(21.7.11) よく読まれる記事の紹介 NO1 ピクシーは日本が好きなのだ

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 私の記事の中で、この「ピクシーは日本が好きなのだ(20.4.25)」ほど読まれた記事はない。この理由は名古屋グランパスのファンが、ファンの掲示板で紹介してくれるからで、「ピクシーの面白い記事を見つけたよ」と掲示板にURLを貼り付けてくれるからだと思う。

 すでに掲載してから1年以上立つのだが、今年もグランパスは上位をうかがっており、昨年3位に終わった雪辱を晴らそうとしている。
私自身はアントラーズのファンだが、何とかストイコビッチ監督の下で、Jリーグを制覇してもらいたいものだと思っている。

(20.4.25)ピクシーは日本が好きなのだ

 ピクシーことドラガン・ストイコビッチ名古屋グランパスエイト監督は、日本が本当に好きなようだ。
かつてJリーグ発足当初の1994年から2001年までの7年間名古屋グランパスエイトで選手生活を送ったが、それは彼が29歳から36歳のまだ油が乗っていた最後の時代にあたる。
私は見るスポーツとしてはサッカーが最も好きで、自身は鹿島アントラーズのファンだが、チームを越えてストイコビッチは好きな選手だった。

 ストイコビッチ1990年25歳で、W杯イタリア大会ユーゴスラビアのエースとしてチームをベスト8にまで引っ張り上げているし、1998年33歳W杯フランス大会にも出場しベスト16になっている。
どう見てもヨーロッパの超一流選手7年間もの間、ヨーロッパや南米のレベルから見ると数段劣る日本でプレーをし続けたのは不思議だ。

 しかし私には日本に留まったストイコビッチの気持ちが痛いほどよく分かる。それは彼がセルビア人だったからである。
日本人はセルビア人だからといって特別な感情を持たないし、一般に白人に対しては尊敬の念を抱くが、ヨーロッパでは違う。

 ヨーロッパではセルビア人は一種独特の見方をされる。オーストリアの皇太子を暗殺して第一次世界大戦の引き金を引いたのはセルビア人だし、何よりも1991年から始まったユーゴ内戦では、独立を目指すボスニア・ヘルツェゴビナの住民を虐殺した悪魔の国とヨーロッパではみなされた。

 実際ストイコビッチ自身もレンタル移籍先のイタリアのヴェローナではチームメイトから「悪魔のセルビア人」「ドラカン・ミロシェビッチ」と罵倒されていたという。

 誇り高いストイコビッチがヨーロッパのクラブに愛想を尽かし、日本に渡ってきたのは1994年29歳の時だが、その後彼はヨーロッパのクラブに戻ろうとはしなかった。
日本人のストイコビッチに対する表裏のない声援に彼は初めて安住の地を見出したからだ。
日本はいい。ここは俺の第二の故郷だ

 それに対しヨーロッパでの彼への憎しみが我慢ならなかったはずである。
なぜセルビア人だけが非難される。どっちもどっちじゃないか。
俺は二度とヨーロッパではプレーしない
」彼はそう誓ったはずだ。

 覚えておられるだろうか。1999年NATO軍がユーゴスラビアの空爆を始めた時、彼はユニホームのアンダーシャツに「NATOは空爆を中止せよ」と英語で書いて、グランドを一周した。
ストイコビッチの熱い血潮が騒いだ一場面だった。

 2001年36歳で引退を決意し引退試合として、ユーゴ対日本の試合が日本で行なわれ、彼はユーゴのエースとして出場した。この試合はユーゴでも放映されたそうだ。
その時の模様を現地にいた旅行者がレポートしていたが、日本人がユーゴスラビアの旗を振り、ストイコビッチに「ピクシー、ピクシー」と惜しみない賞賛をするのを見て、セルビア人は皆泣いていたという
そしてその旅行者が日本人だと知ると、そこにいた人全員が彼を抱きしめたそうだ。
俺達のことを認めてくれるのは日本人だけだ

 日本には優秀なセルビア人が来てくれる。オシム前代表監督もそうだが、オシム氏1990年イタリアW杯ユーゴ代表監督だ。
その時のエースストイコビッチだったことは前に述べた。

 嬉しいことにストイコビッチは再び来日し、名古屋グランパスエイトの監督を務めている。昨年まで名古屋は低迷していたが、今年は快進撃だ。ストイコビッチの監督としての力量がたしかなものであれば、岡代表監督の次はストイコビッチの呼び声が高くなるだろう。

 ストイコビッチは思っているはずだ。
セルビアか日本の代表監督になってヨーロッパを見返してやる
日本を第二の故郷としているストイコビッチが日本をW杯ベスト8まで引き上げてくれたらと私は切に願っている。

