党幹部や軍幹部に伝えられたと言う。
金正雲を尊敬しろ

 北朝鮮が友好国中国の制止もまったく聞かず、長距離弾道ミサイルの発射実験核実験を強行しているのは、すべて金総書記の健康不安から来ている後継者問題があるというのが、観測筋の見方だ。

 北朝鮮の経済は完全に崩壊しており、そのため北朝鮮は精巧な偽札を作ったり、高品質の覚醒剤を作って外貨を獲得してきたが、アメリカ、中国、日本の官憲の目が厳しくなって、外貨稼ぎもままならない(ただし偽札についてはまた出回り始めたとアメリカの当局が警戒している)。

だから俺が死亡した後に残せるのは、ミサイルと核弾頭だけだ
最後の金総書記遺産相続というわけだ。

 現在アメリカが最も恐れているは、ミサイルと核弾頭がアルカイダのようなテロ組織に流出することである。
それゆえアメリカと日本は、強制的な船舶の臨検を国連制裁決議に入れようとしたが、今回も中国の反対で強制力は無くなった

 しかし追い詰められた北朝鮮は危ないビジネスに走る可能性が高い。

 一方で金正雲氏の後継問題は北朝鮮内部においても物議をかもしだしそうだ。一番の問題は金正雲氏が長男でないことである。
儒教国家北朝鮮では長子相続が正当と判断されるから、三男金正雲氏の後継は異例と言うことになる。

 長男には正男氏がいて、従来はこの正男氏が後継者になるものと思われていた。ところが正男氏はかなりの遊び人で01年5月に日本に密入国しようとして正体がばれ、強制退去を命じられてしまった。
正男氏は秋葉原でゲームやパソコン等を購入するのが目的だったようだ。

 この失態で正男氏金総書記から叱責を受け、その後後継者レースから失脚したと噂された。
また次男の正哲氏は、もともと影が薄く後継者レースに名前が出ることはほとんど無かった(正男氏が失脚したと噂が出た後、一時後継者とみなされたことはあった)。

 金総書記の立場は、死期が近づいたときの豊臣秀吉にそっくりだ。なんとか正雲氏を後継者にすべく、実力者序列NO2張成沢氏正雲氏の後継を依頼している。
張成沢殿、おぬしだけが頼りじゃ。どうか金王朝のことはよろしく頼む。正雲のことをささえてくりゃれ

 張成沢氏金総書記が脳疾患で倒れた後、北朝鮮の実質的な政務を執り行っており、現在は金総書記の忠実なしもべを装っている。
しかし後継者の金正雲氏金日成のような輝ける実績はなく、また金正日氏程度の政治力も無い。たんなるお坊ちゃんだ。

 崩壊直前の金王朝がお坊ちゃんでは救えないのは誰の目にも明らかだ。
だから金総書記が死去した後、張成沢氏徳川家康になるのはほぼ間違いないだろう。

 

 

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(21.6.6) 犯人逮捕は喜ばしい  泉谷中ガラス破壊事件

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 昨年12月
泉谷中の校舎のガラス99枚が割られたが、その容疑者が逮捕されたとのニュースが新聞に掲載されている。

 私が見ている千葉日報によると「千葉南警察署は・・・千葉市内に住む泉谷中卒業生の無職の少年(15)といづれも同校3年生で14歳の男子生徒3名を逮捕した。
・・・・・4人の逮捕容疑は共謀の上、鉄パイプやブロック片で校舎1階の窓ガラス99枚(約123万円相当)を割るなどした疑い
」だという。

 私は(21.1.2)のブログ「千葉南警察は市民の期待に答えられるだろうか」(リンクが張ってあります)で、千葉南警察が青少年の犯罪に積極的に関与したがらないのではないかと疑問を呈しておいたが、今回の逮捕を見てそうした見方が必ずしも正しくなかったと反省した。

 まずは犯人逮捕を喜びたい。
犯罪が起こった場合最も大事なことは、誰であれ犯人を逮捕することで、それが青少年であろうと、同校の生徒であろうと関係はない。

 しばしば青少年の犯罪の場合は、関係者が隠蔽したがるがそうした行為は単に犯罪を助長するだけで何のメリットも無い。
実際、窓ガラスが99枚割られた後も、泉谷中では執拗に窓ガラスが割られ続け、また校舎にペンキの落書きが繰り返された。

