(20.4.1)刈田子(かりたご)の春
「おゆみ野四季の道」のテーマソング。以下のファイルをダウンロードすると曲が始まります。
「pianotokurarinetto.mid」をダウンロード
京成電鉄おゆみ野駅の南方に、緑区刈田子(かりたご)町と呼ばれる一帯がある。
おゆみ野が近代的な都市空間だとすると、古き良き日本をそのまま残している異空間で、おゆみ野が開発される以前の農村地帯だ。
おゆみ野駅からほぼ数百mの距離にあり、この場所を訪れる人は一様にその牧歌的な雰囲気に声を上げそうだ。
「ここは日本の原風景じゃないかしら」
特に春がいい。
さらにこの刈田子(かりたご)の一角に苅田郷(かったごう)という「古民具工芸の村」があるが、苅田郷(かったごう)とは刈田子(かりたご)の古名である。ここで陶芸教室が開催されている。
この一帯に住んでいる人は高梨姓が多い。この古民具の村の、いわゆる村長さんも高梨姓である。
私はここの村長さんとは顔なじみなのでなぜ高梨姓が多いのか聞いてみた。
「高梨一族は、元北信濃の豪族で、村上義清が武田信玄に攻められた時、村上氏と同盟して信玄と戦ったのだ。
しかし、残念なことに祖先は信玄に敗れた。そこで昔から関係の深かった上杉謙信を頼って一族は信濃に移った」
「それがどうして、この千葉に移り住むようになったのですか」
「上杉氏はその後北条氏とことを構え、何度も関東に進出している。
その時祖先も従軍したのだが、信濃には土地がなかったから、切り取った関東の土地をもらって住むようになったのだろう。関東のあちこちに高梨姓がある。
野田市にある野田醤油の高梨一族も先祖は同じだ」
「ではその時、苅田郷に住んでいた高梨一族が、ここ刈田子に移り住んだわけですね。
その後はどうしたのですか」
「江戸時代になって、高梨一族はこの土地で百姓をすることになった。
わしの家は本家だったし、庄屋であり豪農だったので農業のかたわら酒造りもしていた。江戸時代の絵図が残っているが、この場所で酒造りをしていた様子が描かれている。
酒造りは昭和20年までやっていたが、うまい酒だった」
「なぜ今、古民具の村を経営しているのですか」
「祖先に対する礼儀のようなものだ。こうしたものは先祖が大事に作り使用していたものだ。それを粗末に扱うことは先祖に対して申し訳が立たない。特に売れるわけでもないがね」
古民芸の村の村長さんの悩みは、農業の後継者が育たず、ここ刈田子(かりたご)でも農地が遊休化することにあるらしい。
どうやら村長さんはこのあたり一帯の農民を束ねる立場にあるらしい。
「ところで、山崎さん、あんた農業をしないかね。10haの農地が遊んでいる。労働力がないからだ。あんた時間はあるのだろう」
「ええ、そうですが、農業はしたこともないしとても勤まりそうはないですよ。農業は技術がいるし難しいですから」
「そうかね、おしいね、それだけの身体をしていて農業ができないかね。農業は国の基本だよ。農業さえできれば食うに困らないよ」
農業者にはとてもなれそうにないが、ここに来て村長さんと話をするのは好きだ。この近辺で日本の農業談義を聞くことのできる稀有な場所だからだ。
刈田子の春の写真を撮ってきました。私の好きな牧歌的な空間です。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/2032?authkey=Iq1PutoDCoM
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