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(21.7.10) 剣岳登山 走友会  登山NO 33

2008年 62才

剣岳 ちはら台走友会  7月25日~27日


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 今年のちはら台走友会の登山は剣岳だった。25日(金曜日)の夜に出発して、27日(日曜日)の夜に帰ってくる計画だ。
貸切のバスを利用した車中一泊山小屋(剣山荘)一泊の予定である。走友会のメンバーは現役のサラリーマンが多いため、通常は2泊3日のコースをこうして時間を稼ぐ。

 当初は剣岳の一般コースとしてはかなり難関な草月尾根コースを予定していたが、根雪が多くアイゼンやピッケルが必要と分かったため、よりポピュラーな室堂経由のコースに変更された。

 これだと初日6時間かかるコースが4時間程度に短縮される。夜行バスではほとんど眠れないため時間短縮は大歓迎だ。
やれやれ、今回は山小屋で前日の睡眠不足を解消できそうだ

 今回は16名の参加だった。現役のランナーは元気がよく剣岳走破に意欲を燃やしていたが、日頃練習不足のランナーは気持ちがナーバスだ。
一服剣か前剣まで行けばそこで引返してもいい」ぶつぶつ言っている

 一服剣前剣剣岳の前山で、この二つの前山を越すと本体の剣岳に到着できる。
剣岳に登るにはカニのタテバイという難所を登り、帰りはカニのヨコバイというこれも目もくらむような難所を下降しなければならない。
登りと下りのルートが分けられているのは、そうしないと登坂者と下降者が難所でぶつかって動きが取れなくなるからだ。
ここは一般の登山道としては桁はずれに難関なルートと言える。

 本音としては前剣で引き返そうとしていた人が数人いたのだが、誰も自分がやめるとはとは言い出さない。真っ先にやめるなどと言えば後で走友会のメンバーから酒の肴にされてしまう。
みんな、ここまで来たのだからがんばろう登山隊長M氏の言葉にしぶしぶ従った。

 M氏はベテランの登山者だから、危なそうなメンバーと登山暦が多いメンバーと組み合わせて登坂させることにした。
私はSさんのサポートをすることになったが、Sさんは文学をこよなく愛す女性だが、マラソンの練習回数はすくない。

走友会の人たちははやいでしょ。だから私が遅れると悪いと思って、やはりリタイアしたほうがいいかなと思ってしまうの
山登りでは人のペースは気にしないでいいんですよ。自分のペースを守ることが一番大事です

 これが登山の鉄則だ。人のペースを気にするとあせって転んだりしてかえって問題が起こる。

 Sさんは登山暦が浅いため、岩登りのコツを知らない。岩にへばりつき、手で無理やりに身体を持ち上げようとして疲労困憊している。
鎖を持った手を伸ばし、身体を岩から離すのです。そうすると足場のスタンスが見えて、体を足でしっかりと支えることが出来ますよ

 当初は蛙が岩にしがみつくような格好で登坂していたが、岩から身体を離すことを覚えてからは実に快調な登山が出来るようになった。
カニのヨコバイといってもそれほどたいしたことなかったわ
高度恐怖症のスピードランナーAさんが「あんな怖いところはなかった」と述懐していたのと大変な違いだ。

 Sさんが走友会のメーリングリストに登山の感想を記載していた。

恐る恐る(カニのタテバイに)取り付いてみたら・・・腕の力が足りなくて足手まといになりそう・・・
けれどみんなの声に励まされ、山崎さんに助っ人としてついてもらうに至り、決心がつきました。

ちゃんと登ってくる!!』
前になり後になりしてアドバイスしてもらい、時には尻まで押し上げてもらい、さほど恐怖心を感じることなく登って降りれたのでした。
ほんとにホントに山崎さん始め皆さんのおかげです。

 頼りになる幹事のOさん、冷静な登山隊長のMさん、そしてそれぞれに魅力的なみなさん、ありがとうございました。
帰り道、折々に振り返って目にするあの山に、本当に登ったというのが不思議でした

 またTさんは実に愉快な人だ。当初私に「登山なんて何が面白いのかわからない。苦しいだけでくだらない」と言っていたのに剣岳に登坂したとたんに人間が変わった。

 帰りはグループの先頭に立ってリードし、これから登る登山者に会うたびに剣岳登坂の講釈をし始めた。
剣の頂上は実にいいですよ。そう、あなた一人で登るのですか。そうですか。カニのヨコバイはかなり厳しいですが、まあ、元気で行ってきなさい
会う人毎に講釈するものだから、登山隊長から「人が詰まっているから進みましょう」と言われてしまった。