 通常犯罪者は逮捕され無い限り、犯罪行為を何度でも繰り返すもので、この4人に余罪が有ることはほぼ確実だ。

 泉谷中としては容疑者が同校の卒業生と在校生のため、教育指導の問題が発生するとは思われるが、限界を越えた犯罪行為について教育指導の問題を前面に持ち出すのには無理がある。

 教育現場でよく言われる性悪説性善説もその極端な主張は何の意味も無い。人間は適当に悪く、適当に良いのが実態であり、それが一方に振れたときに適切に対処するのが実務的だ。

 今回のような何度でも繰り返された破壊行為については、警察の逮捕が最も適切な対応で、「おゆみ野は犯罪がはびこっているのではないか」という世間の評価を皮一枚のところで押し止めたようなものだ。

 ただし、青少年の更正方法については、私も単に少年院等に送るだけでは無理があると思っている。

 こうした青少年はガラスを破壊したり、壁にペンキで落書きを塗りたくったり、公園のベンチを燃やしたり、公園に花火の燃えカスやゴミを大量に放置したりしてきた。
そしてそれがどのようなことか、まったく理解していない。
単に「面白いからやった」のだという。

 問題なのは破壊する人はいつも「面白がって」徹底的に破壊し、一方それを修繕したり落書きを消去する人は常に「当惑しながら」修繕と消去に追われるということだ。
考えても見て欲しい。これほど理不尽なことは無い。

 私は公園に散乱するゴミを毎日片付け、壁に塗りたくられた県警に対する悪口を消し去る作業をするたびに、思わざる得なかった。
世の中は何と不公平なのだろうか

 青少年の更正のため重要なことは、自身が行なった行為がどのような影響を社会に及ぼしているのか経験させる以外に、適切な教育方法はない。
窓ガラスを割った人間には窓ガラスを入れさせ、ペンキを塗りたくった人間にはそれを消去させ、ゴミを散乱させた人間には清掃を義務づけることだ。

 人は自ら痛みを感じないと、人の苦しみなど分からないものだ

 最後にもう一度言おう。犯人逮捕は実に喜ばしい。限界を越えた破壊行為には逮捕以外の適切な対応は無い。
これにより泉谷中は破壊行為から免れることができたのだから、地域の住民としてほっとしている。



 

 

 

 

 

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(21.6.4) 魑魅魍魎(ちみもうりょう)の公債管理 千葉市の借金はなぜ増えるか

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 先日来千葉市市債が増え財政が悪化していくメカニズムが分からず、頭を悩ましていた。なにしろ一般会計では市債は減少するのに、千葉市全体としては増加していくのだから不思議だ。
私のような一般市民は通常一般会計しか見ないから、それを見ている限り、千葉市の財務は改善されて問題ないように見える。

 だが一方で市債1兆円を越え、さらに増大していると熊谷候補は言っている。どうしたら実態が分かるのだろうか。
千葉市21年度特別会計の明細を取り寄せてようやくそのからくりが見えてきた。

 千葉市会計書類を見てまず驚くのは、一般会計の規模より特別会計の規模の方が大きく、一般会計をいくら眺めていてもその本当の姿が分からないことだ。

 たとえば18年度以降の当初予算で比較すると以下のようになっている。
単位億円 )      21年    20年    19年   18年

一般会計        3350   3213   3573  3323
特別会計        3901   3683   3853  3391

合計           7251   6896   7426  6714

うち一般会計の割合  46%    47%   48%   49%


 特別会計は、 一般会計の例外として設置されているのだが、例外の方が大きくなり、 しかも原則として独立採算制をとることになっているが、一般会計からの繰り入れによって運営されるといういびつな形態になっている。
これでは一般会計をいくら眺めていても分からない。

 そしてなぜこのように特別会計が膨れ上がるかといえば、主として公債管理特別会計が膨れ上がっているからである(16年度 1097億円、21年度 1601億円  +504億円)。

