(20.7.22) 天才野茂が引退した
野茂英雄投手がこの17日に引退声明をだした。1990年に近鉄に入団し、1995年に大リーグのドジャースに入団しているから、日米通算18年間在籍し、201勝155敗の成績だった。
その間、大リーグで2回のノーヒットノーランを記録し、最多奪三振王にも2回輝いている。大リーグきっての豪腕投手だった訳だ。
しかし野茂投手の軌跡をみると波乱万丈であり、はっきり言って日本では不遇だった。
野茂がトルネードを始めたのは中学生の時からだったが、それゆえ名門高校からは完全に無視された。
「あんな投球方法ではコントロールが定まらないし、使い物にならない」
私が野茂を天才だと思うのは、誰がなんと言おうともあのトルネードを一度たりとも止めようとしなかったことである。
名門高校の監督から「フォームを変えなければダメだ」といわれても怯むことがなかったのだから驚きだ。
「これが俺のフォームだ」中学生の野茂がそう信じたのである。
高校卒業後ノンプロの新日鉄堺に入団したが、その最大の理由はフォームを変えたくなかったからである。プロではフォーム改造に意欲を燃やすコーチがてぐすね引いて待っていた。
新日鉄堺でフォークボールを覚えたの後の活躍は目覚しく、1998年のソウルオリンピックでは日本のエースとして活躍し、一躍プロ野球各球団の注目をあびた。
翌年のドラフト会議で近鉄に1位指名されたが、その時の野茂の入団条件が「フォームを変えないこと」だった。野茂はその後も常にこのフォームにこだわり、年俸よりも野球のスタイルにこだわっている。
野茂が幸運だったのは、その時の近鉄の監督が仰木彬氏だったことである。仰木氏は日本の監督としては異色といっていいほど、天才を見る目を持った監督だった。
「好きなように投げればいい」
野茂もイチローも仰木監督がそだてた秘蔵子である。
近鉄時代の野茂の活躍は素晴らしかったが、1992年に仰木監督が退団し、その後任に鈴木啓示氏が監督となると、野茂との確執が始まった。
鈴木氏も天才肌の投手であったが、鈴木氏は野茂を認めることができなかった。特に鈴木氏が野茂を嫌ったのは四球の多さだった。
「あいつは三振も取るが、フォアボールが多すぎる。守備の時間が長くて仕方がない。フォームを改造しなければ使い物にならない」
鈴木氏は現役当時屈指のコントロールを誇っていただけに、野茂のコントロールの悪さに我慢ならなかったのだろう。しかしここが仰木氏との監督としての力量の差だった。
鈴木監督との確執に加え、12球団随一のケチ球団だった近鉄が野茂の高額の年俸引き下げを図ろうとして、野茂の怒りに油を注いだ。
野茂が近鉄を追われるようにして大リーグ、ドジャースに移籍したのは1995年のことだが、近鉄は最後まで野茂に底意地悪い対応をしている。
「任意引退選手」にしたのである。これは当時のプロ野球の規定では任意引退選手は日本の他の球団でプレーすることができなかった。
コミッショナー側の高額年俸を要求する選手を封じ込める一種のギルド制度だと思えばよい。
だから野茂が大リーグに挑戦したのは、日本の球界から鞭持って追われたからで、自ら望んでという訳ではない。年俸も1億4千万から980万に落ちた。
ドジャースでは当初マイナー契約しかしてもらえなかったからだ。
しかし、人生とは何が幸いするか分からない。アメリカの球界は日本のそれとは異なり、天才についておおらかだ。
「どんな投球方法でも勝てればいい」
その後の野茂の活躍は見事だ。1995年は13勝6敗で新人賞と奪三振王に輝いた。
さらに2回もノーヒットノーランを達成し、アメリカ人のアイドルにもなっている。
今、野茂英雄の名前を知っている日本人は多いが、鈴木啓示の名前を知る人は少ない。
「野茂の大リーグ挑戦など、単なるマスターベーションで成功するはずがない」
この鈴木啓示の言葉は当時の日本人の常識だったことを覚えておられるだろうか。
野茂はアメリカで大成功をおさめたが、二度と日本の球界に戻ろうとはしなかった。トルネードを認めない日本球界を嫌っていたからだ。
ドイツの心理学者クレッチマーは言っている。
「成功したパラノイア(一つのことにどこまでもこだわり続ける性格の人)を人々は天才と呼ぶ」
野茂はトルネードにこだわり続け、そしてアメリカで自分が天才であることを証明した。
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