 天候は初日、二日目の午前中と良かったのだが、二日目の午後から土砂ぶりの雨になってしまった。雷まで鳴り出すし、生きた心地がしない。
登山隊長のM氏は「ここで、俺の人生も終わりか」と覚悟していたと言う。

 びしょぬれになってようやく室堂のバスターターミナルに着いたが、この午後から翌日にかけて北陸地方は大雨になり、いたるところで洪水が発生していた。。
ほんの1日違いで剣岳の快適な登山が出来たのだからちはら台走友会立山の神の加護を受けていたわけだ。

 それにしても走友会の登山は例年ハイレベルだ。メンバーの一人が言っていた。
来年はもう少し楽な山に登りましょうよ


今回の剣岳登坂の記録写真を掲載します。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/20725?authkey=OcvXiC03ORg

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(21.7.9) ちはら台走友会の登山  登山NO 32

2007年 61歳
 

燕~槍ヶ岳 7月末の2日間 ちはら台走友会

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 最近はもっぱらちはら台走友会の登山に参加することが唯一の登山になってしまった。

 ちはら台走友会は年に2回、春と夏に登山をおこなうが、今回の夏の登山は燕岳(つばくろだけ)2762mから槍ヶ岳3180mへの、いわゆる表銀座コースだった。メンバーは15名である。7月の末に実施された。
 このコースは登山者にはおなじみのコースで、日本アルプス登山の入門コースとして名高い。
 途中に大天井岳2922mの巻き道や、東鎌尾根の槍ヶ岳直下のような、初心者にとって緊張する険しい場所もあるが、概して穏やかな稜線歩きができる人気スポットである。

2泊3日でこのコースを歩く」と登山の責任者から聞いたときは、「走友会の行事としては遠足みたいなものだ」と思ったが、よく聞くと「車中一泊、山中は西岳ヒュッテの1泊」だったので驚いた。
 このコースの通常の登山日数は2泊3日であり、最近のように年配者が多いと、3泊4日のコースなることもある。

 念のため、山岳マップでコースタイムを調べたら、初日が9時間半、2日目が12時間だった。これは食事時間や休息時間を含めない時間だから、1時間程度の食事時間を加えて、それぞれ10時間半13時間がコースタイムと言うことになる。
うぅーん、走友会らしいハードなスケジュールだ」感心した。
 後で聞いた話だが、西岳ヒュッテの管理人から「本当に大丈夫ですか」と念を押されたと言う。

 夜行バスは、夜中の8時に千葉を出発して、登山口の中房温泉に朝の5時ごろ到着する計画になっており、通常であればなんら問題がないのだが、日頃の走友会を知っている私には不安感がよぎった。
夜、寝かせてもらえないのではないかしら

 不安は100%的中してしまった。いつもの盛大な宴会が始まり、続いてしりとり歌合戦が始まって、てんやわんやの大騒ぎになってしまった。
 大いに酒を飲み、大いに歌うのが走友会の元気印の源だ。

 宴会は一応12時には終わったのだが、熟睡したのは酒盛りと歌合戦を楽しんだ人たちで、私はほとんど眠ることができなかった。
これは、徹夜の強行登山になるけれど、『甲州夢街道シルクロード215Km、36時間レース』の練習と割り切ろう」覚悟を決めた。

 天気予報では、天候は下り坂で、2日目の後半は雨の予想だったが、実際はまずまずの天気で、雨もほとんど降らなかった。
 さすがに、初日の後半は寝不足で頭が朦朧としてきたが、幸いにも西岳ヒュッテで熟睡できたため、2日目は実に快適な登山を楽しめた。
 最近の山小屋の設備は年配者に配慮してよく整備されており、布団も新しく、食事は街のレストラン並だ。

 走友会のメンバーは、相変わらずの酒豪ぞろいで、やれ宿に到着した、槍を登坂した等理由をつけてはビールを飲んでいたが、実は体力も相当なものだ。
 特にK氏などは、遅れそうな人の荷物を持ってあげて、さらに岩場を走るようにして登坂するのだから驚きだ。岩は走るためにあると思っているらしい。
イエティーでないかしら」率直な感想である。

 K氏以外でも、槍からの下りはマラニックだと走り出した会長のY氏や、マラニックの愛好家O氏がいる。
 私のように登山経験40年の者でも「ちはら台走友会のマラニック登山」は驚きだ。普通の人が見たら、化け物ぞろいではないかと思うのではないだろうか。

 この年になってまた一つ新しい経験をしてしまった。

 今回はコースの途中で撮った写真を掲載します。 
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/197

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(21.7.8) 青森の山  登山NO 31

2006年 60才

八甲田・岩木山  10月23日~30日 

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 この年の8月に定年退職した。暇になったので一度行きたかった青森の山に登ることにした。やや時期が遅かったが、津軽にあこがれたのだ。