 公債管理とは非常に不思議な勘定で、本来は返済期限が来た時に当然返済が発生するのだが、実際は返済せず借換をするので別勘定にするというものである。
露骨に言うと返せない金の勘定だといえばよい。

 もしこれを一般会計に置いておくと、借入と返済が両建てになり、昨今のように返済が進まないと予算規模が毎年膨れ上がってくる。それがいやなので別勘定にしたと言う

 金融機関はこうした借換を継続する資金を底積資金と言って、いわば赤字見合い資金と認識している。 資本金が不足している企業の常套手段だ。

:もちろん役所の論理は違って、金融機関から30年返済で資金を調達すると10年ごとに一括返済期日が来る(普通銀行は10年以上の長期貸付ができない)。そこで10年ごとに借り返るのだが、それを一般会計で行なうと両建てになって一般会計の本当の規模が分からなくなるので別会計で処理している、と言っている。

 詳細は以下のURL参照

http://www.pref.nara.jp/zaisei/16yosangaiyo/image/16kousai.pdf

 だがどのように定義しようとも、本当に大事なのはこの返せない金が毎年どのように推移しているかである。
借換債の推移を見ていくと、15年度 166億円、16年度 392億円、20年度 572億円、21年度 716億円と毎年増大しているのが分かる(
注:17,18,19年度の資料は手元に無いので不明)。

 
ところが一般会計の市債推移で比較すると以下のようになっている。

一般会計の市債と公債費(償還金)の推移
単位億円)       21年    20年    19年   18年

①市債の発行(一般) 400    350    628   521
②市債の償還(一般) 562    516    485   435

①-②市債の増減  ▲162   ▲166   +143  +86


市債残高           ?      ?   10790  10442

 どうだろうか。これを見ると一般会計の数字は実に美しく、一般会計20年、21年には市債は減少さえしている。
しかし実は市全体では増大しているという(20年度末の実績数字は入手できなかった)。

 それはどこを見ると分かるかと言うと特別会計の公債管理で、そこでは市全体の償還財源が分かり、またその借換金が分かるからである。

単位億円)         21年    20年    19年   18年
③市債の償還財源(特別) 884    808
④市債の借換(特別)    716    572    ?     ?
⑤市債の返済額      1601   1380    ?     ?

 
ここから先の説明はほとんどマジックのような世界で、私はこのマジックが分かるまで1週間もかかってしまった。

市債が増えるロジックは、①+④ー③=市債の増減である。
この式に当てはめて20年度、21年度を計算すると、

20年度:350+572-808=+114
21年度:400+716-884=+232


注1) ③の中に②が含まれている。③は返済可能な財源をすべてあつめたもの。基金の取り崩しもここに含まれる。

注2) ①は新規の市債発行、④は返済が来ても返済できなかった金額

注3) 実際は特別会計の中に企業会計があってさらに複雑なのだが、今回は省く。


 分かっていただけたであろうか。もう一度言うと
①新規発行市債+④借換市債ー③市債返済額=市債の増減

 
しかしどうしたものだろうか。特別会計の中のさらに公債管理をじっくり眺めて、さらに一般会計との入り繰りを調べてようやく千葉市の借金体質が分かる。

しかしこれでは一般市民が千葉市の財政状況を知ることなんて、金輪際できそうも無い。

 鶴岡市政では「返せるものは返すが、返せなければ借り替えればよい。ただし一般会計だけは美しくしておけ」
ということだったようで、その結果段々と市債は増えていく。GMのようなものだ。

注)資料がなく市債返済額が契約上の返済額か、とりあえず返せる額か明確には分からない。実際は金融機関等と交渉して返済期限を延ばすことはしばしば行なわれるので、実態解明には内部資料を見ないと分からない。


 やはり特別会計の公債管理は魑魅魍魎の世界なのだ。

 

注:千葉市の財政状況は以下が見やすいが、市債のロジックまでは分からない。
http://www.city.chiba.jp/zaiseikyoku/zaisei/zaisei/download/zaiseijoukyou.pdf

