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(21.2.12) 失敗した改革者は闇に葬られる 竹中平蔵氏と田沼意次

321085781  最近の麻生太郎首相の言説をみて、「失敗した改革者は闇に葬られる」ものだということをしみじみ感じた。
麻生首相は2月5日の衆院予算委員会で次のように言ったのだ。

私は(郵政)民営化に賛成ではなかった。・・・みんな勘違いをしているが、私は担当大臣ではなかった。反対だと分かってたので外された。担当は竹中(平蔵郵政民営化担当大臣)さんだったと、是非記憶して(ほしい)。濡れ衣をかぶせられると、俺もはなはだ面白くないから

 総理大臣としても、当時の小泉内閣の総務相としての立場からも信じられないような言説で、地位ある人の言葉とはとても思われないが、これは深い意味でそれまでの規制緩和路線に対する決別の言葉とも言える。

 当時郵政民営化は「郵便事業を国営から民営化し、その資金をアメリカの投資銀行やヘッジファンドに解放する」意図が明確にあったから、今思えばあきらかに行き過ぎた改革だったが、当時はほとんどの国民が支持していたものだ。

 小泉郵政選挙で国民は自民党と公明党をあわせて3分の2以上の議席を与え、竹中氏の民営化路線は絶頂期にあった。
そして郵政だけでなく日本の金融機関をアメリカ張りの投資銀行に脱皮させることが竹中氏が目指した規制緩和路線の総仕上げであったはずだ。

 あれから4年経ち、すっかりグローバリゼーションの陰が薄くなった。アメリカの投資銀行はすべて消え去り、竹中平蔵氏は今や金融恐慌の犯人の一人になりつつある。

 これと同じことが、18世紀の後半約30年に渡って幕政を取り仕切ってきた田沼意次(おきつぐ)にも起こった。田沼意次老中兼側用人と言う幕政史上最高の権力者に上り詰めた人物である。

 私はたまたま「逆説の日本史15」(近世改革編、井沢元彦著)を読んでいたときだけに、竹中平蔵氏田沼意次の類似点におもわず驚嘆してしまった。

失敗した改革者のたどる運命はいつも同じだなあ」後から徹底的に叩かれるのだ。

 田沼意次が行なった改革はちょうど鄧小平が中国で行なった改革と酷似している。鄧小平は「改革解放」と言ってそれまでの自給自足体制から、外国資本の導入による経済発展を目指したが、田沼意次農業国家から重商国家への変革と、海外貿易の拡大を目指していた。

 一言で言えば江戸幕府版規制緩和路線であり、農業より商業を重視して株仲間を公認し、そこらか冥加金と言う税金を取り立てたり、農業においても米作一辺倒から多角的農業経営を推奨していた。
それまでは納税者は農民だけだったから商人から税金を取り立てることは、織田政権や豊臣政権にならったわけだ。

 対外的にはオランダ貿易の拡大と将来的な開国、および蝦夷地の直接天領化(松前藩から取り上げて北海道の資源を幕府のものとする)、運河の掘削(印旛沼を経由して利根川と東京湾を結び新交通路を開く)や鉱山の新規開発、洋学の推奨と平賀源内の重用等、どれをみても進取的政策だらけだ。

 極めつけは通貨改革でそれまで江戸(金本位)大阪(銀本位)で異なっていた通貨を南リョウ二朱銀と言う通貨を発行して金銀比率を固定化することに成功した(これで江戸と大阪の為替問題が解決された。ユーロの導入のようなもの)。
この通貨発行には2割程度の出目(貨幣の増加)もあったので、実際はインフレ政策を採ったことになる。

 商業を重視し冥加金(登録免許税)と通貨膨張という二つの政策で幕府の財政は大いに向上し、政策は成功するかに見えた。

 しかしケチのつけ始めは1783年に起こった天明の大飢饉で、東北地方が壊滅してしまったことにある。
東北地方の死者は約200万人に及んだが、田沼意次はこれに対しほとんど有効な手を打たなかった。理由は西日本は被害がなく米を大阪で調達すれば問題ないと判断したからである。
必要があれば大阪で米を購入せよ

 しかし大阪の商人は田沼意次より抜け目がなかった。米価が上がると見て売り惜しみをし、米価を徹底的に吊り上げたため東北地方には(松平定信が治めていた白河藩を除き)餓死者が続出したからである。
その後は何をやってもうまくいかなかった。

 現代風に言うと市場に最大限の自由を保障すれば経済は発展すると思っていたが、投資銀行やヘッジファンドが暴走して金融恐慌に陥って次々に倒産しているアメリカと同じ状態だ。

 東北地方を中心に一揆、お膝もとの江戸では打ちこわしが続出し一気に田沼意次の評判は下がった。
商人には自由かってに米相場を上下させ、農業をないがしろにするからこうなる。規制緩和でなく規制強化が必要だ松平定信を中心とする反対派はその一点で結集した。
しかもこの規制緩和策(許認可権)を幕府の下級役人は自分達の役得と考え、商人の賄賂に応じて許認可を与えたので、モラルが急速に低下してしまった。
田沼の政治は賄賂の政治だ

 実際に田沼意次が失脚したのは田沼を重用してきた将軍家治の死去(1786年)よってだが、その2年後に70歳で死去している。

 その後の運命は老中首座で、単に清廉潔白だけがとりえだった松平定信から田沼政治は全否定された。意次の相良城は取り壊され東北の片田舎に押し込められてしまった。
意次の評価は松平定信によって「賄賂の帝王」と決め付けられたが、実際は竹中平蔵氏と同じ「挫折した改革者」に過ぎない。

 大田南畝が狂歌に歌っている「白河の(定信が白河藩主だった)水の清きに住みかねて 元の濁りの田沼恋しき」と言うのが妥当な評価だろう。

 

 

 

 

 

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