 八甲田山新田次郎の小説でも名高い青森第五連隊が遭難したところだ。
行ってみて初めて知ったのは、遭難現場はかなり青森市側で、八甲田の連山がそびえている場所ではないことだった。
こんな場所で遭難したのか」意外な感じがした。

 酸が湯(すがゆ)温泉のキャンプ場でテントを張ったが誰もいなく、また風雨が非常にきつかった。10月の終わりになると青森は初冬の厳しさで、夜半は寒くて寝付けない。

 翌日、大岳を目指したが、風はますます強まり、歩くこともできなくなったので途中から引き返した。稜線を吹き抜ける八甲田の風は冷たく強い。真冬ならきっとあおられると、とても耐えられないだろう。
これなら遭難してもおかしくない」納得した。

 八甲田に登ることができなかったので、岩木山は登って見ることにした。弘前市からバスで岩木山神社のテント場まで行き、そこででキャンプをしたが、ここも誰一人いなかった。青森はこの時期になると登山客でテントを張る人は皆無になるらしい。
夜中にヨタカが「ぎゃー」と鳴いた時は、飛び起きてしまった。
実に恐ろしげな鳴き声だった。

 岩木山にはかなり頂上近くまで道路が通じているが、いつものようにふもとから登るルートを取った。途中から沢筋になり、頂上付近は雪が降ったあとがあった。寒かったのですぐに下山したが、10月下旬の青森の山にはもう冬山だということがよく分かった。


八甲田山の写真です。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/18102903

岩木山の写真です。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/18102902

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(21.7.7) 南アルプス南部縦走 登山NO 30

2005年 59才

南アルプス南部縦走 タムさんとその同僚二人 7月31日~8月6

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 今年はトランスエゾに参加しないので,登山をすることにした。タムさんに話したところ南アルプス赤石岳に31日から3泊4日程度で身障者を引率していくことになっていると聞いたので一緒にいくことにした。
タムさん六つ星の会という目に障害のある人に登山をしてもらうボランティアの会のメンバーだ。

 昔、タムさんと登山をしたコースで帰り際にタムさんが雷をおそれて飛ばすので大変きつかった思い出がある。今回は身障者がいるためかなりゆっくりした工程になった。

 初めて目の見えない人のサポートをしたが、二人一組になって前と後からサポートし、身障者は前の人の肩かザックに手を置き、前の人がコースの指示をしながら進むという方式だった。
右に大石
崖で約10m、鎖があって足場はしっかりしている」等だ。 

Image11_2  しかしこの時はタムさんは体調を壊していて,熱と腹下しに悩まされていた。強い薬でかろうじて体調を維持している状況で、無理をしてでも引率していくというような状態だった。

 私の方は時間が十分あったので、タムさんたちと赤石岳3120mで別れてから、南アルプスの南部を縦走することにした
聖岳3011mから茶臼岳2604m、光岳2591mに縦走し、光岳から寸又川に降り最後は林道を40K歩いて寸又峡温泉に泊まることにした。
このコースはやたらと長く通常の登山客は通らないルートで、光岳の小屋でルートを確認すると「夏場だったら一日に一人ぐらいは通りますよ」とのことだった。

道は分かりますか
私なら大丈夫ですが」なんとも分からない返事だった。

 実際行ってみると光岳の下りは道がはっきりとせず,しばしば獣道に紛れ込みそうになった。最後の下りの道を見失い、寸又川のどこに出たのかさっぱり分らなくなってしまった。
目印のつり橋を見つけるまで30分程度、川をうろうろしたものだ。

 ここからさらに寸又峡温泉まで約40Kを歩いたが、林道はほとんど土砂で埋まっており、一部でも残っている場所ではマムシ昼寝をしていた。
遠くから石を投げてどいてもらったが、人がほとんど通らないのでマムシものんびりしている。

 途中で土砂降りの雨にあい、気持ちがすっかりなえてきた。途中の小屋で泊まるか温泉まで下るかだいぶ迷ったが、結局温泉までおりた。
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(21.7.6) トレッキング 登山NO 29

2004年 58才
 

八ヶ岳トレッキング(野辺山100k)競争 5月16日

Image0_2  55才を過ぎた頃から登山のバリエーションが広がった。いわゆるトレッキングにはまってしまったのだ。トレッキングとは山を走る競技で、奥多摩丹沢でよく競技が開催されている。

 山道だから油断すると谷底に落ちてしまう危険性があり、特に夜半行なわれる競技が危ない。私は奥多摩で開催される長谷川恒夫カップという競技に何回か出たが、出るたびに怪我をするのには閉口した。