   

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(21.6.4) GMは本当に再生するか

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 GM
が6月1日に連邦破産法11条の破産手続きを申請し倒産したことにより、今後は60日~90日の間に再建計画を策定し、裁判所によって承認を得ることが必要となった(承認が得られれなければ清算手続きに入る)。

 裁判所が承認を与える条件は、① 債権者の過半数以上が賛成し、② かつ賛成者の債権額が3分の2以上になる、ことが必要条件だ。
アメリカ政府もGMのヘンダーソンCEOも、早期の再建計画の承認に自信を見せている。
 
 倒産時のGMの債権約9兆円債務約17兆円で、約8兆円債務超過になっていた。
この不足分をアメリカ政府カナダ政府約5兆5千億円公的資金を投入し、残りの2兆5千億円踏み倒すことでGMの再生を図ろうというのが、今回の再建計画の骨子となっている。

 もっともそれだけでは現在対前年比約6割に落ち込んでいる販売数量とバランスが取れないので、工場ディーラーの数を減らし、従来の60%の規模に縮小して、再生を図ることになる。

 このため大雑把に言って、従来GMと取引関係があった部品メーカー、ディーラーの4割が契約を打ち切られ、また工場と工場労働者の約4割が工場閉鎖や人員整理に追い込まれることになる

 さてこうなった場合、はたしてGM再生するのだろうか。
オバマ大統領は「GMはもう一度、米国の成功の象徴となるだろう」と胸を張ったが、はたしてそうなるだろうか。

 考えても見て欲しい。倒産した企業の車を消費者が喜んで買い、売掛金を踏み倒された部品メーカーがいくらでも部品の供給をし、債権額を削減された金融機関がさらに追加融資に応じるだろうか。
そんなことはあるはずがない」と考えるのが普通だ。

 実際はGMクライスラーも唯一残ったフォードにシェアを奪われ、またトヨタホンダとのエコカーレースに負けて、段々と市場から撤退していくというのが最もありそうなシナリオだ。

 GMがさらに販売不振に陥れば、アメリカ政府としてはさらなる資金援助と、場合によったら外国車の輸入制限でもしてGMの経営をささえる以外方法はない。
しかし無制限の公的資金の投入は共和党国民が反対し、輸入制限はWTO違反だから世界が猛反発するだろう。

 一度企業が坂道を転げだした場合、再生が可能なのは通常は以下の条件がある場合だけだ。

① 景気が好調でGDPが拡大し、消費者の購買意欲が強い場合
② その企業が特殊なノウハウや商品を持っており、消費者がどうしてもその商品を必要とする場合

 現状はGDPマイナス成長が続き、自動車産業の生産規模が前年対比4割程度落ち込んでいて、さらにGMの主力商品はSUVとかピックアップトラックと言った最も売れない自動車しか存在しない。

もう一度問おう。GMははたして再生するだろうか?

 結局GMはアメリカ政府の支援を得たものの、最終的には「かつてGMという大企業がアメリカに存在した」と歴史の教科書に書かれながら細々と経営を続けていると私は思っている。

 

 

 

 

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(21.6.3) 文学入門 村上春樹「蛍」

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 次回の河村義人さんの読書会のテーマ本は村上春樹氏の短編小説「」になった。この本を選んだのはビレッジ姉さんで、普段は口数は少ないがとても知的な人だ。

 私はいつものように村上春樹氏の小説を読んだことはなかったが、それは30才頃から退職するまでの約30年間、ほとんど小説を読まなかったからである。

 村上春樹氏はその間、日本を代表する作家の一人になり、特に海外での評価が高く、しばしば有力なノーベル文学賞候補になっていた。
その程度のことは知っていたものの、なにしろ氏の小説を読んだことがないので、判断の仕様がないというのが実情だった。

 今回「」を読んでみて、その文体の易しさと、一方内容の何か乾いた「あっしにはかかわりのねえことでござんす」といったスタンスに驚いてしまった。

 話の内容はいたって簡単で、「大学生の主人公が、元友人(この友人は高校生のとき自殺した)の彼女と何回かのデートをした後肉体関係を持ち、その直後に女性が失踪した」という話だ。

