(21.3.18) 速読について
最近極端に速読の必要性が増してきた。一番の理由は私が好んで経済評論を書いているからで、ここに来て金融恐慌関連の本格的な図書が目白押しに出てきた。
当初は新聞記事とインターネットと週刊誌や月刊誌程度まで目を通していればよかったのが、図書まで次々に現れてくるとこれも一応目を通したくなる。
図書は時間をかけて書いているので、相応のレベル内容になっているのが普通だ。
「きっと、私が知らないことが書かれているのだろう」とりあえず買い込むことになる。
しかし、図書1冊を読むとなると相応の時間が必要で何か一日中資料と格闘するようになってしまった。
「こりゃ大変だ。何とかならないものだろうか」
私は専門の学者ではなく、清掃活動をしたりマラソンやパソコンを教えたり、1日1回はJOGをしたりしている単なる定年退職者だ。
それが経済評論を書いているのは、当初はブログネタがなくなったからであり、最近は経済情勢の変革が「100年に1度」と言われているくらの激変なので、「せっかく生きているのだから、当時生きていた人がどう思っていたか記録に残しておこう」と思ったからである。
いわば鴨長明や吉田兼好のような気持ちなのだが、さて本格的な図書を読むとなると時間と体力の勝負になる。
「早く、確実に内容を把握できないものだろうか」
昔私がやっていた速読の方法は「漢字とカタカナと数字だけを追っていく」という方法で、確かにこれはすばらしいスピードで読めるのだが、残念ながら「何が書いてあるか」はわかっても「何が参考になるか」までは分からない。
最近している方法は「目次選別法」で、目次でみて私が知りたいところだけ読む方法である。これはかなり効果的なのだが、書物には全体との関連があり、一部だけ読んでも分らないことがある。
また書物の内容が低いと目次で選んだ箇所は正しいのだが参考にならない。
だからこれも必ずしも十分な効果をあげているとはいえない。
誰か先に読んだ人が「これはいい本だ」といってもらえると参考になるのだが、最近は読んだ人の評価と私の評価が分かれることが多い。
そして何よりも問題なのは私の記憶力が極端に悪く、かつ書かれている内容の判断に一定の時間がかかると言うことだ。
(私の脳は瞬間的判断ができず、サッカーやテニスの審判など絶対に向かない)
読んで覚えているなんてことはまったくないのと、読んだことを反芻して文字に落としてみないと内容の把握ができないことが多い。
「どうしたらいいんだろう」
読んだはしから忘れる記憶力と亀のような遅い判断力(亀は決断するまでに30秒程度常にかかる)で経済評論を書いているのだから、並みの苦労ではない。
目の前に山と積まれた経済恐慌関連の書物を見ながら、私独自の速読法を編み出したいものだと苦吟している。
| 固定リンク
「個人生活 自分史」カテゴリの記事
- (21.11.9) Googleさん ありがとう(2009.11.09)
- (21.9.6) ふるさとは近きにありて思ふもの 八王子市 (2009.09.06)
- (21.8.28) 高校柔道部の同窓会(2009.08.28)
- (21.3.18) 速読について(2009.03.18)
- (20.12.30) 平成20年度の回顧 私にとってのこの1年(2008.12.30)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
書物の速読法など、有り得ないのではないでしょうか。
著作には、作者の凝縮された論点のみならず、それに至った経緯、環境、そして著者の思考のベクトルが伺われることが多いと思います。
行間に、或いは論法の構築過程にこそ、その書物の味わいがあるものと私は感じます。
これらを理解して読んで、初めて追体験ができ、或いは著者の認識のギャップを楽しむ、驚く、或いは反発し時には憤るのが読書の醍醐味と思います。
山崎様のブログの特に経済評論は、十分に取材されて、仰るとおり「一定の時間がかかった」上で、山崎様の判断が十分に醸成されてこそ、結果としてその明快な結論が読者を惹きつけるのです。
大変な努力をされているとは存じますが、今後とも、しがらみのないお立場で、実経験に裏打ちされた、十分にプツプツと発酵した山崎様の経済評論を期待しております。
(山崎) yokuyaさんにそういわれると動揺するのですが、なんとか速く読みたいと思ってしまうのです。アメリカの著名な経済学者サミュエルソンは着替えをしながら論文を一つ読んでしまったという話を聞きました。どうしたらそんなことができるのだろうかと思ってしまうのです。
投稿: yokuya | 2009年3月18日 (水) 22時10分