 崖から滑り落ちたり、木造の橋をくりぬいたりしてその都度死ぬかと思ったが幸いに生きている。
一昨年の長谷川恒夫カップでは、本当に死者が出たのだから冗談で言っているのではない。

 今回参加した野辺山100km最初の30kmがトレイルコースで、コースはほとんどが林道であり、かつ昼間だったので危険ということはないが、タフなコースだった。

 100kmマラソンの世界で、
野辺山を制すれば日本のウルトラマラソンを制するといわれていた意味が分かった。

 最高地点は八ヶ岳山麓の1900m、最低地点が900Mで標高差1000mを一気に駆け上がり、また一気にかけおりるのだから、足に対する負担は相当なものだ。
しかもこうした登りは1箇所でなく2箇所もあった。

 当日はあいにくの雨で、一日中降っていたが、長距離走の場合は寒いほうがよく、天気だとひどく消耗してしてしまう。
この日はそれほど寒くはなかったが、それでも後半になると腹がひえてきた。

 こうした競技を終えた後はそこで一泊してかえるのがベストで、無理してかえるとかなり悲惨なことになる。
この時は帰りのバスは7時半発(ゴール制限時間は7時)で、新宿に10時半についたため、さらに2時間かけて家には最終電車で帰った。

 普段は駅から約20分の道を歩いてかえるのだが、非常にくたびれていたので娘に自動車で鎌取まで迎えに来てもらった。
私は普段は絶対といっていいほど自動車に乗ることをしないので、何かおきてを破ったような気落ちになったものだ。

 

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(21.7.5) 妙義山  登山NO 28

2003年 57才
 

妙義山 4月27日~29日 

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 妙義山は一度行きたい山だった。信越線で横川まで来ると,前に急峻な山並みが続き、ロッククライミングのメッカのような場所に見えた。一度家族でこの山並みに入ろうとしたが、「危険立入禁止」の立て札をみて入山を思いとどまった経緯がある。

 今思えばいかなくて良かったような場所だった。次から次へと鎖場が続き、手がしびれてしまいそうだった。鎖はよく整備されているので,急峻な場所でも登ることはできるが、ここはやはりロッククライミングの場所だと思う。

Image11  表妙義の入口は妙義神社になっていて、大変厳かな雰囲気がある。表妙義裏妙義の谷間に国民宿舎があって、毎日汗を流せたのがうれしかった。

 裏妙義の国民宿舎のまえのテント場でキャンプを張ったが、他に誰もキャンプをする人はいなかった。国民宿舎の風呂を何回も使ったので「ああ、キャンプをしている人ね」と管理人に覚えられてしまった。

 場所によってはザイルが必要だと地図には書いてあったが、その場所には近寄らなかったので詳しいことはわからない。なにしろ朝起きて適当に山に向かい、適当に降りては風呂にはいるという生活だった。

 費用はほとんどかからず、特に上野からのアーバン快速に乗ると2200円(片道)でいける。時間も新幹線と大して違いがない。
岩登りを楽しむためには最適な場所だということが分かった。

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(21,7.4) 熊野奥駆け  登山NO 27

2002年 56才
 

熊野奥駆け  5月の連休 約2週間  タムさんと

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 5月の連休に山登りをしたいとタムさんに言ったところ,吉野熊野国立公園の熊野奥駆けをしようと言うことになった。このコースは和歌山側と吉野側に約1週間のコースがあり,和歌山側の方が厳しいという。2週間かけていくこととした。

 池袋の駅前から夜行バスに乗って新宮に出た。新宮からバスで本宮に行き,本宮の茶店に荷物を置いて本宮の見学に出かけた。この茶店には非常に美しい女性がいて、私が驚いて「雛には珍しい美人だ」といったら、タムさんが笑っていた。

 本宮で足が3つのカラス(Jリーグのマークになっている)をみた。本宮から登山口までタクシーで入ることにした。山道はせいぜい1500mの山並みがつながっているだけであり,天狗岳を除けば決して急峻ではなかったが,行程は相当長く体力勝負のようなところがある。

Image22  無人小屋が整備されており快適に寝られるのだが、私は極力テントで寝ることとした。小屋は嫌いなのだ。

 一方タムさんはどうも無人小屋が好きらしく、テントでは眠らなかった。水は下から汲んでくるのだが,ポリタンクに汲んだ日付が記載されており,なるべく新鮮な水を使用するように指導されていた。

 本宮→大森山→玉置山→笠捨山→行仙岳→涅槃岳→天狗岳→釈迦ガ岳→仏性ガ岳→明星ガ岳→弥山→行者還岳→大普賢岳→山上ガ岳→吉野,がコースだったが,最後の吉野はタムさんはいったが,私は山上ガ岳から川合温泉に降り,そこで温泉に入って,バスで近鉄吉野線の下市口にでた。
二週間も山にいるとさすがに山生活も飽きてくる。なにか下界が何とも懐かしい気分になる。

