(21.4.30) 人間臨終図巻 若山牧水 享年43
若山牧水は明治から大正にかけての歌人であるが、「日々旅にして旅をすみか」とした松尾芭蕉や、「願わくば花の下にて春死なん」と歌った西行のような人だと「人間臨終図巻」を読むまでは思っていた。
特に牧水の代表的な歌「幾山河 こえさりゆかば寂しさの はてなむ国ぞ きょうも旅ゆく」などは、どうみても自然と旅を愛し、漂白の思いを胸に抱いている歌人のように見えるが、山田風太郎氏(人間臨終図巻の作者)の説明は違う。
「牧水は晩年、詩の雑誌を出して大赤字を作り、それにもかかわらず沼津に家を新築したりしたので、その借金のために日本じゅうを揮毫(きごう)して歩かなければならなかった」
詩の雑誌とは1926年(死の2年前)に創刊した「詩歌時代」のことで、「揮毫」とは「歌を作ることや指導することで見返りにカンパを募ること」である。
牧水は全国をまたにかけて借金返済のための資金集めをしていたわけで、それが「幾山河こえさりゆかば」の現実であり、「はてなむくに」だろうが無かろうが資金提供をしてくれるところにはいかざるを得なかったようだ。
そして大岡信の「若山牧水」によれば「牧水の晩年は、こういうやむを得ざる重荷のために多くの時間を割かねばならず、ただでさえ積年の酒のために痛めつけられていた肉体は、急速に弱っていった。・・・・(そして)ついに肝硬変を起こし、これが死の直接の原因」となったと言う。
実際、牧水の酒量は半端ではなく一日一升は飲んでおり、死の2年前に自身が記した紀行文では以下のような具合だった。
「今度の九州旅行は、要するに大酒ぐらいの私としての最後であった。とにかく思いおくことなく飲んできた。揮毫をしながら、大きな器を傾けつつ飲んだ。・・・・一日平均二升五合に見積もり、この旅の間(五十日)に一人して約一石三斗を飲んできた」と言っているくらいだ。
これだけ飲めば肝硬変にならないほうがおかしい。牧水は歌っている。
「白玉の 歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに 飲むべかりけり」
「それほどに うまきかと人のとひたらば なんと答へむ この酒の味」
私のように酒を一滴も飲まず、体質的に酒を受け付けない人間には「なんと答へむ この酒の味」といわれても何とも言いようが無いが、酒豪とはそうしたものなのだろう。
山田風太郎氏によれば、死の直前、牧水は「肝臓のみならず、酒に起因する胃炎、腸炎、口内炎、つまりすべての粘膜の急激な荒廃が彼を襲い、死の3日前になると『蜘蛛がいっぱいいて、いやだな』とつぶやいていた」そうだ。
「蜘蛛がいっぱい」とはアルコール中毒患者が必ず見る幻覚症状のことである。
牧水が死亡した季節は夏の暑い盛りだったが、遺体から数日立っても死臭が出ず、検視した医者が「牧水は生きたままアルコール漬けになった」と驚いたという。
「人間臨終図巻」を読み、牧水が借金とアルコール中毒の中で肝臓と粘膜がはれ上がって43歳で死亡したのを知ったが、そうした事実を知らずに牧水の歌だけを鑑賞すると、何と幸せな人生を送った人だと思ってしまうだろう。
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