 理由も何もなくただ会って、話して、肉体関係をもって、そして分かれたという話だ。
とても不思議な感じのする短編小説で、かつてカミュの「異邦人」カフカの「変身」を読んだときと同じような感覚に襲われた。
要するにこの世の中には論理で説明できないことがある」ということか。

」という題名も取ってつけたようなもので、同じ寮に住んでいる友達からもらった蛍が淡い光を発光させながら飛び立っていった。ちょうど彼女のように。だから題名が「」ということらしい。

 何とも乾いた短編小説だ。私が好きな平岩弓枝さんの短編小説ような物語性はまったくなく、感情移入できる人物はまったくいない。
一言で言って「日本的な情緒」の対極にあるような話で、確かにこれならヨーロッパの人々から好かれそうだ。
この世は矛盾だらけで、何一つ意味もなく、ただ現象だけが流れる

 最も「」だけ読んで村上氏の小説を即断するのは危ぶまれたため、他の短編小説にも目を通してみた。

納屋を焼く」はこれも筋はいたって簡単だ。「妻以外の若い恋人がいる小説家が主人公。この若い恋人はアルジェに行って新しい男性の恋人をつれて帰ってきた。通常の小説ならばここで葛藤が始まるのだが、この小説では、主人公も彼女も、また新しい男性の恋人もまったく気にしない。

 ある日彼女と新しい男性の恋人が主人公の家にやってきて、男同士でマリファナを吸う。その時この新しい男性の恋人が「
納屋を焼くのが趣味
だという。

 そして納屋を焼いていたが彼女はどこかに失踪した」ただそれだけだ(なお、私と同様に読書会に参加している小太郎姉さんは、納屋は若い女性のことで、女性を男性の恋人が殺したのだと言っていた)。

」と同じように、感情移入できる人はまったくおらず、意味もなく犯罪行為を繰り返し、恋人はまた意味もなく失踪する。

踊る小人」はファンタジーだが、大人向けのファンタジーだ。「舞台は革命後のロシアのような雰囲気で、主人公は象工場で象を作っている。その行程はいくつかに分かれていて、その行程の一つの部署にダンス好きの美人がいる。

 主人公はこの女性をものにしたいが、ダンスがうまくないとものにできない。そこで夢にしばしば現れるダンスが飛び切り上手な踊る小人と契約して、体内に入ってもらい小人に踊ってもらう。

 ただし契約内容は「彼女をものにするまでは一言も口を利いてはならない。もし口をきくと小人に肉体を乗っ取られる」というもので、首尾よく主人公は口をきかずに踊りのうまさで彼女をものにできる。

 しかし、小人が体内に入って踊ったことがばれて革命軍から追求を受ける
」という内容だ。

 この小説には若干物語性はあるが、内容は荒唐無稽であり、意味もない。

 ここまで読んで村上氏の短編小説は、やはり西洋版木枯し紋次郎だと思った。
あっしにはかかわりのねえことでござんす。人生には意味なんぞござんせん。ただ男と女がいて、あって別れるだけでござんせんか」といっているように読めた。

(注)その後村上氏は社会との関係性を重視した乾かない小説を発表しているそうだが、私は読んでないので判断できない。

 

連絡:次回の読書会の予定は以下の通り

テーマ本 村上春樹 「蛍」 担当:ビレッジ姉さん
6/16(火) 13:00~15:00  於:緑図書館集会室

 

 

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(21.6.2) デフレの時代 その1

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 世界的な金融恐慌で、石油穀物の値段が劇的に低下してきたが、ここに来て身近な消費財の値下げが一斉に始まっている。

 先鞭をつけたのはスーパー業界で、イトーヨーカドーイオンPBプライベートブランド)を中心にこの4月頃から大幅値下げに踏み切った。
イオンなどは「イオンの反省」という新聞広告までだし、
イオンの価格は他店にくらべて、決して安くは有りませんでした」
「イオンの売場は、欲しいと思える商品が並んでいませんでした」
「もう一度、お客様が求める本当の低価格、売場、サービスを取り戻すことに全力を尽くしていきます」
とまで言うのだからすごい。

