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(21.6.18) 文学入門 村上春樹「蛍」

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 河村義人
さんが主催する読書会が昨日(16日)おこなわれた。今回の課題図書は村上春樹氏の「」である。この本を選んだのはビレッジ姉さんで「村上春樹は感性で読むと、すっきりと入ってくる」と言っていた。

 私自身は村上春樹氏の乾いた文体と、「この世は矛盾だらけで、何一つ意味も無く、ただ現象だけが流れる」といったニヒリスティックな態度に驚いたが、なにしろ短編を数冊読んだだけで、村上氏の全体像を批評する立場に無い。

 その点河村義人さんは多くの書物に通暁しており、とくに村上氏の代表作「ノルウェイの森」も当然読んでいたが、河村さんによると「ノルウェイの森」は短編小説「」を長編小説にしたものだと言う。

 以下に河村さんの批評をダイジェストに掲載するが、河村さんとしては村上春樹の作品に物足りなさを感じているのだと言う。
その最大の理由は、単に村上春樹は「反芻する小説家」で「」から「ノルウェイの森」での間に、「何ら精神的な向上がなく、単に短編を長編にしただけだ」ということのようだ。

 もっとも以下に掲載する河村さんの批評は、河村さんの性格を反映してそうした批判があまり表面に出ていないが、口頭説明ではそうだった。

反芻する小説家
河村 義人

 小説家は、比較的しつこいタイプの人間だと思う。粘着質と言ってもいい。どういうふうにしつこいかと言えば、ひとつの体験なりイメージにこだわりがち、ということだ。

村上春樹の場合、財団法人和敬塾での塾生活、高校時代の親友の死、その彼女との奇妙な恋愛関係などがそれに相当する。短篇小説「」の中でそれらは初めて描かれ、長編小説『ノルウェイの森』の中でそれらは反復されることになる。なぜ村上は自らの体験を反芻し、自らの小説の中で変奏してみせたのか。

 「反芻」のしくみ
はじめに体験ありき、で、村上自身に類似した体験もしくは小説とそっくりの体験があったことは疑う余地がない。
寮の「同居人」とか「」(「僕」の親友)とか「彼女」(「彼」の恋人)といった登場人物にはモデルが存在し、彼らと過ごした日々は少なくとも村上にとっては重要だった。

それが前提で、「」の自殺を含む「あの体験は一体何だったのか」という問いが常に目の前に立ちふさがり、自らの体験の意味を知りたいという熾烈な衝動が、作者の村上をしてまず「」を書かしめた、と思われる。

そして、その結果に村上は満足しなかった。実際「」の描写はスケッチ程度のもので、体験の意味を充分に把握したものではなかった。そこで、村上は次に同じ体験をもとに『ノルウェイの森』を書いた。そこでは「同居人」は「突撃隊」に、「」は「キズキ」に、「彼女」は「直子」にそれぞれ書き換えられ、よりいっそう個性なり具体性を帯びてくる。
 

 「反芻」の目的

 小説家のそのような体験なりイメージの反芻の仕方は、小説を書いた自らの経験に照らして、よく理解できる。小説家は、その体験なりイメージを自らの小説の中で完全な形で再現したいのである。

さらに言えば、その中にある《意味》や《》というものをあますところなく表現したい、と常に希求しているものだ。また、欲を言えば、それらの反復は単なる変奏であってはならず、できればバージョン・アップもしくはグレイド・アップであるべきで、志の高い小説家であればあるほど現状に満足せず、常に高みを目指しているものである。

 象徴としての「螢」、村上の死生観

 表題が示す通り、「」ではホタルという虫が重要な小道具として使われている。そのホタルの来歴は、「」の「同居人」が「近くのホテルが客寄せに放した」うちの一匹を捕え、「」にくれたものだ。

その「近くのホテル」はどうやらフォーシーズンホテル椿山荘らしく、そうとわかると妙に納得が行く。山県有朋の私邸の跡地に建てられたそのホテルでは、初夏にはホタルの放虫が恒例となっているからだ。

その一匹の弱ったホタルが象徴しているものは、精神失調を来して京都の「療養所」に入所した「彼女」の存在と見てほぼ間違いあるまい。それにしても、そのかそけき光の何と頼りないことか。

 作中では、「僕」の高校時代の親友である「」の死が主調低音のようになっている。あたかもそれは中上における兄の死と同様に村上にとって「一番はじめの出来事」であったかの感がある。親友の死が「僕」にもたらしたものは、「死とは生の対極としてではなく、その一部として存在している。」という死生観だが、同一の表現が『ノルウェイの森』の中にも見える。

このことは、村上の死生観がよほど揺るぎないものである証のようでもあるし、単に小説家としての怠慢であるようにも見える。別々の作品で同一表現の死生観を示すことについては、全く逆の見方ができるのである。
 
 とんでもない結論

 突飛なことを言えば、自らの体験を反芻する小説家は、体験の完成形である「人生回顧」に向けてせっせとそのシミュレーションを書いているようなものだ。

死ぬ時に体験の全ての意味が明かされるのであれば、何もあれこれ穿鑿する必要はなさそうなものだが、小説家という種族の場合はそうは行かない。シミュレーションの当否がどうあれ、死ぬまで体験の意味(=真実)を模索せずにはいられないのである。(了)

(注)河村義人さんの批評の全文は以下のURLをクリックすると読むことができます。
http://yamazakijirou1.cocolog-nifty.com/shiryou/2009/06/21618-0266.html

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コメント

高校の時は筒井康隆氏や星新一氏、ライトSFを偏読してたのもあり、大学に入ってからはさっぱりという身分からは、他の作家についてはとかやく言えませんが、春樹氏の「乾いた文体」評から察するに、春樹氏のファンはそれによって自分の中から何かを吸い取ってくれるような感覚が心地よいのかな。
そういえばここ数日は太宰治生誕100年づいてますねえ。破天荒な青年から一転し家庭を築き、戦中を経てまた自死へ。その年が私と近いのには驚きつつ。

投稿: 横田 | 2009年6月19日 (金) 02時43分

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