(20.3.30)朗読会に参加した
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先日(27日)、ちはら台のコミュニティーセンターで行なわれている「目から耳から本の世界へのいざない」という朗読会に参加した。
この朗読会は2ヶ月に1回の割合で開催されている。
今回のプログラムは、伊集院 静氏の「陽だまりの木」だったが、私自身は伊集院 静氏もまた「陽だまりの木」も知らなかった。
この朗読会のよさは、自分がまったく知らない作者の小説に触れられることだ。
コーディネーターのYさんが「この時期にふさわしいテーマとして、かなり前からこの本の朗読を決めていました」と紹介していた。
読み手は私もよく知っているHさんだったが、トレーニングをよくしたと見え、なかなかのできばえで朗読を楽しめた。
Yさんが「Hさんは、山崎さんを凌駕したのではないかしら」と言っていたが、そのとおりだと思う。
「陽だまりの樹」という題名は、手塚治虫氏の漫画にもあって、そこでは「陽だまりの樹は一見立派な枝振りで立っている木だが、中身が空洞化している」という意味に使われていた。幕末の徳川幕府を揶揄(やゆ)した言葉である。
伊集院 静氏の「陽だまりの木」も同じ意味かと思っていたらまったく違っていた。
この小説の主人公は65歳になり、今まさに定年を迎えるサラリーマンである。妻に先だだれて一人で暮らしている。
当初は町工場に過ぎなかった会社が、主人公が定年を迎えた時には押しも推されぬメーカーに成長していたが、主人公自身は会社が大きくなるにつれ会社の方針とあわなくなり窓際に追いやられている。
しかし、本人はたとえ窓際の仕事でも誠実にこなしてきたが、今まさに定年を迎えた時、後輩から「本当に長い間ごくろうさまでした」と言われたことから自分の人生を問い直す行動が始まる。
「たった、それだけの、それだけの言葉で済むことでしかなかったのか」
そして、主人公は過去40年間、通勤電車の車窓から見ていた高台に静かに凛として立っている陽だまりの木に会いに行こうと決心する。
この場合の陽だまりの木は実はひたすら誠実に生きてきた彼自身のシンボルであり、それゆえ主人公の気持ちを陽だまりの木に聞いてもらいたい衝動に駆られるのだ。
しかしその木は存在しなかった。実は数日前にこの高台の家の取り壊しと同時に、近くの公園に移設されていたのだが、当初その事実に気づかなく、主人公は悲嘆にくれる。
しかし、ようやく陽だまりの木が存在していることが分かり、公園に行って喜び勇んでその木の下で一日過ごすのだが、そこで小さな町工場の少女に出会う。
そしてその町工場を覗くことによって、彼は昔の小さかった町工場で懸命に働いた自分をおもいだし、この工場に再就職を果たそうとするところで、この小説は終わる。
陽だまりの木とはかれ自身であり、高台の一等地から、工場が密集している公園の一角に移されたが、彼自身も小さな工場に自分自身を見出すと言うストーリーだ。
この小説の朗読を聴きながら、あまりに自分自身の経験と乖離していることに驚いた。同じなのはいずれも出世しなかったと言うことだけで、後の行動パターンはまったく異なる。
私にも後輩から「本当に長い間ごくろうさまでした」と言われたが、実に素直な気持ちで聞いたものだ。
「やれやれ、これで気苦労の多かったサラリーマン生活が止められる。楽しい毎日が始まるぞ」そう思ったものだ。
だから、「たったそれだけの言葉で・・・」なんて思う主人公の気持ちが理解できなかった。
「本当にそう思うだろうか。伊集院 静氏はサラリーマンを知らないのではないか」
しかしGoogleで検索してみると、意外とこの「陽だまりの木」の評判はいい。主人公に感情移入している人が多いのだ。
「うぅーん、うなってしまった」
私の方が異質で、主人公のように「それだけの言葉で評価されては心外だ」と思うのが普通なのだろうか。
これは世の中の定年退職者の方にその時の気持ちを聞いてみるのが一番だと思われる。
定年退職のときに「長い間ごくろうさまでした」と言われてどのような気持ちになりましたか。
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