 イオンの最近のヒット商品はPB食パン1斤88円だという。しばらく前まで150円前後に設定されていたのだから、劇的な値下げだ。

 コンビニにおいてもPB商品が増えており、かつては便利だが高かった商品がスーパーと対抗するようになり、かつ売れ残り食品の値引き販売まで始まった(公取委が「セブンイレブン本部が契約店の値引販売を禁止する」のは独占禁止法違反だと指導した)。

 外食産業すかいらーくのような高価格メニューの店は流行らなくなり、低価格メニューのガストに衣替えしている。
牛丼すき屋第二次牛丼戦争をしかけて、並を330円(▲20円)に値下げした。

 百貨店はまったく販売が不振で、ここ14ヶ月前年割れしているが、銀座松屋では9800円スーツを限定200着販売し完売した。
百貨店でも特売が日常化している。

 高速道路料金は政府の指導で全国一律1000円になり、今度はアクアラインの料金が千葉県知事の指導で800円になる。
トヨタはエコカーのプリウスを最低価格205万円(▲30万円)で販売して自動車販売不振を一気に挽回しようとしているし、政府はエコカーを導入すれば自動車取得税重量税を大幅に減額して後押しすることにした。

 海外旅行代金も円高とガソリン価格の低下で劇的に安くなっており、一頃旅行者泣かせだったサーチャージも終わりに近づいた。
今日の新聞には改正薬事法の施行で大衆薬が安くなるといっている。

 すべての価格が低下するデフレの時代が再び始まった。
なにしろ昨年の第4四半期以降、GDPの約6割を占める消費は、前期対比落ち込んでおり(08/10~12 ▲0.8%、09/1~3 ▲1.1%)、高価格商品はまったく売れなくなっている。
内閣府の発表では09/1~3期の需給ギャップ▲8.5%で、過去最悪でこれを金額に直すと約45兆円の需要不足だという。
これではものの値段が上がるはずがない。

 この状況がいつまで続くかはもっぱら景気動向に左右されるが、私はこの状態はかなり長く続くと見ている。
理由は
① 今年は確実にマイナス成長、来年以降も低成長が続くこと
② アメリカ政府の国債増発によって、円高傾向が定着し、輸入品の価格が低下すること


 デフレは私のような年金生活者にとっては天の恵みのようなものだが、生産者にとっては地獄の苦しみで、それに適応した企業だけが生き残ることになりそうだ。

 

 

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(21.6.1) 千葉市の財政崩壊とその隠蔽方法

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 千葉市長選
5月31日告示され、6月14日投票日に向けて選挙戦が開始された。
当初今回の千葉市長選挙は無風選挙といわれ、自民・公明推薦で元副市長の林孝二郎氏が、ほぼ無投票で当選するのではないかと言われていた。

 林孝二郎氏鶴岡前市長の実質的な後継者で、誰が立候補してもとても勝てそうになかったからである。
選挙戦が急に激戦になったのは、鶴岡前市長が収賄の容疑で警視庁に逮捕されたからで、鶴岡市政が金にまみれていた実態が明らかになるにつれ、鶴岡市政の後継でいいのかが急に争点になってきた。

 そこで急遽、民主党と市民ネットが推薦する熊谷俊人氏が対抗馬で立候補することになり、市長選は急に熱気を帯びだした。
29日には民主党の岡田幹事長が千葉市で熊谷氏の応援演説に来る等、実質的に千葉市長選は自民党と民主党の次期衆院選の前哨戦になってきている。

 私はほぼ15年にわたって千葉市民であったのだが、正直言って今まで市政について考えたことはなかった。何とかうまくやっているのではないか程度の感度で、千葉都市モノレールの延伸問題や、蘇我スポーツ公園整備問題について考え出したのはつい最近のことである。

 鶴岡千葉市政は一見問題もなく、当初は成功裏に任期を全うしたと思われていたが、本人が逮捕され、かつ千葉市の財務状況をよくよく見てみると、倒産間際のGMのような状況であることが分かってきた。

