(20.4.3)さくら
「おゆみ野四季の道」のテーマソング。以下のファイルをダウンロードすると曲が始まります。
「pianotokurarinetto.mid」をダウンロード
四季の道のさくらのピークは今日(2日)みたいだ。そろそろ花びらが散りだした。私はほぼ毎日四季の道を清掃していたおかげで、この春の美しさを堪能させてもらった。
四季の道には春の道にさくらの木が多数植えてある。実際は秋の道にも冬の道にもさくらの木があって、こちらは赤い花が咲いている。
一周するとこの時期にだけ散歩する人たちもいて、実ににぎやかだ。
しかし全体としては花見をしている人は例年に比べて少ない。花見のピークの土日が寒かったり、雨が降ったせいだと思う。
いつもなら植栽の陰に放置してある缶ビールやゴミがない。おゆみ野クリーンクラブのカモシカ姉さんと、安堵の会話を交わした。
「今年は楽だったわね。もっとゴミが多いかと思っていたけれど、さくら公園の上から見ても、花見をしている人は少なかったわ」
ところで、花見は日本人の生活習慣に完全に根付いているが何時から花見を始めたのか気になって、Googleで検索してみた。
幸いに「このはなさくや図鑑」というブログに「お花見の歴史」が載っていた(以下の記述は主としてこの「お花見の歴史」に負うている)。
それによるとさくらの名前が始めて登場するのは、古事記と日本書紀に「木花之開耶姫(このはなさくやひめ)」と記載されているのが始めで、この木花(コノハナ)が「さくら」のことだという。「さくらの花のように美しいお姫様」と言う意味だ。この場合のさくらは山桜である。
大和朝廷の時代には、すでに「さくら」をめでる習慣があり、万葉集にはさくらを歌った歌が41首登場しているのだと言う。ただしこの時代はまだ「さくら」が花の中心ではなく「梅」や「萩」の位置が高かったのだそうだ。
この時代に、山桜を取ってきて貴族の館に移植し、鑑賞することが始まった。
万葉集に「春雨に 争いかねて わがやどの さくらの花は 咲きはじめにけり」と言う歌があり、すでに観賞用のさくらが庭に植えてあったことが分かる。
平安時代になると、花はもっぱら「さくら」になり、古今集の春の歌134首はさくら一色になっていると言う。
みやこ大路にさくらが植えられたのもこの時代で、さくらを貴族以外の人も鑑賞する習慣が始まったらしい。
「いにしえの 奈良の都の 八重桜 きょう九重に にほいぬるかな」と伊勢大輔(いせのたいふ)が歌っているのもこの頃だ。
意味「いにしえの奈良の都の八重桜が、今日は九重の宮中で、常よりも色美しくさきほこっていることです」
その後、武士の時代になると「さくら」に精神性が加わった。
「武士はさくらのように潔くなければならない」
この武士の時代の代表的なさくらの歌として、源義家(八幡太郎義家)の歌が残っている。
「吹く風を 勿来(なこそ)の関と思えども 道もせに散る 山桜花」
意味(「来る勿(なか)れ」という名の勿来の関なのだから、吹く風も来ないでくれと思うのだが、道を塞ぐほどに山桜の花が散っているよ。その散り具合なんといさぎよいことだ)
しかし私の好きな精神性の歌は北面の武士(近衛兵)だった西行のこの歌だ。
「ねがはくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの もちづきのころ」
意味「どうか今をさかりと咲き乱れたさくらの花の下で、春に死にたいものだ。できればお釈迦様の亡くなった二月の15日がいい」
さらに安土桃山時代に入り、現在の花見の様式は決まったようだ。
あの豊臣秀吉の「醍醐の花見」が花見のスタンダードになり、現在まで続いているのだと言う。
どうやら、「さくら」は① 日本原種で昔から愛されていたが、② 本当に「さくら」が日本人の心の一部になったのは平安時代からで、③ 武士の登場とともに「さくら」に精神性が付与され、④ 現代のような花見の様式が決まったのは秀吉の「醍醐の花見」からだということが分かった。
「うぅーん、今回は勉強になった」
四季の道の満開のさくらの花を撮ってきました。あまりに花が美しいのでここ数日は花シリーズになってしまいました。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/204102?authkey=rmyCWEnxEPE
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