(20.6.29) 教養のある人
時々四季の道で会うAさんは、いつも手に摘んできた野草を持っており、それを私に見せて説明してくれる。
今回は写真にあるネジバナを見せてくれた。ネジバナは野草ではあるが、栽培している花のように美しい。
私自身はネジバナという名前は知らなかったが、この花が道端に咲いているのはよく知っていた。
「この花、ネジバナというのよ。ねじれているでしょ。一名『もじずり』『みちのくの しのぶもじずり たれゆえに みだれそめにし われならなくに』
の『もじずり』よ。百人一首にあるでしょ、じゃあね、バーイ」
私があっけにとられているうちに行ってしまった。
「うーん、教養ある」驚いた。
Aさんは私より年配の女性だが、そおいえばこの年代の女性は正月の遊びとして百人一首を良くやっていた。
だから子供の頃から素養として身についているものらしい。しかし話の途中で和歌がすらすらとでてくるのにはびっくりだ。
一方私の素養は高校までの国語でならった和歌がせいぜいだから、この歌の意味がさっぱり分からない。帰ってから百人一首の解説本を開いてみた。
作者は源融(みなもとのとおる)で、紫式部が光源氏のモデルとした人だと言うことが分かった。
歌の意味は「陸奥のしのぶもじずりの乱れ模様のように、私の心は乱れているが、誰のせいで乱れてしまったのか。みんなあなたのせいだ」という恋の歌である。
昔だったら恋文だから、「Aさんはもしかしたら、私に対し恋心を打ち明けたのかしら」なんて一瞬思ってしまった。
実はかつて私もうん蓄のあるところを見せようとして、懸命に和歌を記憶しようとしたことがある。
私の記憶力だからせいぜい二首が限界だと思い、作者は最も有名な紫式部と清少納言にした。
紫式部は『めぐりあいて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かげ』
(意味:久しぶりにめぐりあったのに、その人かどうか判別がつかないうちに雲に隠れた夜半の月のように、友達があわただしく帰ってしまった)』という歌で、女性の友達との別離を歌った歌で、恋の歌ではない。
一方清少納言は『夜おこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ』
(意味:夜の明けきらないうちに、鶏の一番声をまねて函谷関(中国の有名な関)をあけることはできても、私のような固い女を口説こうとしても無駄よ)と言う歌で、当時はこおした即妙の社交の歌がはやっていた。
私はこの2首だけを記憶し、話の途中でこの歌を挟んで「まあ、山崎さんたらなんて和歌の素養があるのでしょう。すてきだわ」と言われようと機会を待っていたが、いざそのチャンスがやってきてもすぐに思い出すことができない。
「えーと、あのー、なんだっけ。ほら紫式部が歌っていた、鳥の空音の歌は・・・・」
私の記憶力ではAさんのような教養あるところは金輪際見せることはできないらしい。
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