 なにしろ千葉市G翁さんから「プライマリーバラン(基礎的財政収支)が、全国783市中ワースト2位(1位は夕張市)。
また、借金返済の負担の重さを示す「実質公債費比率」は17政令市中16番目、公債償還などの「将来負担比率」は最下位になるほど、借金依存度は高いのです」
と教えてもらったほど財政状況が悪い

夕張市の次に悪い基礎的財政収支でよく鶴岡前市長は平気だったな」とその剛腹さにかえって感心してしまったが、実際は免罪符のような、財政健全化プランが作成されていたことを、熊谷候補のブログを見て知った。


 この免罪符は「千葉市財政健全化プラン」と言って、18年2月に市の財政局が作成したもので、今から3年前に作成されている。

*千葉市財政健全化プランの明細は以下のブログ参照
http://www.city.chiba.jp/zaiseikyoku/zaisei/zaisei/download/kenzenkaplan.pdf


 読んでみるとこの健全化プランは実はあるトリックがあって、一般会計についてのみ分析され今後の方策が検討されているが、特別会計についはそっと脇において分析検討の対象からはずしてある。

 
(以下の数字は平成7年から平成16年までの10年間の一般会計の実績数字

 それによると過去、市税収入が伸び悩み(▲140億円)、歳出規模は増加し(+58億円)、仕方なく市債を増発し(+2725億円)、埋蔵金の基金を取り崩したものの(106億円)、財政の弾力化は年々低下したという(経常収支比率 7年 87.1% → 16年 96.9%)。

 さらに、平成18年から21年までの今後の予想数字では、毎年250億円前後歳入欠陥が発生する見込になっており、そうしたことにならないように、具体的な諸方策を実施するとしている。

 そしてその結果は実に立派なもので、下記のように健全化プラン予測対比十分達成され一般会計は改善されたと言うことになった。
たとえば歳出額の18年度以降の推移は以下の通りで、歳入欠陥は発生しなかったことになっている。

(歳出額の予測と実績)

18年 予測 3538億円  結果 3484億円 ▲54 億円
19年 予測 3886億円  結果 3563億円 ▲323億円
20年 予測 3581億円  結果 3213億円 ▲368億円
21年 予測 3586億円  結果 3350億円 ▲236億円
(ただし20年、21年の結果数字は当初予算ベース)


 鶴岡市長はこの一般会計の数字を示し、「財政健全化は順調に進んでいる」と説明してきた。

 確かに一般会計だけを見るとその通りで、私などは鶴岡市政は実に立派な業績を残していたと思っていたほどだ。

 しかしこれはトリックで、千葉市の実際の会計は一般会計を凌駕する特別会計が存在し、そこにすべての問題が隠蔽されている。
21年度の一般会計 3350億円、特別会計 3901億円

 そもそも一般会計より特別会計の方が金額が多いことが問題で、これでは一般会計をいくら論じても全体のたった46%(21年度予算)の部分しか論じたことにならない。
しかも発表される数字のほとんどが一般会計で、特別会計は闇の中だ。

 実際は鶴岡市政の財政改善発表とは裏腹に、毎年市債の残高は積みあがっており、17年度以降1兆円を越えている。
財務が改善して、一方借金が増えるのは実際は財務改善に失敗しているからだ

* 千葉市の市債の発行残高の増大は熊谷候補の以下のブログに詳しい
http://www.kumagai-chiba.com/policy/zaisei.html

 特に私が問題と思うのは特別会計の中の公債管理という項目で、この金額が突出して多い。どうみてもここが隠れ蓑になっている可能性が高い(21年 1601億円、一般会計・特別会計を合算した数字の22%)。

 結局鶴岡市政は財政悪化の実情を隠すために一般会計だけを糊塗し、その裏で特別会計を膨らまし、市民の目を欺いてきたがその限界が見えたので市長を辞したようなものだ(実際は逮捕されたため辞表を出した)。

 千葉市の財政状況の調査は、特別会計公債管理を追っていくことで明らかになると私は予測している。
このテーマはとても興味があるので引き続きブログで掲載していくことにしたい。




 

 

 

 

 

 

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