 下市口からは近鉄特急で京都に出,そこから新幹線で帰った。タムさんは吉野まで足を伸ばしている。

 コースはほとんど奈良県の中を通っていた。熊野の修験道として有名な場所で,このコースを完走すれば修験者としてそこそこの評価がされるのだという。

Image23  熊野古道は世界遺産に登録申請するようで、そうした意味では意義深い山行だった。

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(21.7.3) 北海道の山  登山NO 26

2001年 55才

知床登山(羅臼岳,硫黄山縦走) 8月6日~8日

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 すっかり北海道の山に魅せられてしまった。太古の自然が残っており、人が極端に少ないのがいい。

 この年はトランスエゾ゙500km(宗谷岬から襟裳岬まで1週間かけて走るレースに参加するため北海道に来ていたが、その前の1週間をかけて知床から釧路湿原の旅をすることにした。

 知床連山は海側から見ると大変美しいが,登ってもお花畑が目に映え、ハイマツが手付かずに残っている。
岩尾別温泉から入ったが,入口に熊に対する注意書きがあり,食料は必ずキャンプ場に設置してあるロッカーに入れるように指導してあった。
熊が登山客の食糧を狙って出没するからだ。

 羅臼岳1660mに登り、稜線上をサルシル岳1564mオッカバケ岳1450mをとおり、硫黄山1563mから降りた。硫黄山は名前のとおり活火山で硫黄が噴出していた。

 硫黄山を下山したところにカムイワッカの滝があり、ここには温泉が滝になって流れていた。さっそく裸になって温泉につかったが、温泉の滝は始めての経験だ。

 帰りに斜里岳に登りたかったが,こちらはバスの便が悪く行くことができなかった。北海道では自家用車がないといけない場所が多い。

 仕方なく斜里から釧路に1両の電車に乗って行き,ビジネスホテルに宿泊しながら釧路湿原を歩き回った。釧路湿原には釧路川が流れているが,湿原の真ん中に堤防ができており約10k程度続いていたので,ひたすら歩いた。
ときどき蝦夷シカが現れ、ここが原始の姿を残していることを知った。

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(21.7.2) タムさんと登山  登山NO 25

2000年 54才
 
大雪山系縦走および利尻岳 タムさんと 8月の夏休み 2週間 


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 この年初めて北海道の山に登った。タムさんにルート選定を依頼したところ、白金温泉から美瑛岳2052m、オプタテシケ2013m、トムラウシ2141m、白雲岳2230m、旭岳2290mのルートを作成してくれた。

 北海道までは大洗からフェリーで苫小牧料金は5000円で高くはないが,水戸までの電車賃4500円と,苫小牧から札幌までのバス代1000円がかかる)に出て,そこから札幌から旭川まで電車で行った。当日は旭川の駅頭で寝て翌朝早く美瑛に出、そこからバスで白金温泉に入った。

 当初は時間短縮のためタクシーで登山口まで行こうとしたが、タクシーのネイちゃんが帰りのタクシー代まで吹っかけてきたので断って歩くこととした。
ネエ、あんた達、歩くと遠いよ
いえ、いいです。最初から歩くつもりでしたから

 北海道の山は人の入山が少ないせいか非常に美しく太古のままの趣がある。
こんな美しい山容があっていいのだろうかというほどだ。

Image02  タムさんとはトムラウシまで一緒に言ったが,トムラウシの稜線で天候が崩れ2日間風雨にさらされた。たまたまテントを張った場所が風の通り道だったため、夜中中おきてテントを支えていなければならなかったほどだった。

 タムさんは時間の関係でトムラウシから下山し,私はさらに稜線伝いに大雪山の主峰旭岳まで行くことにした。

 しかし風雨が特に強かったのはトムラウシの側だけで,そこから離れるにしたがって天候は改善し、気持ちよい登山となった。

 北海道は熊が多いため、いたるところで「熊に注意」とか「残りの食べ物を捨てると熊の餌付けになるので捨ててはいけない」とかの注意書きがある。
登山者は熊よけの鈴か、ホイッスルを必ず携帯して、それを鳴らしながら歩いていた。

 途中のキャンプ場で夜半にテントの外で動物のうなり声がしたのには震え上がった。
すわ、熊だ!!!!!」

 思わずホイッスルを鳴らそうとしたが、慌てふためくとホイッスルもならないらしい。空気が漏れる音しかしなかったので、そばに置いてあった食器をたたいたら、テント場中全員が食器をたたき始め、大変なことになってしまった。

 翌日テントの外を確認すると、キタキツネが私のテントの外に出していたゴミ袋を加えて持ち去ろうとしていたようだった。
夜中だと熊とキタキツネの区別もできない。

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 大雪からおりてもまだ時間が十分あったのでさらに利尻岳に登ることとした。稚内からフェリーに乗って利尻島まで行き,キャンプ場にテントをはって登山をした。一番厳しいルートは登山禁止になっていたため、もっともポピュラーなルートで登って、次に険しいといわれているルートを下った。

 帰りは青森によって大学時代の同窓会に参加した。たまたまT君が青森の支店長になっていたのでここで同窓会をすることにした。

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(21.7.1) 息子との登山  登山NO 24

1999年 53才
 

裏銀座縦走 息子と  夏休み 1週間 


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「おやじ、 久しぶりに登山しないか
」と息子が言う。
この年,息子が大学4年生で最後の夏休みだったため,二人で裏銀座縦走をすることにした。


 双六岳2860m、野口五郎岳2839m、,北の俣岳2661m、薬師岳2926m経由で立山に出た。鎌田川よりの登山道を双六まで上り,野口五郎に向かうルートは長い間行って見たいルートの一つだった。
野口五郎は何か歌手の名前のような山だが、双六からみる山容は実に堂々としている、

 テント泊まりだったが、なるべくテント場をはずしてテントを張った。テント場はとてもうるさいのと、歩き疲れて夕刻になるとテントを張る生活に慣れていたためだ。

Image1_2  身体が汗でくさくなると、水場やチトウの水で身体を洗って汗を拭い落とした。

 北の俣岳,薬師岳のルートはうんざりするくらいの上り下りが有り、そのたびに息子と顔尾を見あわせたものだ。
またかよー

 途中から天候が崩れ,立山に出る前はひどい土砂ぶりになってしまった。
私は五色が原に着いた頃は、体温が低下して震えが来ていたほどだ。

 立山で温泉に入り一息つけてから,バスで阿弥陀が原経由で富山に下った。
息子は阿弥陀が原の景色が忘れられないらしく,「富山はひとの住むのにいい場所だ」とその後何回も言っていた。

 富山からは夜行バスで新宿に出た。

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(21.6.30) 単独行  登山NO 23

1997年 51才 

笠が岳周辺(焼岳,笠が岳,双六)  夏休み 1週間 


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 笠が岳2897m
は登ったことがない山だ。特に穂高からみる笠が岳は美しい。今回は焼岳2455m経由で笠が岳に登ることとした。上高地の梓川沿いボクデンの湯まで行き,そこから焼岳に登って,鎌田川沿いに降りた。焼岳では硫黄の臭いがしただけで、雨模様のため山頂の様子は分からなかった。

 鎌田川新平湯温泉で川の側にあった露天風呂に入った。地元の人たちや観光客が大勢いた。

Image0_3  笠が岳に新平湯温泉から入るルートはあまり人が入らず,地図でも廃道扱いだったが,地元の人が整備しているらしく,笹は刈られていた。ただし大変急峻な坂道でほとんどあごが上がってしまい、頂上につく頃はクタクタになっていた。

 笠が岳の頂上には多くの登山客がいたが,私が新平湯温泉側から登ってきたのを知ると驚いて「ルートは大丈夫でしょうか」と聞いてきた。
どうもこのルートは入る人が極端に少ないルートのようだった。

 笠が岳から双六岳2860mまでは天井の優雅なルートで気持ちよく歩けた。双六から雲の平に抜けようとしたが風雨が激しく,キャンプ場で停滞させられた。

 テントは風に飛ばされそうになり、水がテントの下を流れていた。何か嵐の舟の中にいるような気分だった。
こうした嵐が2日間続いたのですっかり気持ちがなえてしまい、裏銀座のコースは今後の課題として下山した。

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(21.6.29) 登山復活  登山NO 22

1995年 49才 

後立山縦走(蝶が岳,常念岳,大天井岳,槍ヶ岳,双六,三俣蓮華,野口五郎,烏帽子岳)  夏休み 1週間強 

Image01  

 長い間登山をしていないと急に登山がとてもしたくなるものらしい。
このところ走ることばかりだったが、夏休みを利用して蝶が岳2677mから後立山連峰の縦走を一人ですることにした。
いつものようにテント暮らしだったので、歩けるところまで歩いてはテントを張っていた。

 この時は徹底的に歩くことにしていたのでバスは使用せず、穂高の駅から歩いて蝶が岳のふもとにキャンプを張り,そこから蝶が岳に登った。昔友達と来たコースだったので懐かしかった。

 この年はなぜか身体が良く動いた。蝶が岳からは槍ヶ岳3180mを経由して双六岳2860mに行き、そこから後立山連峰に入った。このコースは昔、タムさんが単独行で走破したコースだったので、私も一度歩いてみたかった。
三俣蓮華岳2841m、鷲羽岳2924mと越えて行くうちに、何か世俗のことがまったく気にならなくなり、だんだんと仙人みたいな感じになってきた。

 時間的には十分余裕があったので,烏帽子よりさらに足を伸ばす予定だったが,食料が乏しく,腹がひどくへるようになったため(山小屋でひどく高いかんずめを買ってむさぼるように食べた)断念して烏帽子から降りた。

 さすがに1週間程度歩き回ると飢餓状態に近づいてくるようだ。
 下の高瀬温泉の旅館に泊まった。さらに大町行きのバス停まで10k程度歩いて下った。この年は本当に良く歩いたといえる。


(2) 槍ヶ岳 北鎌尾根 タムさんと 8月14日~17日

Image1  北鎌尾根は昔冬季に、加藤文太郎が遭難した場所だ。普通のコースではなく登山道がないため、初めてガイドつきで登山することになった。
ガイドは日本山岳会でもかなり名前の通った人だったが、残念なことに翌年K2で遭難してしまった。

 ルートは全く踏みあとがないというわけではなく注意深く行けば行ける場所だった。イメージはジャンダルムと言うところだ。
これならガイドがなくても行けそうだな」タムさんと確認しあった。

 ルートは湯俣温泉から水俣川を遡り、途中から北鎌のコルに登るルートだった。

 それほど難しいとの印象はなかったが、ルートは自分で見つけなければならず、また最後の槍の頂上への登りはロープがないとかなり危うい場所だった。
頂上につくと、一般ルートで登ってきた登山客から尊敬の目で見られたことを覚えている。

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(21.6.28) マラニック   登山NO 21

1994年 48歳

富士登山競争 7月

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 私は46才頃からマラソンレースに出るようになり、一方登山をすることが少なくなった。前年はまったく登山をしていない。

 その代わりマラニックと称される登山とマラソンを兼ねたような競技に良く出るようになった。富士登山競争もその一つである。

 富士登山競争はふもとの富士吉田市の市長庁舎前から,浅間神社をぬけてまっすぐに昇る富士吉田コースを4時間半で走破しなければならない大変きつい競技だ。

 5合目までは曲がりなりにも走れるが、ポイントは馬返しまでの約10kをしっかりと走って上位につくようにするのがコツで、それより高くなるととても走ることができなくなる。
しかしこのときは残念なことに馬返しの手前で歩き出してしまった。

 5合目からは急斜面が続く。大変腹がへり途中で登山客から食べ物を恵んでもらったが、その時は一種のガス欠状態になっていた。

 8合目にチェックポイントがあり、ここを4時間以内に通過しなければならないのだが、制限時間の4時間6分程度オーバーしたため、失格となってしまった。

 今思えばもう少しがんばっていればよかったのにと思うが後の祭りだ。富士登山競争にはその後2回エントリーしたが、いづれも会社の業務の都合でキャンセルしてしまった。
何事もその時というものがあるのだから、こうした競技は再びの時などないものと思って、全力を尽くすのが必要なようだ。

 帰りはブルドーザ道といわれる砂礫の道をすべるようにして5合目までおり、そこからバスで帰宅した

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(21.6.27) タムさんとの登山  登山NO 20

1992年 46才 

日光 女峰山  Tさんと 春先

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 前年,日光の女峰山2483mで会社の同僚が遭難した。当時人事部長だったAさんから救助隊として出て欲しいと頼まれ,タムさんと出かけた。
遭難した同僚は一人で登山をして、道を見失い女峰山の岩陰でビバークしていたのだと言う。

Image3  女峰山には地元の山岳救助隊が組織されていたが、会社の山岳部も当然捜索に加わるものと期待されていた。しかし実際は会社には山岳部がなく(正確に言うと遊びレベルのものはあったが、ベテランとは言いがたかった)山登りの超ベテランと思われていた二人に白羽の矢があたったのである。
初冬であり、冬山の経験が必要と人事部長が判断したようだ。

 しかし幸い私たちが着いたときには地元の救助隊によって同僚は救出されており、実際は捜索に参加することはなかった。

 翌年(1992年)の春先、女峰山とはどんなところなのかタムさんと確認のため登ってみた。なぜ遭難事故が発生したか知りたかったからである。

Image0_2  頂上近辺には雪が残っていたが、登った印象は非常にたおやかな山でどうして遭難するか信じられないような山だった。
とても遭難しそうにないね」二人で不思議がったものだ。

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